幻想 ーそれぞれの想いー
snowと申します。
多くの素敵な作品が投稿されている中、お会いできたことを嬉しく思います。
思うままの世界を自由に書かせて頂いてますので、気楽に読んで頂ければ良いなぁと思っています。
誤字脱字などは注意していますが…ご容赦くださいませ。
では、最後までお楽しみください。
「はい。どーじょ。」
弾けるような眩しい笑顔で、両手いっぱいに集めた小さな花たちを差し出す。
「どうしてオレに?」
「けーちゃん、これ、しゅき!」
何故、なんの疑いもなく断言できるのか、その自信はどこからくるものなのかという事はこの際、気にしないとして…文字通りニッと笑って得意気に両手を突き出している姿は、本当に誰かさんそっくりだ。
フッと気づかれないように苦笑してから、その場にゆっくりとしゃがみ込み、目線を合わせる。
「ありがとな。」
そう言いながら頭を撫でてやると猫みたいに目を細めて嬉しそうに笑う。
笑顔の小さな親友は、とても大切そうに両手いっぱいの花たちをオレの手にそっと移した。
満足そうな顔で、親友は川原の方へと走り去って行く。
ふわりと心惹かれるような甘い香りが漂う。目に見えるはずのないその香りは、ゆっくりゆ
くりと流れ出す。このまま幻の世界へ迷い込めそうだと思い、静かに目を閉じたと同時に
肩を叩かれた。
「よぉ、桂。今日は急に悪かったな。」
せっかくの日曜日なのに呼び出しをくらった彼は、申し訳なさそうに頭を下げる。
「お疲れ。たまには良いんじゃね?」
昨日の夜中に帰ってきて突然連絡を受けたオレは苦笑した。
お互い苦笑しつつ、視線を川原へと移す。
少し離れた場所で遊んでいる子供たちに向かって彼は叫んだ。
「碧音―」
名前を呼ばれた子供は、自分に向けて大きく手を振る彼の姿を見つけると、嬉しそうな顔で走
ってくる。
「おかえりー。おとーしゃん!」
「ただいま。今日はごめんな。」
「けーちゃんといっぱい、あしょんだよ。」
そう。『碧音』はオレの小さな親友で、その『おとーしゃん』はオレの幼馴染の桂太だ。
「桂、こんどはいつまでこっちにいる予定なんだ?」
「んー?一応二週間くらいかなぁ。」
自分から聞いてきたくせに『ふーん』と気のない返事だけを残して、ふと空を見上げている。
雑貨の輸入の仕事をしているオレは、短い期間でいろいろな場所へと移動するため、あまり
長期間自宅に滞在していない。
「で、今度はどこに行くんだ?」
「今回は国内をちょっとウロウロするくらいかな。」
常にはっきりとした目的地があるわけではない。依頼されているものを探しに行ったり、手探りでただ、何か掘り出し物はないかと、出かけることもあるのだ。
「まぁ、楽しくやってんなら良いか。」
桂太は少し淋しそうな笑みを見せて言った。
相変わらず、そっくりだな。その顔…
オレと桂太、そしてもう一人を足して、三人は幼馴染だ。家が近かったことと親同士が同級
生ということもあり、よく一緒に遊んでいた。しかも誕生日が同じだから、毎年盛大に三人分の誕生日パーティーをしてくれていた。親たちはその場のノリなのか、なんなのか…子供たちの名前に共通の文字を入れようと提案したらしい。
初めてその話を聞いたときは、流石に呆れて、なんとも勝手な親たちだと思った
でも今は…ほんの少しだけ、感謝している。かもしれない。
「そういえば、この前アイツから絵ハガキが来てた。」
「へぇ。相変わらずマメな奴。」
果たして素直にマメな奴だと言えるのかどうかは置いておくとして、俺のところには時々絵ハガキが届く。
「桂花、元気そう?」
「たぶんな。」
その返答に首を傾げ不思議そうな顔をする桂太に、文字がひとつもない事を教えてやるほど、オレは物好きではなかったらしい。
桂花から届く不定期な絵ハガキには『元気?』の一言すら、ない。
