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情景描写を考える。

例:『世界最弱の希望』

  『未発表作』

  『版権物の某小説』

 心理、行動、ときたら、情景である。

 小説、殊にラノベとなると心理と行動、情景、そして情報の四つの描写を不規則に繰り返すことで成り立っている。物語というものは、描写の連続である。

 心理と行動は、キャラクタに関する描写。

 情景は世界観に深く根ざしている。

 情報はいわゆる物語背景の描写である。


 今回は情景描写について。


【描写の種類】

 一人称形式と三人称形式での描写の違いを考えていく。同じようにも思えるが、やはり、人称が違うということは描写にも違いがあるはずである。些細なことであっても、だ。


 一人称

『まず目に入ったのは、木。

 木。

 見回してみても、見えるのは木だけだ。知っているぞ。こういうのを森っていうんだ。

「……どこだよ、ここ」

 あまりに暗いと思って空を見上げると、空には黒雲が立ち込めていて、今にも化物がその黒雲の間から現れそうだ。周囲は木々が生い茂り、ぼくが立っているこの場だけが石で造られたステージのような場所だ。誰かが手入れをしているのか草一本生えていない。

 ぼくが立っている石のステージには、何やら不気味な紋が描かれている。赤と黒で線が引かれていて、なんとなく魔術めいたものを感じる。』

                          『世界最弱の希望』より 


 三人称

『街灯以外に明かりはなく、両脇に並ぶ商店はみなシャッターを下ろしている。等間隔に並ぶ街灯だけが、ここに人がいることを主張している。本来なら車が通っているはずの道路も、今は自転車すら通っていない。そんなある種の気味の悪さが漂う道を、さちは歩く。

 きょろきょろと周囲の様子をうかがう。いくら見回してみても、営業している店は見つからなかった。田舎の商店街で、普段からそれほど活気づいているとは言えないのだが、人っ子一人いないなんてことはまずない。おかしいな、と思いつつ、さちは歩くことをやめない。』

                          『未発表作:タイトル未定』



 一人称の例。これは異世界に飛ばされた「ぼく」が初めて見た異界の森について語っている場面である。

 描写の順番は、おそらく見知らぬ土地に立たされた者が見るだろう、と推測できる順番になるようにした。

 

 木(正面)→木(周囲)→空(上)→石のステージ(下)




 三人称の例。こちらは 全体→一部→全体 という順番に書いた。ここでは書かれていないが、描写されているのは商店街である。

 目線としては「さち」の目線を意識している。

 正面から見た時、街頭以外の明かりがないので、視界は暗い。だから、その暗さを第一に表現する。次に、目を凝らすと気付く、シャッターが下ろされているという事実。そして最後に、見回すことで再確認したことを書いている。




【各感覚器官による情景描写】

・視覚

 背景を描く時、順番を重要視する必要があると思う。必ずしもそれに倣う必要があるかと聞かれれば、ぼくとしては返答に困るところだが、「無難で自然な描写」という観点から考えていく。

 

 一人称では、語り手が目にした順番。

 三人称では、大きいものから小さなものへ。


 というのが無難で自然な描写だと考えられる。どういうことか。


 一人称では「人の顔」を例に考えてみる。

 自分が人と出会った時、まず見るのはどの部位だろうか。おそらく、多くの人は次の順番で見るだろう。


 全体の輪郭→目→鼻→口→耳→髪


 ここで髪型が奇抜だったり、髪色が奇抜だったら、髪を全体の輪郭よりも先に認識しようとしてしまうかもしれない。また、耳が髪に隠れていたら見るなどという以前の問題だ。


 ここで重要なのは 全体の輪郭→目→鼻→口 の部分。


 全体の輪郭、というのは体格を顔よりも先に認識するから一番にもってきているが、顔だけで考えれば、もっともインパクトの強い部位は目である。

 すると視線はインパクトの強い部分にひきつけられ、後に流れる動作で全体を認識し始める。とはいえ、人の体には個人差というものが存在し、口が大きい人、鼻が高い人、ほりが深い人、耳が大きい人、それぞれに特徴がある。そういう人に関してはそこから見てしまうだろう。


 ここで言いたいのは、顔を描写する時は()()()()()()強い順に描写するべきだということだ。そうすると、その語り手がどこに気を取られているのか、ということが分かる。

 胸が大きい女性と会った語り手が、顔よりも胸を先に語り出したら、その語り手は胸に気を取られている、ということが伝えられるのである。そういう描写をしない描写も使えるようになりたいものだ。



 三人称では大きいものから小さいものへ描写をするのが妥当ではなかろうか。

 簡単に言ってしまえば、一人称の描写とほぼ同じである。大きいものほど目に早く入る、ということだ。ただやはり、ここでも例外というものは存在していて、存在感溢れる存在、というものは一番に描写した方が良い。もしくは全体を書いたのち、その存在をさらに強調する形をとるのも良いか。

