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テンポを考える。

 お久しぶりです。

 頑張って戻ってまいりました。


例:『私が見たもの』

  『よし!空を見よう。』

  『世界最弱の希望』

  『薄桃色の空』

 小説に限らず、色々なものにおいて、テンポは大切である。

 小説の文章におけるリズムとは、


 ・読みやすさによるテンポ

 ・構成によるテンポ


 がある。抜け落ちている部分があれば、指摘してもらえるとありがたい。


 さて、では、ひとつずつ、考えてみることにしよう。



【文章の読みやすさ】

 まず、自分が書く小説群のターゲットを絞る必要がある。この場合のターゲットとは、


 ・何を介して読むか


 である。年齢や性別、嗜好などは、ここでは触れない。こんな文章を書いているが、実はこの人鳥、「なろう」に小説を投稿し始めてから、まだ一年を迎えていないのである('11.02.02 現在)。また、ぼくは自分が書きたいものを書いているわけで、マーケティングを行っていないので、そもそも情報がない。


 本題。

 何を介して読むか、というのは、もうおわかりだろう。つまり、PCで読むか携帯で読むか、である。紙媒体にするにしても、普段どちらで読んでいる人を対象とするか、によって変わる。今回は双方の視点から考えてみる。



『ところで、退屈な日は完膚なきまでに退屈なのにもかかわらず、忙しい日に限って有り得ないような頻度で電話が掛かってきたり、有り得ない密度の世間話に巻き込まれてしまったというような経験は無いだろうか。

 私はある。それはつまり今である。そして前者であるわけで、私は今縁側に寝転がり空を見上げている最中である。客人は全くいない。神出鬼没で来ても不思議ではないのに、長身の友達も現れない。饒舌な友達や消えてしまった友達など論外であり、細身の誰かなど、前記の二人以上に論ずる必要の無い人物である。妹と弟が家にいるのだが、二人とも何やら忙しそうにしている。今現在この状況に限って言えば、私は世界に一人だけ取り残されてしまったような錯覚に陥ってしまっているわけである。もしくは置いてきぼりを喰らったということだ。どちらにしても、私は寂しいわけである。もしかしたら、暇という概念は寂しさという感情から転じて生じるのかもしれない。』

                       『私が見たもの』より



 どうだろう。内容はこの際置いておいて、読みにくいと感じる人はどれほどいるだろうか(ちなみに、本作の前書きにおいては、縦読みを推奨している)? 

 この部分が読みにくいという風に思ってしまうのには、いくつかの理由がある。


 ・文章がつまっている

 ・改行が少ない

 ・やたら漢字が多く、「完膚」「饒舌」「概念」など、見慣れない漢字が多用されている


 という要素が大きな理由であろう。

 文章がつまっていて読みにくいと感じるのは、横書きされている文章を読んでいるからだろうと推測している。

 横書きの場合、一行の空白、もしくは行間が多少はないと読みにくい。文字が潰れているように映るからだ。※


 ※人鳥は縦読みが基本であり、横書きで小説を読むとそのような印象を受ける。単に慣れの問題かもしれないが。横書きを読んでいるはずなのに、目は縦に移動し、そこで多少の空白がないと圧迫感を覚える。



 改行が少ないと感じるのは、書き手であるぼくが意図的にそうしているというのもある。一般的な小説から考えれば、この程度の一段落の長さは普通ですらある。

 携帯小説、ライトノベルでは改行が多く用いられる。詳しくは次の項に回すが、特に携帯小説ではそれが顕著だ。(改行が多いことを批判しているわけではない)

 携帯小説はレイアウトの関係で、ほとんどの場合、一行で改行し、段落を落とす。一文もそれほど長いものではない。そして、これは先の例と重なるが、行間が広く取られていて、携帯で読むのに適したレイアウトとなっている。さらに言えば携帯は横書きが基本である。


