一人称形式を考える。
例『君が見せた笑顔-The power of friends in winter-』
『薄桃色の空』
小説を書く時に語り部を配置する場合、いくつかのパターンにわかれる。
・一人称
・二人称
・三人称
これらの形態には、それぞれに長所と短所が存在する。
今回は一人称について。
【一人称の種類】
単に一人称小説といっても、その中でも型がある。
・主人公が語る
・物語の中心ではない、第三者が語る
前者はとても一般的で、人鳥が最も好んで使用する型である。この項の記事は、特に明記されていない限り、こちらの型について。
後者は少々特殊である。この語り部は物語に登場しない。もしくはごくごくまれに登場する程度。芥川龍之介の『地獄変』はこの型。また、拙作『お題小説集』収録の『最後の晩餐』もこの型である。この型は限りなく三人称に近い構図になるが、地の文に「私」などの一人称がくることなどの差異がある。
【読者が得られる情報】
一人称小説において、読者が得られる情報は、すべて語り部というフィルターを通すことになる。前者はもちろん、後者もである。読者として厄介なのは、後者のタイプだ。後者の語り部は第三者であり、人物関係や自分の価値観、好き嫌いで、登場人物をえこひいきしているかもしれないという疑惑が常にある。もっとも、書きようによっては前者でも可能だが、顕著なのは後者だ。
つまり、後者の型で書かれたものは、読者は完全には信用できない。それが物語に奥深さを生むようになる。
【心理描写】
一人称小説が最も得意とするのは、心理描写であろう。
『「……前を向くって決めたのにな」
漏れるのは溜息。
あの日、最後に見た鈴音の笑顔。僕も、あの笑顔が見えて幸せだ。最後の最後で、彼女の『笑顔』を取り戻すと決意し、それは実現された。それまでの道のりも、僕にとって最高の宝物。後悔が全くないわけではないけれど、それでも、十分に納得できるものだ。
なのに。
なんだろう。この最悪な気分は。
泣きそうになるのを必死にこらえる。僕は泣かないと決めたし、もしここで泣いてしまったら、自分の宝物を否定することになりそうだから。必死に。』
『君が見せた笑顔-The power of friends in winter-』より
主人公が呟き、その直後から主人公つまり語り部が、自分の胸の内を語りだす。
三人称にはかなり難しい(不可能ではないかもしれない)手法である。一人称小説の地の文は、心理描写に多く割かれる(書き手によって個人差はあるだろうが、人鳥はそうだ)。 逆に、情景描写は控えめになってしまう。
主人公の胸の内を語るという特質上、一人称でしかできない手法がある。
語り部は主人公。
読者の得られる情報=語り部が語った情報
このイコールの関係が成り立っているからこそできる手法だ。
つまり、語り部の「勘違い」や意図的に「語っていない」、「気付いていない」ことは読者は真相を知り得ない。だから、行動や時刻などの伏線を簡単に仕込んでおき、語り部にそれを意識させないことで、読者に気付かせないという手法である。
また、鏡に映った姿は当然、反転する。反転した姿を見た主人公が反転したままの姿を語れば、読者には反転した姿の情報が与えられる。反転した姿であることに語り部が気付かなければ、読者も気付かない。
もっとも、この手法を使う場合は、それを推理することができるだけの材料(伏線)をちらしておく必要がある。そうしないと、たとえ考え抜かれた設定であっても「後付け」の設定に見られかねない。それになりより、少々卑怯だ。
学園物やラブコメ物のライトノベルでは、よく「勘違い」や「鈍感」をこの手法で表現する。
照れ隠しの悪口。
読者はそれを簡単に見抜くだろう。
しかし、語り部はそれに気付かない。
これの場合は、上記の手法を逆の視点から利用しているのである。
【情景描写】
心理表現に重きを置く一人称小説では、情景描写が不足がちになってしまう。人鳥も、よくその指摘を受ける。
『全体的に、情景描写が薄い感じです。もしかしたら原作を意識されていたのかもしれませんが……メディア転換全体に言えることなのですが、ノベルゲームと小説では文章表現を変えた方が良いと思います。描写の比重を変えた方が良い、と言うべきかな。』―『君が見せた笑顔(略)』宛
『描写が甘くて、パッとしない。』―『スクランブルワールド』宛
どちらも情景描写の不足を指摘する内容である。
ただ、これはある程度「仕方ない」という側面も持っている。あらかじめ言っておくが、これは自分の力不足を認めないがゆえに言い訳・逃げ口上ではない。
