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虚構と現実を考える。

例:西尾維新『刀語』『戯言シリーズ』

  ゆずはらとしゆき『空想東京百景』

  峰守ひろかず『ほうかご百物語』

  木村太彦『瀬戸の花嫁』

  田山花袋『蒲団』

  乙一『夏と花火と私の死体』

  

  人鳥『スクランブルワールド』『よし!空を見よう。』『桜を見に行きませんか。』


  順不同、敬称略


  注:乱暴(噛み砕きすぎた・端折はしょりすぎた)な説明が見受けられます。

 物語は虚構のものである。が、題材は現実のものである。題材となる『現実リアル』をどこまで『虚構フィクション』にし、どれほど『現実リアル』のままに残すか。そのバランスは難しいものがある。

 今回は一般に販売されている小説から、多く例を挙げて考えていく。



【現実と物語の板挟み】

〈歴史〉

 過去の日本や歴史を主題に置いた物語がある。昨年アニメ化された西尾維新の『刀語』や清涼院流水の『パーフェクトワールド』、ゆずはらとしゆきの『空想東京百景』(これをライトノベルと呼んでいいものか悩ましいが、新しい小説形式と見ればライトノベルと言えなくもない)が、人鳥はまず浮かぶ。

 実際に読んだのは、『刀語』と『空想東京百景』の二作だが、両作とも、歴史として見れば荒唐無稽である。


 『刀語』は無刀の剣士が、伝説の刀鍛冶の刀を蒐集する物語である。荒唐無稽であるとした部分は、その設定ではない。蒐集する刀は「絶対に折れない・刃こぼれしない刀」であったり「反対側が透けて見えるほど薄く、同時に美しい刀」であったり、「鎧」であったりと、そもそも一般に刀と聞いて連想する形状をしていないものが多々存在する。


 戦国乱世の後の太平の時代を描いたこの小説は、では、日本の歴史を完全に無視しているのか――そう問われれば、それは否、である。

 土地の名前は本当に存在していたものであるし、刀狩令も登場する。考え方としては、この小説における日本の時代は、ぼくたちが生きている時代とは同じでありつつも異なる、並行世界――パラレルワールドである、と考える方法がある。

 どこかで分岐し、異なった世界。もうひとつの可能性。

 であるから、ここで『本当』の歴史と相違があっても問題は生じない。あくまで物語と設定を優先していく形式だ。

 誰もが知っているようなことを現実に即して書き、あとは飛躍して書く。物語を物語たらしめるため、刺激を増すための脚色を行っているのだ。



 『空想東京百景』は実に虚構である。時代設定は架空の昭和三十年代の日本である。こちらは先に紹介した『刀語』よりもリアリティが感じられるのに、『刀語』よりも飛びぬけてリアリティのない物語となっている。

 架空の昭和三十年代と言いながらも実際に活躍した俳優などの名前が登場し、本当に起きた出来事、当時の流行、社会問題などが事あるごとに物語に登場する。それらがその時代の日本の姿を浮き彫りにし、物語にリアリティを与えている部分である。

 ところが、作中にはサイボーグ、魔銃、魔獣、巨大ロボ、世界を観測する謎の物体、現実と虚構の世界を行き来する人物、巨大化する薬……おおよそ現実では存在しえないものが登場する。

 あらすじを語ることすら不可能な混沌とした物語を展開するのがこの『空想東京百景』である。


 ではこれは荒唐無稽なだけのものなのか。やはりそれも否、である。不思議なことなのだが、現実で存在しえない存在は、そのあまりに現実に忠実な背景(時代設定)と妙な同調を見せている。あり得ないのに、現実のように見てしまう不思議。理解の範囲外に存在するのにも関わらず、どこか理解ができそうな感覚。

 片や現実をリアルに忠実に再現した背景と、片や現実を無視した虚構の舞台装置たち。



 歴史をライトノベルにする場合、どこまでを現実で書けば良いのだろうか。この二作の例で考えると、背景はリアルに、キャラクタやその他設定は虚構を用いて、と見ることができる。誰もが知っているような時代、状況においていかにキャラクタを動かし物語を展開していくのか、そこに勝負をかけているように見える。

 もしくは――その逆もありかもしれない。背景を虚構にし、実際に登場した人物に活躍してもらう形式だ。戦国時代をテーマにしているものならば、織田信長や明智光秀、豊臣秀吉など、有名な人物を主人公や敵方に配置して展開する漫画も多くある。