「ん?」
「けーちゃん、肩、乗しぇて。」
服の裾をツンツンと引っ張られ、下を見ると碧音がオレを見上げている。
「なんで桂なんだよ。」
「だってー、けーちゃんのが、おっきいから。」
両手を思い切り広げて、当たり前だと言いたそうな顔をしている。
「はいはい。おとーしゃんの方が小さいよな。」
我が子の言葉に、素直に拗ねる姿が可笑しくて、オレは声を殺して笑った。
「けーちゃん。肩―。」
「おう。」
しゃがんで、要望通りに肩に乗せると『高い高い』と言って、しばらくの間はしゃいでいる。
「俺、そんな小さくねぇし。」
余程ショックだったのか、まだ文句を言っている。
「まぁ、小さくは…ないな。」
178ある身長は、確かに低くない。一般的に見ても高い方なのだが…オレが182もあるせいで、子供目線の背比べでは、低い方になってしまうだけなのだ。
「そういえば、桂花もよく背の話してたなぁ。」
「まぁ。」
アイツ、チビだったからなぁと思い出しながら笑う桂太に、三人でよく遊んでいた頃の、いたずらっ子の面影が重なる。
「このまま、帰って来ねぇのかな。」
ポツリと呟かれた本音は、とても淋しげだった。
「双子だと、離れていてもなんとなくどっか繋がっているように思うとか言うけど、あれは嘘だな。」
一人で納得しながら頷いている桂太を見て、オレはそっと息を吐いた。
桂太と桂花は双子だ。男女の双子だけれど見た目がソックリで、小さい頃は入れ替わって遊んでいることもあった。なんとなくオレは間違えなかったらしいが…親たちでさえ間違えるくらいなのだから、他人の目を欺くことなんて容易いことだろう。でも、いつの頃からか忘れてしまったが、二人は一緒の時間を避けるようになっていた。仲が悪いのではなく、同じ時間の流れを感じないように別々の世界で生きているように見えた。なんの為なのかは解らないけれど、もしかしたら二人は、見えない壁を作っていたのかもしれない。
「けーちゃん、止まって。」
「うん?」
静かにしているから眠っているのだと思っていた碧音が急に動き出し、オレの頭を叩いた。
「きれー。いい匂いだねー。」
「ああ…もうそんな時期なのか。」
オレたちは足を止め、しばらく幻想的な風景を楽しんだ。
「十月も近いのに、秋って感じがしないな。」
立ち止まっていても、風にのってふわりと漂ってくる甘くて心を誘われるような香りだ。
「この花、なんて名前だっけ?」
「…キンモクセイ。」
ああ、それな。と軽く頷く桂太にとって、この花は特別な意味をもっていないらしい。
― キンモクセイ
オレンジ色の小さな花をつけ、印象に残るほどの甘い香りを漂わせる。その香りに酔った者たちには『かくりよ』の世界への扉が開かれ、迷い込むことがあるのだとか…
花言葉と簡単に言っても、様々な意味を持ち、その数だけ物語がある。
いつだったか、ある少女が得意気に、でもとても幸せそうに微笑みながら、オレにキンモクセイの花言葉を教えてくれたことを思い出した。
誘惑・謙虚・真実・陶酔・気高い・初恋・高潔…
よくもまあ、そんなにスラスラと言葉が出てくるものだなぁと、心の中では感心しながら、表面上は至って興味なさげに振舞ってみる。そんなオレを見て、少女は話を止め、急にすんっとした顔でオレから視線を外す。
「なんだよ。急に黙って。」
急変した少女の態度が気になり声を掛けたオレは、内心少し焦っていた。
「もう教えてやんない。」
明らかに拗ねた口調で言い、しばらく無言の時間が流れる。本当はこんな無言の時間も好きなのだけれど、ふと一言告げたくなった。
「教えてもらわなくても、そのくらい…知ってる。」
できるだけ無愛想な言い方をしてみたのは、単なる強がりだったのかもしれない。
「え?」