一人称小説とは、言ってしまえば語り部が見て聞いて感じたものを文章にしていくものである。語り手は自分が「慣れた」ものや「当たり前」のものを、いちいち語ったりするだろうか。という考え方もあるわけだ。しかしだからといって、その考えに従うだけではいけない。最低限読者に必要な「世界観」などの設定を伝えるときは、当たり前のことでも発言をする。それがないと、読者は置いてけぼりになってしまう。たとえ不自然であろうが、必要なものは必要なのである。
どういうことか。
自分が住んでいる町、使っている部屋、教室、道路、公園、なんでもいいが、とにかく「慣れた」ものを気に留めるだろうか。語り部が語るものとは、語り部が「気に留めた」ものではなかろうか。
ということである。
このことに関しては、『キャラクタの設定を考える。』でも少し触れている。
だが、勘違いしてはいけないのは、情景描写をまったくしなくてもいいわけではないということだ。
たとえば公園に噴水があるとしよう。それはとても特徴的なので、たとえ語り部が慣れていても、一言くらい言及があってもよさそうである。人がいるとかいないとか、そういうことでも良いだろう。
描写が必要な箇所は書き、必要でない個所は書かない。
必要か否かの見極めができるようになることが大切である。
【視点の切り替え】
疑似三人称小説。
地の文は一人称だが、語り部が変わることにより、読者は疑似的に神さま視点で物語を見ることができる。つまり、物語を全体的に見ることができる。
語り手A→語り手B→語り手C→……語り手A のような、視点の変更。
この書き方は非常に便利で、使い方がうまければ物語が面白くなる。しかしながら、【心理描写】で紹介した手法が少々使いにくくなるというデメリットもある。読者は知っているが語り手は知らない、という情報を作りたいときに有効。追いかける者と追いかけられる者、という視点の変更がある場合、読者により緊迫感を与えるような描写も可能になるかもしれない。
ただし。
使いすぎは禁物。
いや、この場合は乱用か。
視点の変更は読者に混乱を招く可能性もないとは言えない。話のタイトルから察することができるものや、明確に誰に代わっているかわかるものなら問題はないだろう。また、誰かわからないが時折出てきていて、「あ、わからないやつだ」という認識を与えることができるのならそれも良い。
しかし、駄目なのは視点変更を扱いきるだけの技能がないままに、徒に視点を変更してしまうことだ。ただただわかりにくいものになってしまう。
慣れるまでは、小刻みに視点変更をせず、一話か二話書いてから視点変更をしてみると良いかもしれない。慣れてからなら、細かいまとまりでの視点変更も効率的で効果的なものになるだろう。
これは個人的な意見だが、一話の最中に視点変更を混ぜるのは良いが、「○○視点」などと視点変更時に書くのはいかがと思う。それを書かなくてもわかるようになって、それでなお書くなら別だが。
例
○○視点
―――――。
××視点
………………。
それをするなら、視点変更時に話を切り替えてしまい、タイトルとして扱う方がよいと思う。
人鳥は『薄桃色の空』において、この形式を用いている。章題に視点「ぼくのお話」「わたしのお話」「きみとぼくのお話」と、視点を示す章題を。話題にはそれぞれ独立したタイトルを振っている。
【スピード感】
一人称小説でスピード感を出すのは難しい。
なぜなら、何かが発生してから読者に伝わるまでの時間が、三人称に比べて長いからである。
・一人称の場合。
発生→語り部が認識する→語る→伝わる
発生→認識前に語る→確認(認識)する→語る→伝わる
・三人称の場合
発生→語る→伝わる
『認識する』と『語る』が同じように思えるかもしれないが、少々異なる。ここで書いて説明するのはとても難しい。
もっとも簡単に理解する方法は、バトル物を書くことである。
そうすると、語り手のバトル中の心理を書き込むことは容易だが、スピード感を出すという点において、三人称の方が容易であることに気づくことができるはずだ。
スピード感が出るということは、それだけ迫力が出るということである。
そういう点から見れば、一人称小説はバトル向きではないと言える。
一人称小説の特徴をつかみ、それを引き出していこう。
得手不得手があるのは当然なので、得意なところを十全に引き出せば、苦手なところを覆い隠すことができるはずである。
自分の文章力に自信があるならば、その苦手を克服する画期的な描写の研究をしてみるのも面白いだろう。それができたならば、その文章は「自分のオリジナル」として強い武器になる。
ちなみに、次回が『三人称形式を考える。』とは限らない。