 漫画の場合は、対立関係は同じでも、その設定によって実際の歴史とは全く異なるものとなっている場合も多い。けれども、物語として面白ければ受け入れられる。





〈寓話・伝承〉

 峰守ひろかずの『ほうかご百物語』は、学園物のライトノベルである。短編連作形式の小説で、その中心には妖怪が絡んでいる。「かまいたち」や「九尾のキツネ」、「つくも神」など、一度は聞いたことのあるような妖怪からそうでないものまで、メジャーなものからマイナーなものまで幅広い。

 ではこれらの妖怪は、実際の伝承に忠実なのだろうか。伝承は土地によって異なるが、大筋としては一致していることが多い。その一致している部分は、物語ではどうなのだろう。

 あとがきには「この物語はフィクションですが、登場する妖怪の設定は実際に存在する伝承に基づいています」という巻があったり、「この物語はフィクションです。登場する妖怪の設定は、伝承や記録を参考にはしていますが、意図的に情報を取捨選択したり曲解している部分がありますので、ご注意ください」という巻があったりと、何巻を読むかによって、登場する妖怪の設定の正確さが異なる。


 ひとつだけ断言できるのは、登場するほぼすべて(ぼくが書いているわけじゃないから、「すべて」とは言えない)の妖怪は伝承や記録に残っている存在であるということだ。根っからの想像で、新たに作り出された新規の妖怪はいないということだ。

 もちろん、物語展開するにあたって、擬人化がなされているのは言うまでもないことだろう。


 人鳥の『スクランブルワールド』。ここで手前味噌である。これも短編連作の小説だ。これは基本的に想像の産物で、リアリティを持たせた妖怪や伝承はほとんどない。吸血鬼にしても竜にしても、ヤタガラスにしてもガーゴイルにしても、原型をそのままとどめているものはいないのだ。

 挙句、新規の存在を登場させている始末である。

 この小説における現実は、学校での生活くらいのものだろう。日常の生活においてのみ、現実に即して書かれている。

 この作品はフィクションです。伝承も記録も無視しています。注意してください。ということだ。



 木村太彦の『瀬戸の花嫁』は人魚が登場する漫画である。この物語の背景にあるのは、『人魚姫』の物語だろう。

 この漫画では人間に人魚の姿を見られた場合、人間もしくは人魚が死ななければならない、という人魚側の掟が存在する。主人公とヒロインは、それによって夫婦となる。

 ヒロインの人魚は極道さんの一人娘であり、友達には巻貝の少女、ワカメの少女、シャチの少年、同じく極道さんの一人娘……ラブコメとして動きやすいようなキャラクタ配置がなされ、『人魚姫』以上に海の世界が広がっている。

 この漫画の海の世界は、人間の世界の文化と類似している点が多い。衣服、食事、世の中は金、役所による統制などだ。これらの類似は、人魚と人が共に生活をするにあたって不都合な点を解消するのに役立つ。



〈寓話・伝承〉を使用する場合、その扱い方はどうするべきか。『ほうかご物語』では極力忠実に書いている。『スクランブルワールド』『瀬戸の花嫁』では、その存在の基本的な設定を抽出し、あとは脚色と演出を加えている。

 その物語においてその〈寓話・伝承〉がどういう意味を持ったものなのか、その重要度によって、現実と虚構の割合は異なってくるだろう。




〈リアリズム〉

 文学におけるリアリズムは、その時代によって異なる。現実って結局こういうことだよね、という主張がリアリズムであると言っても良いだろう。

 とても乱暴な説明だが、小難しい話をするよりは良いだろうと思う。


 私小説。 

 終戦後の低迷した時代、刺激や娯楽が不足していた時代である。その時代のリアリズムのひとつに、私小説がある。これは自分のどうしようもない話、失敗談、間抜けな話などを書き綴り、「人間とはこういうものなんだ」という主張をするものだ。


 田山花袋の『蒲団』は有名だから、タイトルくらいは知っている人もいるだろう。これに登場し、女に逃げられる男は、花袋そのものである。

 女に逃げられ、女が使っていた蒲団のにおいを嗅ぐ。そんな性癖を暴露する。実は私、こんなことをしてましたー。という、どうでも良いカミングアウト、それが『蒲団』である。