 そこは個人の采配である。


 パーティ会場で考えてみよう。

 まず描写するのは、会場全体の様子だろう。来場している人の数や、状態(立っているか座っているか、話しているかそうでないか、など)だ。

 次に来場している人の様子だ。楽しげにいる人もいれば、もしかしたら退屈しているかもしれない。そういう描写を入れて、視点を小さくする。

 ここで存在感溢れる人がいるならば、その人にスポットを当て、その人に対する印象を周りの人に語らせると、スポットはその人に当てていながら、ある程度広い範囲も描写することが可能になる。


 逆に、個人から会場全体に描写する視点を広げた場合どうなるだろうか。

 ぼく個人の感想では、なんだか痒いところに手が届かない、という感覚を覚えるだろう。個人についてはわかったけれど、どんな会場にいるの? まわりはどうなの? 少しくらい書いてよ、ということだ。読み進めれば書いていて想像が膨らむのだが、それまでは勝手に人数を想定しているから、その想像と現実が食い違った場合に些細な違和感を覚えるのである。




 ここで少し、息抜きとして特殊な例を挙げてみよう。某ライトノベルの描写なのだが、語り手がインパクトを受けたものを語る、という観点から考えればその最上級なんじゃないか、と思えるようなものだ。

 どのようなものか。引用したいが、さすがに法に触れるので、簡単に説明をする。


 語り手(男)が学校から帰る途中、同級生の女子と話していた。その女子は委員長の中の委員長、委員長の申し子と呼べるほど校則を遵守している。スカートの丈も膝下数センチを守っている。

 話していると一陣の風が吹いた。風はお約束のように女子のスカートをめくり、お約束のように語り手はその女子のスカートを拝むことになる。その時間、一秒。その一秒の出来事を、語り手は二段組み構成のページで、4,5ページにわたり語っている(手元にその作品がないので、正確なページ数が書けない)。下着の細かい装飾についてまで語っている。非常に熱く語っている。


 この異常ともとれる語り手の下着への執着は、語り手の性格をよくあらわしていると思う。この主人公は下着以外にほとんど語っていない。これも描写をしない描写だろう。

 つまり人鳥は、一人称小説の場合は語り手の性格すら、描写には影響するということが言いたいわけである。


 細かい描写法は個人の感性次第だろう。比喩を用いるのも良いし、端的に書くのも良い。比喩をするにしても、わかりやすい比喩にするか、芸術性を高めた比喩にするか、という問題もある。語り手がいるなら、比喩もキャラクタを表現するギミックになってくる。

 さらに言えば、世界観にあった描写をする必要があるだろう。剣と魔法のファンタジーで、たとえば現実の政治を例に挙げられたりしたら、一気に読者が現実に引き戻されて世界観を壊してしまう。



【視覚以外の情報】

 今までは視覚に重点を置いて書いてきた。次に考えるのは、視覚以外のことである。人の五感を働かせることで感じることができる部分に関しての状況だ。


・嗅覚

 人はほとんどの情報を視覚から得ている、視覚による情報に頼っている、と言われているが、実は嗅覚から得られる情報というものは、視覚以上に敏感に察知・認識している。

 人が何かにおいを嗅いだ時、瞬時にそのにおいが何のにおいであるかを理解するはずだ。どこからともなく漂ってくる香り・異臭に対し、敏感にそれが何のにおいであるかを理解しているだろうと思う。かすかににおってくるものでも、それが何なのかはわかる。

 また嗅覚には状況の変化に気付くきっかけになったり、精神的な変化のきっかけになる。


 たとえば火災が起きた時、火災現場から異臭が発せられる。それはとても独特な臭いで、それを感じればすぐにどこかで火がおきていることがわかる。また家庭で食事の時間となった時、出来上がりが近づくにつれ、料理の香りが濃厚となって、完成に近付いていることとそれが何の料理であるのかということがわかる。これは視覚には頼らない情報だ。


 精神的変化のきっかけになる、というのはどういうことか。

 アロマ(芳香)という言葉を最近耳にすることが多いと思う。アロマをなぜ使用するかといえば、まず空間を香りによってコーディネイトするためだ。さらにその理由は、その香りが好きだからだったり、リラックスができたり、やる気が出てきたりと、自身の気持ちを操作することができるためだ。

 自分にあったアロマの使用=香りをかぐ、という行為にはリラックス効果があり、また認知症の治療にも用いられるなど、人に良い影響を与える。ただし、香りの種類によっては時間帯の問題で逆効果になったりもするが。

 逆に自分が不快になるような「臭い」を嗅いだ場合、文字通り不快になる。いらいらしたり、気分がわるくなったり、体がだるくなったりと、悪い影響が出てくる。

 ただ、においに対する慣れはとてもはやくやってきて、いつの間にか感じなくなっていたりする。そこにも注意することが大切だ。


 その場に漂うにおいにも意識は向けておきたい。


・聴覚

 つまり、音である。声、足音、衣擦れの音、風の音、川のせせらぎ、電子音、爆音、音には様々の種類があって、常に何かしらの音がしている。先に挙げた『タイトル未定』では音の描写も、先の例のにおいの描写も気温の描写もない。

