ライトノベルそのものを考えてみる。【本編を読むための前提】
需要の有無はともかく、これを書くだけの小説作法と技術を人鳥が持っているかと言えば、十全には持ち得ていないというのが正直なところです。ですから、根本的に間違っていることすら見つかるかもしれません。もし発見した場合、遠慮はいりません。教えてください。また、質問・意見がある場合、遠慮なく仰ってください。
そもそも『ライトノベル』というものが一体何であるかについて、ある程度の定義が必要だろう。しかしながら、そのライトノベルがなんであるか、ということに答えを見つけることはとても難しい。思いつく定義づけとして、
・サクサク読める
・ゲーム的である
・内容が軽い(サクサク読める、に近い)
・キャラクターがメインにある
・セカイ系である
という五点だろうと思う。もちろん、全てが当てはまる必要は必ずしもない。
ぼく、人鳥が思うに、ライトノベルであることを考える上で重要なのは『ゲーム的』であることと『キャラクター』がメインにあることである。
【サクサク読めるって?】
文字通りの意味である。ライトノベルにおける「ライト」が一体何をさしている言葉なのかを知ることは、おそらく、かなりの時間と労力を要することであろう。なぜならば、それこそがライトノベルがなんであるかという定義づけに他ならないからである。
ただ、一つ言えるのは、ライトノベルは「考えながら読むもの」ではないと言うことだ。それは推理をしないとか、キャラクタの心情を読みとらないという意味ではなく、キャラクタと書き手、物語と書き手の関係性を考えないという意味である。
ライトノベルは小説そのものと書き手を完全に引き離して考える。特徴や書き手の考えが小説に反映されていたとしても、ライトノベルのそれは他の小説群とは種類が異なるのだ。
【ゲーム的とは?】
RPGや恋愛ADVを連想してもらうのが一番早い。各作品は、それぞれに違ったストーリー・世界観・キャラクター造型があるが、それぞれのジャンルに共通点が存在する。
たとえばRPGの王道物なら、
勇者が魔王を倒す道のりを描く
のだが、そこまでの過程にそれぞれの魅力を詰め込むわけだ。
その過程―たとえば、伝説の剣や秘宝を探し出すなど―は全く同じではないけれど、『お約束』のような展開が少なからず存在する。それらの『お約束』は前提として扱われ、それを知っていることでより物語を楽しむことができる。
恋愛ADVも同様で、ルートに入る(恋愛関係になる)過程がどれだけ困難かつ鬼畜的であったとしても、最終的には丸く収まるし、その丸く収まる(エンディング)までに何かしらの山や谷がある。これも少々乱暴であるが『お約束』である。
ではライトノベルではどうか。ぼくが思うに、ライトノベルもその流れを汲んでいる。たとえそのジャンルが、恋愛であっても、ファンタジーであっても、青春であっても、だ。
ある程度の予備知識(前提)があるからこそ、物語を十全に楽しむことができるのである。
人鳥はこれをかなり重要視している。
【キャラクターメインである?】
全てがそうであるとは決して言えないが、少なくとも大半はそうであろう。
たとえば、本格と呼ばれるミステリーでは、トリックと論理を重んじる。キャラクターはそれに追随して生まれる。
純文学も、筆者の『訴え』(批判であったり揶揄であったり)があって小説の筋道が立てられる。(リアリズムなどは、この際考えない。話がややこしくなるので)
その点から考えれば、ライトノベルに求められるのは、魅力的なキャラクターである。もちろん、どんなにキャラが魅力的であっても、物語が欠陥だらけなら無意味であるが。
ツンデレやらヤンデレやら、様々なキャラクターを表現する語が登場しているのもそれを裏付けている。(と、人鳥は考える)
【ライトノベルを読むことを恥ずかしがる必要はない】
え? と思う人がいるはずである。様々な理由でだ。
「そんなこと思ったこともない」と言う人もいれば「なんで?(恥ずかしがらなくていいの?)」と言う人もいるだろう。
ライトノベルは『現代』の小説である。売上もかなりのものだし、ツンデレという語はかなり社会にも広まっている語だ(意味をきちんと理解しているかは別として、存在すら知らないと言う人は少数派であると思う)。また、若年層に支持があつい。ということは若者の心をつかむ物があると言うことだ。
しかしながら、『恥ずかしい』もしくは『ライトノベルは「良い」ものでない』という考えは少なからず存在し、
純文学など、ラノベ以外の文章作品>ライトノベル
という図式があるのも事実だ。
なぜか?
それはメッセージ性や論理、つまりは『考えること』にあると思う。
ライトノベルは前述の通り、キャラクターに重きを置く傾向がある。だから、内容がスッカスカの物も存在するわけだ。(例:拙作『本当に勇者なら……』)それでも、人気が出るものは出る。
だから、ライトノベルを読むことは何の教養にもならなければ、糧にもならないという心理が働くのだろうと、人鳥は推察している。
しかしながら、ライトノベルは『現代』の中心的位置に存在していて、経済効果 (メディアミックスなど)も大きい。これは議論を拒否する逃げ口上にも思われるかもしれないが、まぎれもない事実である。
ライトノベルしか読まない人が、たとえば純文学を読めないとしよう。
純文学しか読まない人が、たとえばライトノベルを全く読めないとしよう。
はたして、そこにどれほどの差異があるのだろう?
同じことではないだろうか?
この疑問については少し考えてみるのも悪くはないはずだ。
これら考え(前提)の元、少なくともこの『ライトノベルを書く。』の中においては、純文学もライトノベルも同じ物(優劣は存在しないもの)として扱っていこうと思う。
最後に、この『ライトノベルを書く。』(以下、当記事――「記事」は今後、この『ライトノベルを書く。』全体を表す場合と、その一話部分だけを表す場合があるので注意――)のテーマを明示しておこう。上記は『ライトノベルを書く。』内における「ライトノベル」の立ち位置や簡単な定義づけを行ったものである。
当記事はあらすじにも書いている通り、「書き方指南」の内容ではない。文章作法や「王道」の設定、テンプレ設定、控えるべき事柄などが知りたい場合、他の記事を読むことを推奨する。当記事は人鳥という一人の書き手とその小説群を反面教師とし、考察材料とし、ライトノベルの「要素」を考えていく記事である。それだけにとどまらず、それに関わる様々な項目も同時に見つめていく。書き方指南をする内容の記事はこのサイト内に優れたものが多くあるから、ぼくはその補助の役割となるように当記事を書いたわけである。いわば「参考書」である。
その役目が十全に果たされたらうれしい限りだ。
また、当記事は随時、新たな記事テーマを募集している。先着順で送られてきたテーマで記事を更新し、人鳥がわからないものであってもなんとか更新をする。内容がひどい場合は、批判や助言を頂きたい。そうすることで当記事全体の質が向上する足がかりとなるだろう。
読者参加型でありたいのである。
また、拙作に送られた感想を記事内において抜粋することがあるが、その感想に対する批判等の意図は全くなく、「客観的視点から見た意見」としてのみ使用している。