 人というものは、こんな一面を持っている。結局こういうものなのだ。私だけじゃない、きっと読者もそうなのだろう? 私はこんなことになったのだけど、きみたちはどうなんだい? そういうものだ。こういう小説が書かれているということから、書かれた時代の背景がなんとなく見えてくる部分もある。同時期に発表された小説を読んでいくことで見えてくる背景、それが実は大切になってくる。この時代に発表された私小説は、ほとんど、カミングアウトの小説だ。


 下手に批判的なものを書くと問題になるかもしれない。でも……自分のことを書くならいいよね! だって、誰の批判もしていない。自分自身の恥ずかしい過去を書いているだけだもの!

 『蒲団』の時代はそういう時代であった、のかもしれない。


 このようなものは基本的に、ほとんどの箇所が事実によって構成されている。なぜなら、そうでないと意味がないからだ。そこに虚構が存在するとリアリズムにはならない。人間の本質を、社会の本質を射抜くのがリアリズムの目的であるのだから。

 そこからは極力虚構を削っていく。



 逆に、フィクションによってリアリズムを訴える場合もあるだろう。このたとえが良いのかどうか、ぼくには判断がつかないが、乙一の『夏と花火と私の死体』を挙げてみる。

 友達に殺された『私』。殺したのは女の子。女の子の兄は、妹が殺したことを知りながら、事故であることにしようとする。そして兄妹は、『私』の死体を隠し、殺人事件の発覚を逃れようと努力を重ねる。


 殺人を犯した場合、自首する場合と出頭する場合と逃げ続ける場合がある。子供の真理としてはおそらく、逃げるという選択をするだろう。ばれないようにする。そうすれば怒られない。責任がふりかからない。そういう心理が働くことは、想像することができる。

 些細な失敗でも隠してしまうのが子供だ。素直に申し出ることもある。でもどちらかというと、隠してしまう。(ぼくがそうだった。もしかしてぼくだけだろうか)

 大人の登場人物だと、本当にただのミステリ、サスペンスになってしまう。が、ここでは幼い兄弟だ。それも本当に出来心での殺人である。大人たちが純粋無垢と思っている子供の心、そこにある黒い感情――それこそ人間である。


 というような意図を乙一が持っていたかというと、きっと持っていなかっただろうと思う。もしかしたら持っていたのかもしれない。それは本人に聞いてみないとわからないことである。もしその意図があったとするならば、これは立派なリアリズム小説として扱うことができるだろう。


 『蒲団』と『夏と花火と私の死体』は虚構と現実の比が真逆である。しかし、人間の心理、現実について書かれている、と考えてこの二つを読んでみると、その内容は似ている部分もある。現実をありのままに描くか、虚構に現実を見出だすか、それは書き手次第である。





〈街並み・風景〉

 特定の土地を舞台とした場合、実在する土地であるならば、どの程度現実に即して書くかという問題も生じてくる。思い切ってほとんど空想で書くという手もあるし、できるかぎり忠実に書くという手もある。


 人鳥の『よし!空を見よう。』『桜を見に行きませんか。』は、人鳥自身の地元をモデルとした小説である。登場する高校とほぼ同じつくりになっている。名前とその由来と学校の裏にある丘の存在以外は、ほとんどそのままだ。作中にはお金を持って遊びにいくという場面があるが、実際の土地では遊びに行くような場所はない。よって、ここもフィクション。

 物語の中枢を担う風景は、両作とも自分が見たことがある風景だ。とはいえ、『よし!空を見よう。』での朝日のシーンは、見たことがある場面のいくつかを組み合わせた風景となっている。


 ここでは実際の土地をモデルにしながらも、物語として書きやすいように設定を追加している。書き手の書きやすさを増すための虚構の追加である。



 西尾維新の『戯言シリーズ』は京都を中心に展開する。

 千本中立売を中心として、徒歩一時間の範囲が主な活動範囲だ。ぼくは京都に住んだことがないから、この活動範囲についての小説内の記述が正しいのかどうかは判断できない。しかし、それを調べた特集本がある。それによると、主人公の住むアパートやヒロインの住むマンションは確認できなかったが、その他の飲食店、他のキャラの住むマンションなどの建物は、ほぼ記述どおりに存在しているようである。監獄風居酒屋なんて存在しないように思うが、この特集が組まれた時点で存在している。