少女はオレの言葉を聞いて、案の定驚きの表情を見せる。オレは気付かれないように、心の中で微笑む。
もし、ただ驚いた表情が見たかったのだと言ったら、きっと間違いなく怒られるだろうな。だからオレは…いつも通り誤魔化すことにした。
「そんなの嘘に決まってるだろうが。」
からかうように言ってベーっと舌を出し、少女の頭を軽くポンッと叩く。
「ばーか。」
「桂の、バカ!」
オレは反撃が来る前に、さっとその場から立ち去り、背を向けたまま手を振った。
この、必死に顔を赤くして怒っている少女を好きなのだと気付いたのは…いつだっただろうか。小さい頃は何も特別な思いなんてなく、ただ一緒に走り回ったり、ちょっとしたイタズラをして笑い転げる仲間でしかなかった。男でも女でもそんな事はどうでも良くて、三人が同じ時間を共有できるだけで楽しかった。ただ、いつの間にか『仲良しの幼馴染』の関係は、音もなく変化していたのだ。
オレたちの関係性が変化し始めたのは、もしかしたら『あの頃』かもしれない…
そう。桂太と桂花が一緒の時間を避けるようになったあの頃…はっきりとは覚えていなが、どこを探しても、桂花の姿が見当たらない時間がある。たぶん数週間程度なのだと思うけれど、確かに桂花だけが存在していないのだ。
いつも三人でいた場所は知らないうちに『思い出』と呼ばれる場所になってしまい、今となっては正確な位置も情景すらも浮かんでこない。
でも、色褪せることなく、ずっと忘れられないものもある。それが、キンモクセイ…
甘い香りに包まれ、そっと目を閉じれば幼い頃の出来事が溢れ出してくる。
ずっとキレイだと思っているアイツの、桂花の笑顔をはっきりと思い出す。消えそうなほど儚い、あの笑顔を…
桂太にとって何の意味も持たないこの花たちは、オレにとって、どの花たちよりも特別な意味を持っている、大切な花たちなのだ。
オレは目の前にあるキンモクセイにそっと手を伸ばし、誰にも聞こえない声でそっと囁く。
「桂花。」
愛おしいその名を、声にすることがなんだかとても幸せに感じた。
まだ、学生の頃、キンモクセイの中国名が『桂花』という事を知った。どうやらオレの中には、キンモクセイの甘く誘うような香りも、桂花の儚くキレイな笑顔も同じくらい、特別で大切に感じるものがあるらしい。
「わーっ!」
突然の風に煽られ、碧音がオレの頭にしがみついた。ハッと我に返ったオレは、慌てて腕を伸ばしてなんとか落ちないように支える。
「けーちゃん、あーと。」
素直にお礼を言っていつも通りの元気な笑顔をくれる碧音を見て微笑む。
「碧は強いな。」
風に煽られたキンモクセイの花たちが一斉に空中を舞う。甘い香りと共に舞い散っていく様は、まるで幻想の世界を思わせるほど美しかった。風が止み、ゆっくりと地面へ流れ落ちる花たちを眺めていると…
『桂』
微かにオレの名を呼ぶ懐かしい声が聞こえた気がして、思わず振り返った。
「どうした?」
立ち止まったままのオレに桂太が不思議そうに問い掛ける。
「いや…気の、せいだ。」
「そっか。おい、碧音。そろそろ家に着くぞ。」
そう言ってオレから碧音を降ろして、優しく小さな手を繋ぐ。
「けーちゃん。またねー。」
空いている方の手を振って、楽しそうに家路を歩いていく二人の姿を見送った。
そっと空を仰ぐと、キンモクセイが彩るオレンジとは違う、夕日の鮮やかなオレンジが世界を染めていた。秋の夕暮れは心なしかいつもより淋しい気持ちになるのは、どうしてだろう…
『桂』
さっきの声は、やっぱり気のせいだったのだろうか。オレの中にある桂花との記憶が、あの甘い香りと結びついているからなのかもしれない。初恋と呼ぶにはあまりにも淡すぎる感情だが、桂花がいなくなったあの数週間、オレは心に穴があいたような気持ちだった。何をしていても何かが足りなくて、どうすればいいのかさえわからなかった。
