二人称形式を考える。
例:書き下ろし(笑)
かなり手探りな項です。
二人称小説である。
この形式の小説は数が少ない。なぜ数が少ないのだろうか。その理由はいたって単純である。
書くのが難しい。
わけではない。極論であって、こういう場でも決してはいけないことだが、地の文の人称が「あなた」や「諸君」のような二人称ならば、それは二人称小説になるのだ。だから、書くことそのそれ自体は、決して難しくない。
では何か。
違和感を与えずに書くのが難しい。
ということである。
【二人称形式の特徴】
一人称にすれば、語り手の意思を詳らかに描くことができる。だから、読者は語り手に感情移入することが容易になる。
三人称にすれば、読者の視点は神様視点となる。だから、物語全体を俯瞰することができる。
では、二人称にはどんな特徴(特長)があるのだろうか。
たとえば「あなた」というのが、その小説で使われる人称だとしよう。その文章に出てくる「あなた」は、冷静に、現実的に考えれば、小説に出てくる主人公のことである。しかし、「あなた」という言葉が使用されていることで、読者は自分に語りかけられているように感じるのである。
ゲームのチュートリアル(操作などの説明のこと)でこんな文章が表示されることがある。
あなたはこれから○○となって、××を□□することになります。
これは言うまでもなく、ゲームのユーザに言っているわけだ。
見かねたA子は、あなたに一房のブドウを手渡しました。
全く上手な文章ではないが、これは二人称で書かれた小説(?)の地の文である。
小説上の展開では、A子が主人公に一房のブドウを手渡しただけであるのだが、前述の通り、「あなた」と書かれていることで、読者は自分がブドウを受け取ったと感じるわけである。
二人称小説の特徴は、
一人称小説以上の感情移入→主人公と自分の同一化
ということである。二人称で書くことで、あたかも読者自身が物語の世界に存在しているような感覚を与えるのである。
【読者に違和感?】
二人称小説が難しいのは、「書くこと」ではなく「違和感なく書くこと」であると、書いた。どういうことか。
ぼくは実を言うと、全く二人称小説なるものを書いたことがない。読んだことも一度しかない(しかも、一部抜粋の文)。だから、「良い文」「悪い文」なんて、書くことはできない。
まず、二人称小説が最も読者に与えやすい違和感というのは、
作った文章だよね
という違和感である。簡単に言えば語りかけられているように感じられないというものである。
「あなた」などといった二人称が使われている時点で、最初読んだときから、読者は自分に語りかけられていると感じる。しかし、そこで自分に語りかけられているような気がしない、気がしてもどことなく不自然だったりすると、物語に入り込みにくくなる。
物語に自分自身を登場させることが魅力である、もしくは語り手と対話をしていることが魅力である二人称小説なのに、それができないのである。
あなたは一本の鉛筆を手に取り、無造作に投げ捨てました。
という文章。ぼくは何も考えずに書いた。
どうだろうか。
何も考えずに書いた、しかも自分の文章なので、違和感の有無がよくわからない。
違和感があると思った人、それが二人称小説で起こりうる違和感である。
違和感がないと思った人、ありがとうございます。
一文ではわかりにくいかもしれないので、もうひとつ例文を。
「馬鹿野郎!」
人鳥があなたに向かって怒鳴りつけました。
「うるさい! 飛べねぇ鳥のくせに!」
腹に来たあなたは、つい、言ってはいけないことを口走ってしまいました。
どうでしょう?
【もう一つの型】
さっそく、某氏よりご意見をいただいたため、追記が可能となった。感謝する次第である。人鳥も二人称小説に関してはほぼ無知であるから、一緒に学ぼうではないか。(この追記を書くにあたり、少々、webサイトに助けてもらった。最初からそうすればよかった)
今まで語ってきた表現を氏は「語りかけ」と呼んだ。
氏が言うには二人称の小説とは「手紙」であるらしい。
このことを踏まえ、ここからは「手紙」としての二人称形式を考えてみよう。ただし、氏はそれ以上のことは書いていなかったので(きっと、人鳥の力を試しているのだ!)、ここからは今まで通り、人鳥の考察である。
【語りかけと手紙の差異】
「語りかけ型二人称(以下語りかけ型)」は、前述に返させてもらうとして、問題なのは「手紙型二人称(以下手紙型)」である。
手紙型→語り手から読者への手紙……
つまりこういう文章だろうか? (ただし、自信はない)
君。君がそうやっているのは勝手だけど、君がそうやって足踏みしている内にどんどんと事態は悪化するんだよ。今は大丈夫だけど、時は待ってくれないんだ。いいかい? 今が動く時なんだ。
とか、
諸君! この声を聞いている諸君に考えてほしいのだ。この難題について。この難題が解けるというのなら、諸君は素晴らしい能力を持っていることであろう。その難題とは、「ライトノベルとは一体何なのか」ということである!
などという文章であろうか。氏の考えに近いかどうかはどうあれ、間違いなく語りかけ型とは異なった型である。そこはかとなく、手紙っぽい雰囲気も醸しているのではなかろうか。
今、君がこの手紙を読んでいるということは、ぼくはもう生きてはいないんだろうね。
これは手紙そのものだが、注目してほしいのは、ここで「君」という語が出ていることである。手紙というギミックは、どの人称であっても用いることができるものだ。人鳥が言いたいのは、手紙と言うギミックを用いれば、一時的な二人称にすることができ、物語に引き込めるのではないか、ということである。
少し前のライトノベルなのだが、『ギャルゴ!!!!!』というものがある。(!が五つだったかは自信がない)
どうしてここに挙げたかというと、これは一人称小説が基本なのだが、地の文の至るところに、読者に対して語りかけてくる部分があるからだ。これがこの記事内で言われている『語りかけ型』か『手紙型』かはいまいち判然としない。
せっかくライトノベルでこのような文章を発見したのだからと、ここで紹介している次第である。
本題に戻ろう。
【雰囲気】
距離感、雰囲気。
一人称の項で、一人称形式の中の型をいくつか紹介した。
二人称でも、二つの形式を紹介した。
同じ、違う型の紹介をしているのだが、書いていて思ったのが、二人称形式のこの二種類の型は、それぞれに全く異なる雰囲気を持つということである。
語りかけ型は 主人公=読者
手紙型は 語り手と読者による対話
という印象を抱いた。
地の文の雰囲気が変わると、それは全く別の小説のように感じるものである。
あなたは「ライトノベルとは何か」という難題を解こうと悩んでいます。
諸君には「ライトノベルとは何か」という難題を解いてもらおうと思う!
少しばかり意味合いが違うけれど、似たようなことを言っている文である。前者が既に考え始めていて、後者は考えろと言われているのだから、その点の違いはあるが、それを省いて考えても、語りかけ型と手紙型の雰囲気の違いは明瞭である。「!」は特に関係ない。
二人称形式は「技巧」と「自然さ」という、一見相反するように思われるものを、同時に表現しなければならない。つまり、表現の「技」と読者に語りかける会話としての「自然さ」である。
二人称形式を使うことができれば、読者をより物語の世界に引き込むことが可能である。
また、手紙型と語りかけ型の二種類の型を、きちんと取捨選択して雰囲気の出し方を身につけよう。
今回は少々、というかかなり、手探りな内容になってしまった。
とはいえ、今後、他の記事も同様だが追記・編集は行われるため、今回は「記事の開設」として許していただきたい。
下記のサイトを参考にしました。
人称(視点について)
http://www.kcat.zaq.ne.jp/kd/writing/3-1.htm
人称wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%A7%B0