 街並みの設定という点では、非常に現実に即して書かれている。



 町をフィクションで書く場合は、架空の町をでっちあげてしまった方が良いのかもしれないと、ぼくは思う。滅多にないことではあるが、上の例のように、「小説内のスポット巡り」なんて企画が行われた時、架空のスポットばかりでありながら名前は実在の町となったら困る。こんなことは真面目に考えることではないけれど。

 何かの出来事によって激変してしまった――というような設定を持つ場合は効果的かもしれない。





〈学園〉

 ライトノベルではかなり王道のテーマ。学園物のラブコメなんて、掃いてす……言葉が悪い……山脈ができるほど多い。

 学園物はどこまで学園という設定が現実に即しているのか。学園物の定番設定といえば、


 ・学食がある

 ・屋上が解放されている

 ・生徒会が先生とほぼ同等程度の権力を持っている

 ・立派な生徒会室


 というものがまず浮かぶ。自分、もしくは周囲の高校について考えてみてほしい。学食はあっただろうか? 屋上は解放されていただろうか? 生徒会の権力は強かっただろうか? 立派な生徒会室はあっただろうか?

 ちなみに、人鳥が通っていた高校は全てなかった。学食のような場所はあったが経営していなかったし、屋上にはそのドアの前に立ったことすらなく、生徒会の権力なんてあるはずもなく、生徒会室は物置を整理した場所だった。


 考えてみれば、学食の有無は学校によって差がある、で済ませられるだろう。しかしどうだろう。屋上は解放されているだろうか。

 安全性の重要さが周知され徹底されている現在において、屋上を解放する冒険心溢れる学校なんて少数だろう。ないのかもしれない。わからないから滅多なことは言えない。そういう意味では、屋上解放はフィクションといえる。


 生徒会が先生と同等程度の権力を有するというのは、現実的にあり得ないのではなかろうか。先生から厚い信頼を寄せられるようになることはできたとしても、権力までは与えられないだろう。作品によっては部費まで決めてしまう生徒会もある。しかし、学校の金を生徒に任せるだろうか。

 風紀委員を作ろうとしたことがある。もしくは生徒会がその役割の一端を担えるように企画したことがある。結果は「トラブルのもと。時代遅れ」と一蹴された。

 生徒指導的な活動がトラブルのもとならば、金を任せるのは事件のもとだろう。


 立派な生徒会室はあるだろうか。あってほしいと思う。ぼくも活動中は立派な部屋が欲しいと思っていた。しかし、だ。学校はあくまで学校であり、勉強をし交友を深める場である。漫画的・小説的な立派な生徒会室は実在が難しいかもしれない。そもそも生徒会室にそんな予算は割かないだろう。



 とまあ、こんなことを言いつつも、これらが悪いなんていうつもりは毛頭ない。あくまで現実的ではないと言っているまでだ。

 重要なのは、学園物に登場する学園は、ほとんどが私立のマンモス校。財力がまず違う。そもそもの地盤が違う。

 またそれ自体がフィクションであることが重要で、学園の設定のほとんどがifであることを忘れてはならない。「こんな学園での生活を描いてみました」が学園物である。現実的でないものでも、その世界では現実であるということだ。





 現実と虚構のバランスは、その作品において、その要素の重要性が大きく関わってくる。重要だから現実的に書く、重要だからこそフィクションで書く――そこが分かれ目だ。

 読んでいる人に虚構でありながらも現実のように受け取ってもらうためには、ある程度の事実が必要になる。その「ある程度」がどの程度なのか、それはやはり作品によるのだろう。


 歴史を語るなら、歴史についての細やかな知識が必要になる。

 リアリズムを語るなら、現在の世界・人間についての考察を深めなければならない。

 寓話・伝承を語るなら、できるだけ多くのパターンを調べ、それについて知識を蓄えなくてはならない。

 街並みや風景を語るなら、実際に目で見て確かめ、あるいは住んでみないといけない。

 学園を語るなら、実際の学園を知りつつも、魅力的な学園を夢想しなければならない。


 その作品において重要なのはリアリティなのか、物語の演出なのか、そこを考えるのが大切だろう。そうすれば自ずと、現実を書くか虚構を書くかの判断ができるようになるはずだ。 

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