 ひとまず、この二つの要素を検証しよう。

 二つの項目から考えてみると、上記のような文章は、人鳥がそうしているように、PCで読み、かつ縦書きで読む人が対象となる。


『「心ってどこにあると思う?」


 そうぼくが聞かれたのは、小学校の四年生のころだったと思う。同じクラスの女の子に、突然、何の前触れもなく聞かれたのだった。

 いや、前触れはあったのか。

 そんな話を授業中に先生がしていたように思う。


「心? ここかな?」


 ぼくはそう言って、胸に手を当てたように思う。

 本当はどこあるかなんて知らなくて、でもなんとなく、胸に手を当てたのだった。


「でも……やっぱり頭なのかな?」』

                       『心の場所』より


 こちらはどうだろうか。先に挙げた例よりも読みやすいレイアウトになっているだろう。これは人鳥にしてはめずらしく、携帯で読む読者を意識して書いたものだ。この小説の目的上、そうする必要があったといえる。

 さておき。

 このようにして見方によっては過剰な空白を持たせることは、横書き――つまり携帯をはじめとするweb小説では読みやすさの上で有利に働く。


 さて、ここで三つ目の問題も見てみよう。

 漢字の多用と、見慣れぬ漢字だ。

 前提として、『私が見たもの』は、意図的にそういう風にしていることは理解していてほしい。一応理由を述べておくと、小説の雰囲気の為だ。ぼくの中で、『私が見たもの』は、大正~昭和くらいの小説で、活字印刷がなされている。

 

 閑話休題。

 

 「完膚」「饒舌」「概念」は、あまり小説を読んでいて出てくるような漢字ではない。「饒舌」は「じょう舌」と書いている場合もある。その他、この小説では「もっとも~」と書くところを、「尤も~」と書いていたり、「~することがない」を「~することが無い」などと、やたら漢字変換している。そういう書き方(を読むこと)に慣れた人であれば、そこでつまることはない。が、慣れていない人であれば、つまり、読むことを中断せざるを得ない。これはあまり良くない。


 『心の場所』はどうだろうか。

 『私が見たもの』のような漢字は特に見受けられない。強いて挙げるようなものもない。『私が見たもの』のような漢字は、ライトノベル以外の小説群ではたびたび目にする。ライトノベルで使用頻度が比較的少ないのは、ターゲットである中高生に対する配慮なのであろうか。しかしまあ、中高生くらいの人にはこれくらいの漢字は読んでもらいたいものである。


 そろそろ次の議題に移ろう。



【文章構成によるテンポ】

 ライトノベルの特徴として、改行の多用がある。


精神こころか。

 肉体からだか。

 強さにも色々あるけれど。けれど――強さ、か。弱さが強さ――見たことがない、わけじゃない。読んだことがないわけじゃない。

 理解はとうとうできなかったけれど。

 知識として、そういう強さの存在は知っている。

「それ以上のことは、話してもらえないんですよね?」

 弱さが強さにつながると言うのなら。

 これ以上語ることは、きっと無駄なことだ。』

                            『世界最弱の希望』より


 実はこの改行は、無意味に施された改行ではない。普段から小説を書いている読者諸君はすでに承知の事実であろう。ここではそれを再確認する。

 改行が多いとどういうことが起きるのか。特に、この例の冒頭三文のような改行の仕方をした場合は、どのような効果があるのだろうか。まず、これの場合は強意(意味を強める/強調)となる。検証してみよう。


 〈例1〉

 精神こころか。肉体からだか。強さにも色々あるけれど。……


 〈例2〉

 精神こころか。肉体からだか。

 強さにも色々あるけれど。……


 〈例3〉

 精神こころか。

 肉体からだか。

 強さにも色々あるけれど。……


 どうだろう、この三つの例から受ける印象はそれぞれ異なるのではないだろうか。

 単語、短文で改行をこのように繰り返すと、歯切れがよいという印象を持つ。これによって強調するということである。この歯切れの良さが、いわゆるテンポである。


 次の例を見てみよう。


 〈例1〉

 強さにも色々あるけれど。けれど――強さ、か。弱さが強さ――見たことがない、わけじゃない。読んだことがないわけじゃない。理解はとうとうできなかったけれど。知識として、そういう強さの存在は知っている。


