Ⅲ.悲恋って何ですかっ!?
聖女と黒衣の重騎士が愛し合い、付き合っていた。
如何にして、そんな誤解が生じてしまったのか。
話は半年前。聖女が生まれ故郷の異世界に帰還する時まで遡る。
その前より聖女と黒衣の重騎士の仲が親密過ぎると噂は存在してはいた。
それはもう聖女は容姿も人柄も素晴らしい御方である。だから、傍で護衛を行う黒衣の重騎士に羨望と嫉妬が向けられるのは、当然であろう。
甚だしい誤解ではあるが、クリスタにだって容易に想像出来る。
だが、やっぱり決定的となったのは、涙に泣いて、泣き濡れた、大好きな聖女との今生の別れ――になるはずだった一場面。
職場へと行く廊下の端っこを歩くクリスタは在りし日に思いを馳せる。
思い出すだけで涙が滲むあの日――。
◇◆◇◆◇◆
半年前のあの日は今にも降り出しそうな曇天の空だった。
聖女が故郷への晴れの凱旋を果たす日だというのに、まるでクリスタの心を写し取ったかのような空模様。
クリスタは神殿に足を踏み入れた瞬間から、もう涙が止まらなかった。
刻一刻と近付く別れに我慢が出来なかったのだ。
「泣き止んでちょうだい」
と、優しく聖女から慰められても。
「そんなに泣いてると溶けちゃうわよ」
と、眉を八の字した聖女にからかわれても。
「…無理ですよ」
帰還の術の準備が整うまで神殿が用意した部屋で、クリスタは厳つい黒衣の重騎士の格好で膝を抱えていた。
聖女のお願い(命令に慣れていないと言われた)なら、どんな些細な事でも叶えようと努力してきたが、これは無理だ。
泣き止め、なんてどだい無理な話なのだ。
一生、剣を捧げる相手を見つけたというのに。もうお別れだなんて。
聖女に言われたまま、溶けて消えてしまいたい。
いやいや、駄目だ。聖女は世界を隔てた別の世界の違うの場所で暮らしていくだけで――嗚呼。やっぱり辛い。
涙を拭ったハンカチが山を築いた頃。とうとうその時はやって来てしまった。
帰還の術の用意が整ったとの知らせにクリスタは最後の仕事として聖女を広間まで案内した。
今日という日ほど、この厳つい鎧に感謝した事はない。普段は動き辛いわ、暑苦しいわ、視野が狭いわのアーメットヘルムのお陰で泣いてぐちゃぐちゃになった顔を見られはしない。しゃくり上げるなければ、泣いているのすらバレないだろう。
主役は聖女であり、護衛役の末席に出席を許されたクリスタになぞ目もくれない。そもそも、この場に集まったお偉い方は護衛役居るのが当たり前。壁みたいなもんだ。
決して狭くない広間には錚々たる面々。
総本山の神官長、上位神官。アルロイド国王、王妃、王子に王女、王族。周辺国の王族や大使。
これだけの方々が一堂に会したのも聖女の偉業と人柄の賜物。
誰も彼もが固唾をのんで見守る中、神の御業の一つである摩訶不思議な模様を描く円(後に魔法陣と呼び定められる)の中心で白く透明な光に聖女は神々しく照らされている。
秒読み開始になってしまい、クリスタは勝手に落ち込んでいた。往生際が悪かろうともそんなもの知った事ではない。
「有り難う、聖女様」
「お世話になりましたわ」
皆が皆、口々に別れを惜しんだ。
聖女も一人一人に応え、時に涙さえも滲ませていた。
その聖女が最後の最後に自ら声を掛けたのはクリスタだった。
周りの思惑通り――思惑など関係なく、友情を築いた大事な人だったから。
「――クリス」
クリスタには予想外で一瞬だけ涙も止まってしまった。
身分を重んじない聖女らしいと言えば、聖女らしい。
だけど、だけど――!他にも、いるだろうに。
例えば、王族とか、王子とか、第二王子とか、第二王子がっ。
「クリス」
そんな逡巡も二度の呼び掛けの前に霧散した。大好きな人で、誰よりも優先すべき方なのだから。
注目を一心に集めたクリスタは前に出て、聖女の傍らに跪けば、「もう真面目なんだから」と柔らかな、側の彼女にだけ聞こえる聖女の声。
「私の愛しい、大好きな人」
これは聖女とか騎士とかではなく、ただの人としての言葉だ、と前置きして。
聖女はクリスタの両頬に手で挟んで、顔を上に向かせる。
「貴方が居たから、此処での生活も楽しかった。私達二人は友達よ。世界という壁に隔たれようともずっとずっと大切な人」
暈ける視界の向こうで近付いてきた聖女が額に口付けを落とす。
羽根のような口付けはまるで祝福を与えるかのよう。
「何処にいようとも幸せを祈ってるから――私の大事な貴方の」
一枚の絵画のような光景に固唾を飲んで見守る大勢のお偉いさん方はほう、と感嘆の溜め息を誰からともなく洩らす。
見えないとはなんと都合の良い事か。実際には今のクリスタの顔なんて絵になんて、なり得ないのに。
「わ、私も…幸せを願っております、故」
許されるなら、一生お仕えしたかった、と続く言葉は我慢出来なくなった嗚咽に取って代わられてしまった。
それでも有りっ丈の想いを込めたそれは聖女に届いたらしく。頬にあった手が背中に回り、ぎゅっと抱き締められる。
「泣き虫さん、ありがとう」
からかい混じりの笑みを含んだ聖女の優しい声音がクリスタの耳朶に触れる。
「…い、いえっ。こちらこそ。あっ、あり、ありがとうございました」
果たして、クリスタの声は聖女に届いたかどうか。
言い終わる前に広間を柔らかく照らしていた聖なる光がより一層輝きを出した。
宛ら光の爆発であった。害こそあるはずもなかったが、閃光は全てを白く染め、視界を奪った。
クリスタも眩しさに耐え兼ねて目を閉じるしかなかった。が、直ぐに自身に掛かっていた重みが消え失せているの気付いた。
まさか、もうっ。
瞼を無理やりこじ開けるが、そこにはひらひらと舞い上がっては舞い落ちる白い光の粒があるだけ。
聖女の姿は何処にも無い。目を閉じて開いてみたり、目を擦ったりしてみても結果は同じ。
居ない。何処にもいらっしゃられない。
(クリスタの心情的にはそうであろうが、正しくは)聖女は何の痕跡も残さずに戻っていてしまった。
なんて呆気ないのだろう。伝えたい事がまだまだあったのに。未練たらたらだというのに。
「~~~っ」
もう我慢なんて出来なかった。
クリスタは石畳の床に突っ伏して、感情の赴くまま泣き出した。
例え広間のド真ん中だろうとも、例え周囲にお偉いさんが居ようとも、クリスタはわんわんと泣いた。
幻想そのものの光景の中、それこそ幼い子供のように泣きじゃくったのだった。
さて、自分の事で手一杯だったクリスタは知らなかった。気付きもしなかった、が。
聖女とクリスタの別れを惜しむ場面は、見ようによっては別れを惜しむ“恋人”同士に見えていたなんて。
彼の幸せを願いつつ、最愛の人を振る聖女。彼女の想いを受け入れながらも、我慢出来ずに男泣きしてしまった黒衣の重騎士――だなんて。
甚だしい誤解であるが、預かり知らぬ所で聖女帰還の一部始終と共にアルロイド国民に広く知れ渡っていた。
クリスタが聖女帰還の大ショックから立ち直った時には定説とまで言われていたので、唖然と立ち尽くしてしまった――のは言うまでもない。