読者視点を考える。
例:『スクランブルワールド』
【読者はきちんと読んでくれている】
正直に言ってしまうと今回の例『スクランブルワールド』シリーズは、その世界観の設定が甘い。激甘である。そのため、とある厳しい指摘を受けることになった(後述)。
世界観の設定が甘いとどういうことになるか。結果から言うと悲惨なことになる。
『展開にはついていけず、キャラには感情移入することもできず、設定にも納得できず……申しわけないのですが、第一話以外はほとんど楽しめなかったというのが正直なところです。
第一話だけは物語進行が丁寧で、まあまあ良かったかと思います。』
という感想を、一作目で頂いた。重大なネタバレが含まれるから、それ以前の感想は割愛しているが、(書き手視点で)厳しい指摘であり、ぼくも猛省している。
何がいけなかったのかと言うと、伏線のない超展開が連続して起こってしまったことである。また、それに対する説明が不足していたこと、必然性が欠けていたことである。
もっとも、ぼく自身はきちんと世界観の設定はしたつもりだし、できうる限りの必然性を持って書いたつもりである。
お気づきだろうか?
『つもり』という言葉では、その程度の意志では足りないのである。『つもり』という言葉が出てくる限り、書き手の自己満足・自己完結の域を出ない。
ならばどうするか。
以下の事に注意するべき。
・伏線はきちんと張っておく→思い付き、唐突に展開しない。
・設定はきちんと練り上げる→そこに妥協をしない。設定の裏設定までは最低考えておく。
・しかるべき説明はきちんと作中で説明を施しておく→ここで曖昧だったり、説明不足だったりするといけない。また、一か所に集中しすぎてもいけない。(『スクランブルワールド』では冒頭に集中し、読む気が萎えてしまう。※)
この三つを押さえておけば、よほど文章が支離滅裂でない限り「理解できない物語」にはならないだろう。
※一か所に集中している説明例:『スクランブルワールド』第一話より。
『まだ寒さが残っている春の夜。
ぼくはこの町に一つしかないコンビニで立ち読みにふけっていた。まだ深夜と呼べる時間ではない。夜の九時といえば、ぼくくらいの年齢ならば外にいても、まあ表立って文句は言われないだろう。
親も、既に死んでしまっていないことだし。
話は変わるが、世界学という学問は知っているだろうか。世界学というのは、世界のあり方、仕組みの一部を学問としておいたものだ。ただし、それはかなり哲学的な話で、完全に理解できる人は少ないだろう。いや、いないのかもしれない。簡単に言ってしまえば、世界学はこういうものだ。
世間に広く浸透し、人々の記憶に残り続ける物語や概念、架空の生物などは現実に存在するものとしてこの世界に顕現する。
ということらしい。つまり、『ヘンゼルとグレーテル』だとか『三匹の子豚』だとか、『桃太郎』そういった物語すら、この考え方、つまり世界学の分野においては現実に存在し得る、ということである。』
ここでは主人公の「ぼく」が『世界学』というものについての説明をしている部分である。この程度の説明で終わっていればまだマシであったというのに、この説明はこの引用部を含めて、八百六十四字ある。
これでは読み手もウンザリする。
このような内容を説明するにしても、各所に点在させていればそこまでウンザリされることもない。
と、この記事を書いた当初は語ったが、最近(2011'04)では果たしてそうなのだろうかと思ったりしている。というのも、果たして八百六十四字は長いのであろうかということである。この文字数は、ライトノベルの一ページと半分くらいを、一切の空白なく書いたくらいの分量である(一ページ32*16の場合)。
そう聞けば何やら多いような気もするが、しかし、果たしてそれが多いのだろうかと思うのである。
無論、説明は一か所に集中させず、各所にちりばめれば読者も読みやすいという先の記述をひるがえす気は毛頭ない。
これは本当に主観的なことなので、この他の記事・記述以上に無視してもいいことだが――むしろもっと多くてもいいようにすら思えるのだ。
しかし、実際に説明がくどいと言われているのも事実。そこでぼくはこう考える。「説明が長いからくどいのではなく、文章が下手だからくどいのだ」と。
必要な説明は、必要な時に必要なだけ行う必要がある。
問題は、説明の手段だ。
【置いてけぼりになる読者】