当たり前に思っていた存在が、それほどまでに大きなものだったのだと、初めて知った。
「元気に、してんのかなぁ。」
また、あの笑顔に会いたい。
切実にそう思ってしまうくらい、桂花のことを強く想っている自分に気付き、一人苦笑した。不意にジャケットのポケットに手を入れた時、指先に何かが触れ、そっと取り出してみる。
『はい。どーじょ。』そう言ってオレに差し出されたキンモクセイの花だった。
自信あり気に、ニッと笑った碧音の顔が浮かんだ。
『はい。桂、好きでしょ。』
桂花も…よくそう言い切ってオレに両手いっぱいのキンモクセイを持ってきてたなぁ。
『私もこの花、好きなんだ。』
少し照れたように笑って、言ってたっけ。
そう、だ。思い出した…
あの後、風が吹いてアイツの髪がふわりと揺れ、両手いっぱいの花も舞い上がった時、オレは急に説明のできない不安に襲われてアイツの手を掴んだ。理由なんてなかった。なんとなく、そのままどこか遠くへ行ってしまうような気がしたのかも、知れない。
桂太と桂花が双子だからなのか、碧音のちょっとした仕草や表情の中に、幼い頃の二人の姿が重なる。特に桂花の姿を思い出してしまうのは、それだけオレが桂花を見ていたということなのだろうな。
ポケットから取り出した花を手のひらで転がしてみる。ふわふわと揺れる様が桂花の姿を思わせる。そういえば、一緒に歩いている時ですらどこか掴みどころがなくて、別世界にいるのではないかと不安を感じることがあった。一人でいる時にふと見せる表情は、目を離したすきに本当に消えてしまいそうで、心配になって思わず手を握ることが何度もあった。そんな時でもアイツは、ただ優しく微笑むだけだった。
昔のことを思い出し、なんだか遠回りをしたくなったオレは、家とは逆の方向へと歩き出す。二週間ほどすれば、またこの街を離れて見知らぬ場所で仕事をするのだけれど…いつもは何も思わないくせに、今回は何かが引っかかっているようだ。それが何なのかわからないけれど、きっとオレの中で何かが引き止めているのかもしれない。仕事の都合で居場所が定まらないことには、もうとっくに慣れているはずなのにな、と思いながらも言いようのない感情が胸の奥でくすぶっていることを否定できずにいる。
途方もなく歩いてみたが、もともと行き先なんてなかったオレはなんだか、やるせなくなってきて仕方なく帰ることにした。街灯が照らす、歩きなれた道は思った以上に早く家へと導いてくれる。
「はぁ…」
軽い溜め息を吐いて、仕方なくドアを開ける。
「ん?」
ドアを開け、ふとポストを見ると何通かの手紙が届いていた。
「桂花…?」
絵ハガキは、この前届いていたと思うけど?あれからそんなに経っていないはずだ。
「まぁ、アイツはいつも不定期だからなぁ。」
きっといつだって思いつきで出しているのだろう。
ハガキとは別にダイレクトメールや仕事の書類、そして一通の封筒を手にし、リビングへと向かった。
「誰からだ?」
差出人不明の封筒をしばらく眺める。正直、開けるのを少し躊躇ったが、確認しなくては何もわからないと思い、ゆっくりと封を開けた。
「嘘、だろ?」
手紙を読み終えたオレは、何が起こっているのかわからず、ただ…困惑していた。
でも…今までの違和感や不自然な出来事が少しずつ解けていき、納得せざるを得ない状況なのは間違いない、みたいだ。
この手紙の内容すべてが事実だという事なのか?
たとえ事実であったとしても、そんな簡単に受け入れられるわけがない。できることならオレは、すべてを否定したい。ここに書かれてある事は嘘なのだと…思いたい。
「嘘…だよな?」
静まり返った部屋の中で、オレは頼りなく呟いた。
― 桂へ
桂、元気にしていますか?
