推敲を考える。
例:某小説
自分の小説しか例に挙げないとか言っておきながら、結構な頻度で他の人の作品が登場している気が……。
これもリクエストによるもの。しかし、推敲を考えるにあたって、何をテーマにしたものか、さすがに人鳥さんにはわからない。考えてみたけれどわからないから、わからないなりに、推敲という言葉から連想されるものをいくつか挙げていこうかと思う。
推敲は知っての通り、自分が書いた文や言葉、表現を練り直すことだ。よりその文章に即したもの、情緒を表現できるものに書き換えるものである。校正とは異なるので注意。
一応、解説をしておくと、前述の推敲に対し、校正とは書いた文章のミスを見つけ修正する作業である。小説家のなかにはこの校正の段階で、異なる二冊以上の小説のページ数をそろえる試みをしている人もいるようだ。
【推敲をなぜするか】
推敲なんていうものは、(あまりこういうことを書くと、怒られてしまうが)非常に面倒臭いものである。何を言っても、書いたら書きっぱなしがもっとも楽なのである。それでも書き手は推敲を行う。なぜだろうか。人なんて無意味なことをしようとは思わないのだから、そこには何かしら理由があるはずだ。
推敲とは何なのか、というのは冒頭で簡単に紹介をした。
・文、文章の質を高める
・表現を最適化する
これが推敲をする理由である。「推敲」を検索するとこの言葉の成り立ちである故事成語がすぐにヒットする。本当かどうか疑わしく思ってしまうが、たった一つの単語、それだけで文章全体の雰囲気に違いがでてくるということがその話からもわかる。
たとえば、「笑う」という動作だけでもたくさんの表現が存在する。
「笑う」「微笑む(する)」「ほくそ笑む」「冷笑する」「失笑する」「大笑いする」……
と、直接「笑」という漢字が出てくるだけでもこれだけの例が即座に思いつく。語彙がある人なら、これの倍以上の例が思い浮かぶのではないだろうか。さらに、言葉とは面白いもので、必ずしも「笑」という言葉が出てこなくても笑っているという動作を表すことだってできる。
もちろん、前後の文から状況を読みとることが大切なのだが、
「肩を揺らす」「吹き出す」……
と、「笑う」とは違う動作で、その動作主が笑っていることを表現することが可能だ。
この表現の多様さが推敲の大切さを物語っている。単純に「笑う」でも、もちろんいいのだが、表現を「微笑んだ」とすれば、同じ「笑う」という動作でも、その印象は変わってくる。
【推敲を考える】
選択する言葉によって、文章に対する印象が変わってくることは、前項で述べた。前項では専ら動作に関してだったが、当然、修飾語などでも同じことである。
それぞれの言葉が及ぼす印象の違いは、作品全体に大きな影響を与えることもしばしばある。
たとえば某ライトノベル(市販されている小説)では、主人公が自分の暗い気持ちを一言で述べる時、よく「暗澹たる気持ちで……」と表現する。
この「暗澹たる」が肝で、もしこれが「暗い」とか「不安な」とか「面倒な」とかだと、意味としては間違いないのだが、少々物足りない。なぜならその小説の主人公はそのような思いを一つだけ有しているのではなく、全てを有しているからだ。
また今日も行かなくてはいけない。
今日はどのような面倒事をそいつは起こしてくれるのだろうか。
どうか今日くらいは大人しくしてくれ。
突拍子もないことを思いつかないでくれ。
そんなごちゃごちゃした感情を「暗澹たる」に込めている。作品を読み進めていけば、その感情が、感情こそが、その主人公を構成する重要な要素になっていることに気づかされる。と、いうよりも、単純に同調することができる。お前も大変だよな、と思えるかもしれない。
ああ、お前はこういう気持ちを「暗澹たる気持ち」と読んでいるんだな、と。
また別の例で考えよう。
児童書というものがある。一般的に、子供を対象とした本のことだ。この手の本で用いられる言葉は、簡単な言葉であることが多い。難しい言葉を使い、理解できないという事態を避けるためだ。意味をスムーズに理解させるための工夫、もしくは気遣いである。間違っても児童書において、先に例に挙げた「暗澹たる気持ち」などという言葉は出てこないだろう。ぼくはいまだかつて、そのような児童書に出会ったことはない。
否。今、人鳥は国語の教科書に登場する小説群や絵本を連想しているからそう思っているだけで、怪人十二面相なんかにはそういう語が登場するのかもしれない。(人鳥は小学時代、あまり本に親しみがなかった)
