夢のまた夢
1
ドアを開けた少年の目に最初に飛び込んで来たのは、これぞ完全無欠の円と言うべき満月、そしてそれを背景に佇む一本の桜だった。桜は向かいの家が庭に植えたものだ。塀越しにその姿を見るたび母が、『咲いてるところは綺麗なんだけど、散っちゃったらただのゴミよね』と言っていたのを少年は思い出した。
今は彼女自身が、その命を散らした。
錆びた釘のような臭いが後ろから鼻孔を刺す。少年はそれから逃れるために夜の闇へと走り出した。素足で飛び出したものだから、アスファルトの硬く冷たい感触が直に伝わって来た。
「誰か! 誰か助けて!」
走りながら彼は叫んだ。“狼が来たぞ”と叫び回った少年のように。誰からも相手にされないところまでソックリだった。彼は声の限りに叫んだが、左右に建ち並ぶ家々は優秀なSPのように、喚声を上げて駆け込む少年を弾き返した。
次第に彼は不安に駆られていく。ひょっとすると、この辺りで生きているのは僕だけかもしれない。みんな殺されてしまったんだ。あいつに……。
少年は初めて後ろを振り返った。
だいぶ走ったつもりだったが、まだ自宅の茶色い屋根を闇の中に見て取れた。『上から手を回して開けれるなら、意味ないじゃないの』と母親が愚痴をこぼしていた、背の低い門扉も確認できた。桜だろうが門扉だろうが、とにかく彼女はこの世のものすべてに一頻り何かを言わなければ気が済まない性分なのだ。
傍で聞いていた父親が苦笑いを浮かべ、『まあ良いじゃないか。こんなのは雰囲気なんだから。それとも何かい? 君は全盛期のブブカでも越えられないような高さじゃないと、安心できないのか』そう返したのを少年は覚えている。
あのときは少年も、そんな馬鹿高い門なんて普通の家には不似合いだし、必要もないと考えていた。しかし今――
そうするべきだった。
少年は後悔の言しか浮かばない。そうするべきだったんだよ父さん、母さん。あのとき門の高さをあと二メートルばかし上げていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。少年は袖で目を拭った。それでもすぐに新たな涙が頬を濡らし、滲んで見える世界はサルバドール・ダリの絵に迷い込んだかと思う風情だった。「きいいぃぃいいぃぃいいぃぃいい」
列車が急ブレーキを掛けたような音が――不快な叫びが聞こえた。闇に目を凝らすと自分の後を追って家を飛び出して来る人影が見えた。彼は知っていた――後ろから追い駆けて来るのが男であること、その右手が刃渡り三十センチほどの包丁を握っていること、そして何より、両親が男に殺されたこと――彼はすべてをしっていた。
もう一度涙を拭うと前を向いて走り始めた。
「きいいぃぃいいぃぃいいぃぃいいぃぃいい」
聞こえる声は益々大きくなる。
逃げなきゃ。気ばかりが急いて足は一行に前へ出ない。
「きいいぃぃいいぃぃいいぃぃいいぃぃいいぃぃいいぃぃいいいい」
その声は今や恋人たちが囁くような距離で聞こえた。
苦しい呼吸に上がっていた顔が、今度は疲労のために下がって来ると、地面に長く伸びる影が目に入った。影は二本あった。ひとつは少年自身の。もうひとつは……。ピッタリ重なるようにしていた影から、一本の棒のようなものが生えた。何かを握っているらしいことから、恐らく右腕ではないかと察した。
少年は逃げるのを諦め立ち止まった。動いて刃が急所から外れると余計に苦しまねばならない。結果が同じなら苦痛の少ないほうが良いに決まってる。彼は硬く目を閉じた。殺るなら殺れ――大きく息を吐いた。 2
そのときだ、背中に違和感を覚えたのは。この場には似付かわしくない、何か安らぐものを感じた。その感触に少年は心当たりがあった。
もしかして……。
瞬間接着剤でくっ付いたような目蓋を、恐る恐る解いていった。すると目の前に見慣れた光景が広がって来る。カーキ色の壁紙(枯れ草の中に住んでいるような気分になる、と母は言った)を張った部屋だった。紛れもなく自分の部屋だ。
ということは。ベッドから起き上がりながら考えた。あれは夢だったということか? それにしては随分とリアルだったな。まるで本当に走ったような疲労感がある。悪夢の所為だろうが寝汗もひどい。カラカラの咽喉は奥で粘膜同士が絡まっているようだった。
少年は目ヤニをこそげ落とすと、水を求めて階段を下った。身体を動かすのが億劫だった。肉体的な疲労もさることながら、精神もズタズタになっている。たとえ夢のなかとは言え殺されるのは気分の良いものではない。できることならもう、あんな夢は見たくないものだ。 ――と。
彼は階段の途中で足を止めた。変な臭いがする。真夏の魚屋、刃物で切った傷に鼻を近付けたとき、そして錆びた釘のような……。その臭いには覚えがあった。ついさっき、嗅いだばかりでなかったか。
少年は頭の奥がチリチリと痛むのを感じ、それ以上進むのを躊躇った。だが結局は歩き出した。だっておかしいではないか。階段の半ばで分かるほど強い臭いなのに、一階で眠る両親が何も気付かないなんて。彼は下り切ると手探りで廊下の電灯を点けた。明るさに目が慣れるまで待ってからリビングへ向かう。臭いはそこから来ているらしかった。
近付くと荒い吐息が聞こえた。最初は自分かと思ったが、どうもそればかりではないようだ。
「誰かいるの?」
少年は闇の向こうへ尋ねた。
「ねえ。いるんでしょ」
少しの間。
「きいいぃぃいいぃぃいいぃぃいい」
どんっと背中で音がした。いつの間にか壁際まで退いていた。
闇の中で人影が一歩、こちらへ近付いた。足元でピチャリと水の跳ねる音がする。
そうか、これは夢なんだ。まだ僕は夢を見ているんだ。きっと、そうに違いない。
人影はもう一歩近付いた。
だけど本当に夢なのかな? さっきよりリアルな気もするけど。
さらに人影が一歩を踏み出したところで、その手に包丁を握っているのが見えた。
少年は夢中で走り出していた。三和土〔たたき〕に置いた靴を蹴散らし、震える指で鍵を外した。
ドアを開けた少年の目に最初に飛び込んで来たのは、これぞ完全無欠の円と言うべき満月、そしてそれを背景に佇む一本の桜だった。
このたびは拙作を読んで頂き、まことにありがとうございます。ついでに感想などもらえると大変うれしいです。