あなたにこの手紙が届く頃には、私はこの世界にいないかもしれない。だからこそ、伝えておこうと思い、筆を取りました。
ずっとずっと、謝りたくて…
いきなり謝りたいだなんて言っても、何のことだかわからないでしょうね。でも…
ごめんなさい。
あなたは、本当は私たちの子供ではないのです。
私は幼い頃から体が弱く、医者からも子供を産むことは難しいと言われていました。でも、奇跡的に子供を授かることができたの。ただ…結局、お腹の中で十分に成長できなくて、その子を抱ことは叶わなかった。
悲しくて、しばらく泣いて過ごす日が続いていたある日、私の親友から子供が産まれたと報告を受けた。彼女は、経済的な理由で子供たちを育てることができないと、泣いていた…
「一人でも大変なのに、無理よ!」
彼女は泣きながら叫んだ。
「でも、大切な子供たちでしょ。」
「そんなこと、わかってる!わかってるけど!」
どうすれば良いのかわからずに、彼女は泣きじゃくる。周囲の反対を押し切って結婚した二人に頼れる人もなく途方に暮れていた。
「養子として…育ててもらえないだろうか。」
彼女の夫は憔悴しきった声で、静かにそう告げた。
― 何度も話し合って、私たちは…あなたを本当の息子として一緒に生きることを選んだ。
こんなにも大切なことをずっと隠していてごめんなさい。でも、私は…私たちはあなたを本当の息子として育ててきたし、今でもそう思っています。これからもずっと、あなたは私たちの息子です。
でも、このまま真実を隠し通す事が最善だとは言えない。たとえ、母親失格だと言われても構わない。自分の死が近いからこそ、私から伝えたかった。現状として直接話すこともできそうにないから、こんな形になってしまったけれど…
桂、あなたは、本当は…桂花ちゃんと桂太くんの三つ子の一人で、二人のお兄ちゃんなのよ。
今まで話せなかったこと、本当にごめんなさい。
名前に共通の文字を入れたのは、三人の繋がりを消したくなかったから…でも結局は単なる私の自己満足なわがまま、ね…ごめんね。
桂、あなたは今、幸せですか?
今まで歩いてきた時間を、少しでも幸せだったと感じてくれていたら、私はとても嬉しい。大切なあなたと一緒に生きた時間は、私の宝物です。
数え切れないほど、たくさんの幸せを…ありがとう。
そして、息子として一緒に生きてくれて、本当にありがとう…
その手紙の最後には、九月吉日と記されていた。すでに十月半ばなのだから、きっと手紙の差出人は…オレの母親は、他界しているだろう。オレが仕事でここに帰って来られなかった時期に手紙が届いていたのかもしれない。だとしても突然告げられた内容が、あまりにも大きく重要過ぎて、思考がついてこない。
「嘘、だろ?」
あの二人とオレが兄弟って…いきなりそんなことを言われて、あぁそうですか。なんて…
「言えるわけ、ねぇよ…」
一人で家にいても落ち着かず、混迷したままのオレは夜明け前の街に向かうことにした。当然まだ闇の深い街は、昼間とは違った世界に見える。街灯だけが静かにひっそりと照らしている街並みは、どこか幻想的だった。
まったく目的もなく歩き回っていたオレは、いつの間にか小学校の近くまで来ていた。
ここは、初めてキンモクセイを知った場所。
でも、いくら卒業生だとはいえ、こんな時間に訪問するのは不審者でしかない。少しずつ落ち着いてきたけれど、まだ帰る気にはなれないオレは、歩調を緩めてのんびりと歩くことにした。
「まだ、あるのかな?」
あの頃は学校の裏庭にあったのだけれど、長い間訪れていないこの場所にまだそれがあるのか、期待と不安を抱きながらも探してみることにした。
学校の裏口が見えた時、不意に誰かがクスッと笑った気がした。さーっと流れるような風が吹き、微かに…彼女の声が聞こえた。
『桂』
「桂花…?」
『ずっと見てたんだよ。』
声のする方を探してみても誰もいない。確かに桂花の声が聞こえているのに、どこにも姿がない。
「桂花?いるのか?」
周辺を何度も見回すが、やはり桂花はいない。
オレはずっとおまえのことを待っていたんだ。好き、だから…誰よりも大切だからこそ、おまえに会いたいと思っている。本当の兄弟だったとしても…構わない。今すぐ抱きしめて、もう二度と離したくない。それほどまでに、おまえの事を…