 ただ、街灯しか明かりがなく、車の通っておらず、自転車もなく、普段から活気のない商店街で、現在そこにいるのは一人の少女だけ、となると、どうしようもなく静かであることは確かだ。そこに聞こえるのは風の音と、さちの足音くらいのものだろう。

 音というのは、周囲の状況から判断することもある(小説において)。ただ、少しでも書いておくと具体性が出てきて、より忠実な想像をすることができる。

 不気味な雰囲気を醸すことも、景気のよさを醸すことも、場合によっては登場人物の心境を象徴的に表すことだって可能だ。


 音もにおいと同じような効果を人に与える。良い効果、悪い効果、ともに。

 さらに音に関する描写の有無は、臨場感という点において非常に重要だ。そこに聞こえる音がどのような音なのか、何から発せられる音なのか、その描写をすると臨場感が出てくる。臨場感はその世界に引き込む為には大切な要素であるから、それが出てきているか否かという問題の重要性がわかるだろう。

 

 擬音というものが存在する。カチッ、とか、ビチャ、とか、バシャ、とか、そういう音を表現するために用いる言葉のことだ。擬音には正しい描写というものはない。蛙の鳴き声は、一般的に「ゲロゲロ」「ゲコゲコ」「グァグァ」などと表現されることが多いが、それにこだわる必要はどこにもない。むしろ、それ以外の表現をする方が、世界観に即している場合だってあるはずだ。独特な表現を用いると、それが世界観に即していれば、とても印象的な表現となる。


・触覚

 痛覚、快感、熱などの刺激を感知する感覚。痛覚や快感は説明の必要もないだろう。熱はただ触れた時に感じる熱だけでなく、気温もそれにあたる。その場所は暖かいのか寒いのか、それともそのような感覚をあまり覚えない、自身にとっての常温なのか。

 ものを触れば、それの触感がある。硬いか柔らかいか、すべすべなのかザラザラなのか。ぬめりけの有無など。

 情景描写の場合は主に気温が大切な要素だ。気温の描写をすれば、たとえば服装に関する描写がなくてもある程度は想像することができる。

 また季節を同時にあらわせば、季節に対するその土地の温度がわかり、その場所の土地柄も表現することができる。


 風が吹いていることも表現すると面白いだろう。風の強さは単純に風の強さだけを表しているのではなく、そのあとの展開を示唆するものになることもある。展開を示唆するものは風よりも天候で多く用いられるが、それは後述。

 展開を示唆する他に、やはり風にも登場人物の心境を表現する効果がある。単純に風が吹いているから風が吹いている、と書く場合と、心境を表現したいから風が吹いている描写をするのとは使い分けたい。


・味覚

 果たして味覚で情景描写をすることはあるのだろうか。はなはだ疑問である。

 しかし、これを味覚に限定せず、口という器官にその範囲を広げれば、できなくもないかもしれない。が、人鳥にはどうも思いつかない。なにかアイディアがあれば、教えていただけるととてもうれしい。



 以上のように、視覚による情景の表現以外にも五感を用いた表現が存在する。五感を用いた表現は、読者に臨場感を与え、物語の世界に引き込む。より現実感を与える描写として重要なものだ。

 何気なく外を歩いている時、少し周りを見渡して、どのような場所なのかを考えてみると面白いだろう。


・天候

 五感ではないが、大切な要素。

 晴れ、雨、曇り、雪、嵐、にも様々なものがある。雨を表現するだけでも、たくさんの表現がある。雨が降っているにしても、その程度がわからないと想像のしようがない。申し訳程度に降る雨なのか、土砂降りの雨なのか、雨が降っている状況が大切でかつ、その程度も大切な要素なら確実に書く必要がある。雨の程度は必ずしも書く必要はないだろうが、程度を示しておくと、今までの描写同様、リアルな描写となる。

 雨が降れば水たまりができる。

 雪が降れば積もったり、凍ったりするかもしれない。

 曇りなら視界はやや暗くなる。

 天候がその情景に与える影響は大きい。天候に関する描写がない場合、読者は基本的に晴れ~曇りの天候を想像する。「~」の部分は雲の量の差に個人差があるだろうということで、特に深い意味はない。

 ただ、快晴なら快晴と書いておくのも大切。単純に晴れという想像だけでも通じる部分はあるのだが(人鳥自身、それで通すことも多い)、天候を描写することが大切になる場面も多々あるので、そこはきちんと書くようにしよう。




 いかがだっただろうか。情景描写は他の描写と同様、やはり人称が関わりを持ってくる。一人称の場合は語り手の性格が大きなカギになる。さらには描写順にも気をつければ、スムーズに状況を伝えられるようになる。描写順を効果的に変更すれば、読者に与えるインパクトの性質も変わってくる。

 人の五感も大切な要素となる。人称のところで示した描写の中に織り込み、効果的な情景の描写を目指したい。情景描写は、世界観を確立するための大切な描写である。

 その描写をするにあたり、何を伝えたいのか、どこに重点を置きたいのか、それを考えてみる必要がありそうだ。

 自分の中で、各描写に持たせる役割を考えてみよう。

 次回更新:推敲を考える。

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