 〈例2〉

 強さにも色々あるけれど。けれど――強さ、か。弱さが強さ――見たことがない、わけじゃない。読んだことがないわけじゃない。理解はとうとうできなかったけれど。

 知識として、そういう強さの存在は知っている。


 〈例3〉

 強さにも色々あるけれど。けれど――強さ、か。弱さが強さ――見たことがない、わけじゃない。読んだことがないわけじゃない。

 理解はとうとうできなかったけれど。

 知識として、そういう強さの存在は知っている。


 この三つの例も、ほぼ、先の短文の例とほぼ同じ効果であろう。ただし、目的とする効果が違う。

 単語、短文による改行は、歯切れと強意だ。

 長文(というほどに長くはないが)による改行は、歯切れに重点を置く。

 〈例1〉と〈例3〉には、明らかに、読んだ時の印象の違いがあるはずである。感覚の問題であるから、言葉では説明しづらいから、説明が不足することを許してもらいたい。要するに、()()()()()


 たとえば〈例1〉では、全てがひとつの段落で語られている。そうすると、目は流れるようにその文章を追っていくことになる。黙読は目で追うだけの読書法(動作として)であり、大方の人はこの方法で読むだろう。よく、読みやすい文章かどうかを確認する時は、音読をした方がよい、という指摘・アドバイスをする人がいる。黙読と音読では、文章を読むテンポが異なっている、音読の方がそれをつかみやすい、という意図での指摘であろう。

 そういう点から考えた場合、〈例3〉の改行は、黙読において、音読の「、」「。」と同じ働きをする。強制的に「間」を与えるのである。不思議なことに、この「間」は、そのまま空白を与えるだけでなく、同時に、「読書速度を上げる」ことにつながる。次々と文章を読み進め、展開していくからだ。わかりにくい場合、自身の小説で試してみるか、市販の小説などで試してみると良い。目の動きに違いがあるはずだ。


 さて、もうひとつ、今度はライトノベル特有と言える改行法を見てみよう。これは某氏より指摘を頂いき、こうして記事にしているものである。


『改行の多用そのものではなく、一文の「どこで」改行するかがライトノベルは独特なのではないかと感じます。つまり、述語を迎えていないのに句点をつけて改行するパターンが非常に多いということなんですが』

                     『ライトノベルを書く。』宛


 こういう指摘だ。なるほど、と思うわけである。この件に関して簡単ではあるが返答をしているので、興味があれば感想ページで見てほしい。

 このように言われても、どういうことかよくわからないという人は、やはり少なからずいるであろう。そこで、ここでも例を取り上げてみる。


『ぼくは由良の秘密を知りたいとは思わない。知りたくないとさえ思うし、知らないほうがいいのではないかとも思う。知ってしまえば――何かが変わるような気がするから。

 重大かつ甚大で、決定的な変化が起こるように思う。

 そして。

 そんな重大かつ甚大で、()()()()()()()

 唐突に、ぼくの目の前にやってきた。

 ちらちらと雪の舞う日の昼ごろのことだった。』

                     『薄桃色の空』より


『「こうやって空を見上げるのは、小学生のころからなんだよ」

 ()()()()()()

 ()()()()()

 時には不機嫌な空を見上げる。

 静かで穏やかな時間が好きなんだ。』

                     『よし!空を見よう。』より


 氏が指摘したのは、おそらく上記二つの例文に傍点によって示された三つの文のような表現法だろう。まず一つ目の例文は、その次の段落と合わせて一つの文にすることができる。本来ならばこのような表現をせずに、一つの文章にするのが一般的である。

 二つ目と三つ目の文は、句点を読点に変えればひとつの文となる。

 このような文章表現がラノベ特有のものであるというのだ。このような文章表現は、ラノベの書き方として見た場合、強調とテンポを司るものだ。「は」や「を」で文章を区切ることで、体言止めと同じ役割を担わそうとしている。そのため、どの分も、助詞を省けば体言止めとなり、強調の文となる。

 

 しかしながら、この二つの例の場合は「一人称小説」であるということがあり、地の文は主人公という語り手が語っているということが前提となる。そうした場合、最後に語尾を持ってくることで、語りを演出することができる……のではないかと思い、このような表現を用いている。


 この表現法は強調とテンポの変化をもたらすけれども、読み手には不安定さを与える。言いきらない曖昧さ――安定にかけているのだ。

 安定は大切である。日常での会話から少し考えてみよう。


(AはBの手料理を食べている)

B:これ、作ってみたんだ。ちょっと食べてくれないか。

A:ふぅん?