『桂、目を閉じてみて。』
「何だよ。」
『いいから。目を閉じてって。』
言われるままに仕方なく目を閉じてみるが、何も変わらない。
『桂が、好きだよ。』
懐かしくて優しい声と頬に微かな温もりを感じて、思わず手を伸ばし、抱きしめようとしたオレの腕はただ空を切った。その時オレは二人の距離が縮まることはないのかもしれないと思った。
『桂は、まだ来なくて良い。』
「どういう意味だよ。」
『意味なんてどうでも良いの。まだ、ダメなんだよ。』
声は少し笑っていて、軽い冗談を言っているように聞こえるのに、何故か淋しそうに感じた。
「桂花…おまえ…」
桂花がどこにいるのかを確認しようとした時、どこからかそっと優しい風が吹き、キンモクセイの花たちを揺らすと甘い香りが流れ出した。
「なぁ。桂花。今、オレの傍に…いるのか?」
『…うん。』
ほんの少し躊躇いながら返事が聞こえた。
「そ、かぁ。」
目で確認できないだけで、こんなにも不安になるものなのかと拳に力を入れた。
『桂…』
オレの手に、桂花の手が触れた…気がした。
「桂花。オレ…おまえが、好きだ。」
ずっと隠していた想いをやっと伝えられたはずだったのに、桂花はクスッと笑った。
『教えてもらわなくても、そのくらいは知ってるよ。』
「え?」
驚いて目を開けた時、そっとオレの手を両手で包み込み、大切に抱きしめる桂花が目の前にいた。
「私は、ずっと桂の事見てたんだから。ちゃんと、知ってるよ。」
あの頃と変わらない優しい笑顔でそう言った。
「おまえ…今までどこに…」
伝えたい気持ちが言葉にならない。たくさん話したいことも聞きたいこともあるのに、言葉がひとつも見つからない。
隠れていた月がそっと顔を出し、月光がオレたちを静かに照らしている。
「桂花…あの…」
「大丈夫。私は、大丈夫だから。桂はまだ来ないでね。ちゃんと待ってるから、まだ、ダメだよ。」
こんなにもキレイで悲しい笑顔を、見たことがない。
「桂。私はずっと一緒にいるよ。私の心にもずっとずっと桂がいるの。だから…」
桂花はじっとオレの目を見つめて話しながら、そっと握っている手を離した。そしてその時、月がまた隠れてしまった。
『だから、さよならは、言わない。』
小さな声が聞こえた後、ほんの一瞬、頬に温もりを感じた。
突然、静かで暗い世界に放り出されたオレは、その場に立ちすくんで動けなくなった。
ポツリポツリと空から雫が零れだした。
「雨、か…」
サーっと静かに降り出した雨の中、オレはしばらく空を見上げていた。
「うん。桂花。さよならなんて、いらないよ。」
そう言ってオレは、桂花の笑顔を思い出し、優しく微笑んだ。
オレンジ色の小さな花たちは、甘い香りを漂わせる。
その香りに酔った者は『かくりよ』の世界への扉が開かれるという…
オレはキンモクセイの花をそっと握り、香りが強くなる方へと歩き続けている。
風が吹き、どこからかキンモクセイの花が舞った。
その光景を眺めていると、いつの間にか花たちがオレの周りをオレンジ色に染めていった。ゆっくりと花がたち地上に舞い降りたとき、目の前に扉が見えてくる。
オレは迷うことなく、そっと扉に手を伸ばし、音もなく開いた扉をくぐり抜ける。
そう、ここが…
かくりよの世界…
《 幻日 ― 蒼の原石 ― 》
半ば自棄になっていたあの頃の僕は、もう二度とこの地に踏み入ることはないと決意し、旅立った。
あれから四年の月日が流れ、きっと僕は変わった…と思う。
あの頃の僕は、片付けの途中で不意に見つけた懐かしい記憶たちに混ざり、突然目の前に現れた不可解なことが一度に押し寄せてきて、そのまま不安の渦に溺れてしまうかと思った。
消化不良ないくつもの感情を僕の中に住まわせたまま過ごすしかない、そう思っていた。
中三になっていきなり進路選択と言われても、特にやりたいことが見つからなかった僕は、理由もなく親が通っていた高校に通うことを選んだ。そしてあと一ヶ月もすれば中学校の卒業を迎え、あっという間に高校生になれるらしい。
「気忙しいというかなんというか…全く実感がないんだよなぁ。」
とりあえず気持ちの切り替えにでもなればと思い、部屋の片付けを始めたのだが。
もうすでに一時間ほど過ぎただろうか…
「こんなに片付けに向いていなかったとは、正直驚きだな。」