もしそうなら、この考察はひどく滑稽かつ無意味なものになってしまう。
が、わかってくれているだろうが、今言っているのは、
・意味をスムーズに理解させるための工夫
ということだ。「暗澹たる」の部分は、どちらかと言えば技巧である。まるで伏線のように、その言葉が使われていると、最初に読んだ時は思ったくらいだ。
で、だ。
意味をスムーズに理解させるための工夫としての推敲は、単純に言葉を簡単にするだけではないけない。いかに的確な表現にするか、が重要になる。それは専門書をわかりやすいように書き換える作業にも似ている。
専門用語を専門外の人に説明する時、専門用語で説明してしまっては意味がない。その人が理解できる言葉を用いて説明をしなければならない。これは語彙がなければできないことだ。
忘れていた。
これのリクエストをくれた人から、「どれだけの時間をかけて推敲をしているのか」という疑問が提出されていた。
今回はこれに答えて、この記事を締めようと思う。
どれくらいの時間をかけて推敲をするか。
ぼくは推敲にはあまり時間をかけない。こんな記事を、しかもこんな内容を書いておきながら、あまり時間をかけないとなると、それは矛盾していると思うかもしれない。
ぼくは推敲に駆ける時間を、むしろ校正の方に当てている。とはいえ、やっぱり間違いを良く指摘されたりしてしまうのだが。
推敲は書きながら行う場合と、書きながら行う場合がある。筆がのっている時は推敲は書きあげてから行うが、筆がのっていない時は手を止めて、推敲に移る。これがぼくのスタイルである。
勢いは殺してしまってはいけない。勢いに任せて続けていくと(破たんはしないように)、それだけ内容にも勢いが出てくる。逆に勢いがない時というのは、とことん勢いがない。そういう時に書いていると、勢いがないものになる。だから、その勢いが停滞してる時に推敲と校正を行うわけだ。
方法は、読み返すこと。内容の流れを考えながら(続きも書かなければならない)正しい表現と、間違いを探していくのである。この方法では勢いがなければないほど、推敲・構成の時間が長い。記憶にあるものだと、一時間くらいその作業をしていた時がある。結局、その日は執筆を止めた。
勢いにのったものも、その日の執筆の最後に見返す。読み返すのは大体、一~三回だ。初校、再校、念校である。
連載物、とくに『世界最弱の希望』のような全編書き下ろしのものについては、推敲よりも断然、校正に時間をかけている。表現の稚拙さよりも、誤字・脱字の方がはるかに恥ずかしいと感じるからである。
『小説家になろう』に投稿する際、注意しておいた方が良いことを少々記しておくことにしよう。これは推敲のことではなく、校正に関することだ。
まず一つ目。
ルビを使用している人は多いと思う。この『ライトノベルを書く。』では、主に傍点、つまり「あいうえお」の「、」である。これに注意すべき点がある。一文にまとめて傍点をふると、使用しているブラウザが「Internet Explorer」なら問題ないが、「Google Chrome」なら傍点が中央によってしまう(その他ブラウザは未確認)。
2011/12にブラウザ「Safari(windows版)」を使用、検証。
検証した結果、「Safari」でも傍点が中央によってしまう。
2015/08:ブラウザ「Microsoft Edge」を使用、検証。
結果:問題なし。
2015/8:ブラウザ「Fire Fox」を使用、検証。
結果:問題なし。
例
「ライトノベルを書く。」
持っている方は、この一文を「Google Chrome」で見てみてほしい。真ん中に傍点がよっているはずである。よっていないなら、ぼくは涙目になるしかない。
これを回避する方法は、一文字ずつ傍点を振ることである。
二つ目。こちらはこの投稿フォームで直接書いているのではなく、「word」をはじめとしたテキストファイルで書いたのち、コピペしている人が注意すべき点である。自分が書いている時は段落を落としていたはずなのに、コピペをすると段落が落ちていないということが稀によくある。つまり、よくある。
書いた時にも段落は確認するだろうが、改めて、コピペ後にも確認することを強く推奨する。
推敲は文章を書く仕上げである。その表現で本当に大丈夫であるか、読者に伝わるか、理解してもらえるか、だませるか、想像を膨らませられるか、緊迫感が出るか、恐怖心をあおれるか、感動させられるか――一つの言葉の意味と重みを知る作業である。
次回更新予定『テーマを考える。』