B:どうだ、うまいか。

A:うん、おいしいけど。

B:そうか、よかった。(「けど」なんなのだろう……)


 という曖昧さである。「おいしいけど」に続く言葉が何なのかわからない。言いきらないことによる曖昧さである。「おいしいけど味が濃い」のか「おいしいけど見た目が悪い」のか、さっぱりわからないのだ。あの三つの文章の表現法は、このような問題を孕んでいるわけである。

 また、この手の書き方は体言止めを無為に連発したり、意味なく倒置法を用いるような、ある種の幼さ、稚拙さをにじませてしまう可能性もある。であるから、これらの表現法がそうであるように、大切な場面で、表現が活きる場面で用いるのが望ましい。が、やはりそこは人の采配次第なので、ぼくが意見するのは控えよう。



 さて、ここまで段落だけの話をしてきた。しかし、もうひとつあることにお気づきだろうか。『世界最弱の希望』の例に登場している記号「――」である。

 句読点によるテンポの操作は、今更必要のないことであろうから(強意などの効果があることは、大学までの間に習う。高校まで行っておらずとも、中学でも触れる)、ここでは「――」について見ることにしよう。

 「――」にぼくが与えている役割はいくつかある。


 ・「、」の代わり

 ・素早く目を動かさせる=テンポの加速

 ・絶句

 

 などである。この例では主に、「テンポの加速」である。「――」は見ての通り、発音がする必要がない、ただの記号である。漢文でいうところの置き字である(本来意味はあるが、訳すに際して意味がなくなる)。つまり、そこを読み飛ばす。読み飛ばすということは、その部分は、当たり前だが飛ばされる。目が一気に次の地点まで飛ぶ、ということである。

 文章におけるテンポは目の動きであることは、すでに述べた。


 「――」は読み飛ばされるため、加速の役割を果たす。

 対になるのは「……」だ。これも意味がなく、読み飛ばされてしまいそうな気がする。しかし、どういうわけか、これには加速の役割は果たせない。なぜか。その理由は、極めて明快である。

 「……」は小説において、「沈黙」「無音」「間」「余韻」を表すからである。そのため、その意味をくみ取るために、言葉として認識できなくても、「読む」のである。そして意味に「間」や「余韻」があるから、自然と速度が落ちる。だから「……」が減速の役割を果たすのである。

 ちなみに、「――」には文章表現としての正式な意味はない。空間や範囲を表すのがほとんどで、文章としては鉤括弧の代わりとして使うのが一般的である。



 読み進めている状態を「早歩きしている」と仮定すると、

 

 「。」:立ち止まる

 「、」:つまづく

 「…」:歩く (「……」もしくは「…………」と、「…」二つで1セットが基本)

 「―」:走る (同上)


 という理解で良いのだろうか。実際読んでいて、「。」と「、」では、間の置き方に差異を感じないが、「。」は新しい文章に代わるという点で「、」とは異なる。目の動き方は同じであっても、意識の仕方が変わるのである。

 なんというか、上のたとえのせいで、余計にわかりにくくなったような気がするのはぼくだけであろうか。



 全く同じ文章であっても、句読点、改行、その他記号、などの表現法によって、テンポが変わってくる。それは譜面に、音楽記号を添えていく作業のようなものだ。巧みにテンポを操り、物語に華を添えて読者を魅了しよう。

 自分のテンポを身につければ、小説にまたひとつ、魅力が加わる。

 注意点としては、テンポにこだわるあまり、句読点を奇想天外な位置に打たないようにすることである。

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