『竜殺し』キャラクタが登の場する。『竜殺し』の描写をほとんどしないまま(あえてしていない部分もある)、『竜殺し』と戦闘になり、決着し、曖昧なまま物語が終わる。その目的も、『竜殺し』がいったい何で、『竜殺し』である少年はどうして『竜殺し』になったのかという説明がほとんどない。
読者に伝わっているのは『竜殺し』の基本的な目的である、竜を殺す、ということだけ。
『竜殺し』という存在については意図的に語っていない部分が多くある。なぜならそれは語り部が知りえないことだからだ。そして、語ることを人鳥が良しとしなかったからである。しかし、けれども、同じ語らないにしても読者に違和感を与えない配慮が必要だった。
また、最終話。ラスボス的存在が登場するが、強さが読者に伝わらないまま戦闘終了、なし崩し的に物語も終了を迎える。また、ラスボスの登場すら唐突過ぎた。
これでは物語としての体裁を保っているとは言えない。辛うじて破たんしていないというだけだ。首の皮の繊維一本でつなぎ止まっている状態である。
解決策は前述。
とにかく伏線と設定の練りこみは重要で必要不可欠。
そして、的確な説明を。(説明できない・してはいけないこともあるから、そこは上手に伏せる)
【違和感】
違和感には二種類ある。
・文章そのものに対する違和感
・物語内容に関する違和感
である。違和感はほとんどの場合、悪い影響を及ぼす。文章そのものに対する違和感には
・時制の不一致
・表記ゆれ
・繰り返される同じ比喩・表現
などがある。
時制とは「現在」「過去」「未来」などのことである。現在のことは現在形で、過去のことは過去形の文章で書く、というのは至極当たり前のことである。この部分で失敗をすることはまずないだろうが、書いている時に勘違いをしていると、このようなことが起こりうる。また、書いている時制は正しいのに、きちんと回想していることや、未来を想定していることを明示していなかったゆえに、時制の不一致だと捕えられることがある。
表記ゆれとは、同じ言葉を書いているのに、書き方に違いが生じている状態のことだ。たとえば、一人称の「ぼく」が正規の書き方と決めているのに「僕」や「ボク」などと書いていしまうと、それは表記ゆれになる。「コンピューター」と「コンピュータ」、「キャラクター」と「キャラクタ」、「分かった」と「わかった」。このような表記ゆれがあると、読者が書き方の違いによって意味が異なるのか(それが何らかの伏線になっているのか・深い意味があるのか)、と考えてしまうこともあるだろう。そのような混乱は不要なので、故意に行う場合を除いては表記ゆれは避けたほうが無難。特に「わかった」と「分かった」は混在しやすい。どちらで書くかをあらかじめ決めておくと良いか。
繰り返される同じ比喩。文字通りの意味だ。ただ、これを単純に「違和感」としてしまうのも難しいものがある。というのも、たとえばキャラクタを何かに比喩している場合、そのキャラクタが海に例えられているとしよう――その場合、途中から空のような云々と言われてしまうと、そのキャラクタに対するイメージが変わってしまう。だから、イメージとしての比喩なら問題はないだろう。問題は、別々の――それでも少し似たものを同じような比喩ばかりで表現している場合だ。
彼女の頬はリンゴのように赤く上気した。何事かと思っていると、彼女はリンゴのような赤色の箱を取り出した。
比喩そのものが単調な例で恐縮だが、要するにこういうことだ。「りんごのように(な)」という比喩が続けざまに用いられている。続けざまでなくても、同じ物語の中に同じ比喩表現が何度となく登場している――というようなことになると、文章自体は全く変ではないのにもかかわらず、読者は妙な違和感を覚えるのだ。別の表現法で言い換えると、「つまり」や「だから」「次に」などという接続詞が何度も出てくる作文のようなものだ。文章は間違っていなくても、違和感を覚えてしまう。
違和感のある文章は読者を疲れさせてしまう。しかも内容とは全く関係のない場所で、だ。それはもったいないことであろう。
漫画雑誌などの新人賞の講評で『もっと読者の視点で』や『うぬぼれてはいけない』というようなコメントを見ることがよくあるはずである。読者視点が欠如した作品は、どれだけ作者の自信作であったとしても、理解は得られない。
また、作中にある物語に関係しない違和感は、読者を不安定にさせて疲れさせてしまう。
完成した、書いている最中の作品を書き手ではない視点――読者視点で見る癖をつけていこう。
こんな調子で書いていこうと思います。
ここに書かれた内容は、予告なく変更にある場合があります。