散らかり放題の部屋の中央で山積みになった荷物からそっと遠ざかり、さっき引き出しの奥で見つけたフォトアルバムを壁に向けて自動再生してみた。
「気分転換は大事だからな。」
と誰にでもなく言い訳をしてみた。
僕の子供の頃の写真が次々を再生されていく。まだ色褪せていない切り抜かれた時間が流れている。覚えているものもあれば、まったく思い出せないものもある。何も考えずにぼんやりと眺めていたせいで、一瞬真っ暗になった時、再生が終わったのだと思った。
仕方なく中断していた片付けに戻るため、フォトアルバムの電源をオフにしようと手を伸ばした時、無機質な音とともに、一枚の写真が映し出された。
「……」
その刹那、僕はどうやら文字通り、言葉を忘れてしまったらしい。
そこに映し出された世界に、僕はいなかったが、よく知っている姿がある。きっと若き日の父たちの写真だろう。でも、微笑ましいの一言で終われない「何か」が引っかかってしまった。
「なん、だ?」
成人式の会場が背景ということで、みんな二十歳なのは間違いない。なのに…どうしてなのだろう。
「気にし過ぎなんだよな。」
わかっていてもどうしても気になってしばらく考えてみたけれど、結局、違和感が残ってしまった僕は、殆ど近寄ることのない部屋に向かった。
コンコン、コン。
扉をノックしてもやはり物音ひとつしない。
「やっぱりいないよなぁ。」
父の仕事が忙しいのは知っている。仕事柄長期で留守にすることも多いから、こういう状況にも慣れている。慣れているけど、主のいない部屋に勝手に入る気にもなれず、僕は軽く息を吐いて次の場所へ向かうことにした。
この街で僕のお気に入りの場所である、通称「ばけもの屋敷」に向かい歩いていく。実はこの「ばけもの屋敷」には「名もなき道化師」が住んでいるという噂だ。
「かろうじて、ばけもの屋敷よりはマシだと思うけどな。」
シンプルな四角い印象家。壁にはツタが這うように生存している。まぁ、薄暗い時間帯はちょっと不気味さが増すかもしれない。
「さて、主はいるかな?」
僕は預かっている鍵を使い勝手に家に入っていく。長年一人暮らしで、仕事の関係上、ここの主も平気で長期間留守にすることがあるから、時々様子を見て欲しいと頼まれているのだ。その代わり、好きな時に使って良いとも言われている。
「やっぱりこっちも留守かよ。」
最初の頃はちゃんと伝言や予定があったのに、最近は何の連絡すらない。
「まぁ、良いんだけどね。」
ただ気になったから聞きたかった。そう、それだけの事なんだ。
僕は扉に鍵をかけ、近くの椅子に座った。
「ここが、図書館ねぇ。」
皮肉を込めて呟き、そっと苦笑した。
建物の一階を店舗として使用しているが、お客なんて滅多に来ない。読書好きな主が昔読んでいた山のような数の小説や物語。クローゼットで見つけてきた詩集や絵葉書コレクション。イラスト集や写真集、果ては何かの図鑑まである。そういった多種多様の本を無料で貸出をしているだけなのに、主曰く…
「本の貸し出しをやっているから、立派な図書館じゃん。」
ある意味、主の書庫でしかないのだが、本人が満足しているのなら良いか、と思うことにした。結局のところ、一階のフロアの三分の二は本たちの居場所なのだから、かなりの譲歩をして「図書館」と呼んでやっても良いかもしれない。でも…僕としては正直、残りの三分の一が好きなのだけれど。
その狭い場所には、ここの主が何年もの時間を費やして集めてきたガラクタたちがいくつも置いてある。何に使うのか、実際に使えるものなのかさえ不明なものばかりだ。そのガラクタたち見ているだけで楽しいと思っている時点で、僕はここに住んでいる気まぐれな「名もなき道化師」と同類なのかもしれない。
何故、街の図書館の主に異名が着いたのかというと、二階の工房で作られている作品たちが原因なのだろうと思う。その工房では、透かし彫り細工やガラスの彫刻が作り出されている。昔からの技法と新たに生み出された技法で、アクセサリーや調度品など多くのものに透かし彫りを施している。そしてサンドブラストといって、ガラスの表面を砂の粒子で削り、鮮やかで繊細な模様を刻み込んでいく。作り出されたひとつひとつが丁寧に、そして心を込めて仕上げられているのだ。照らされる光の明るさや色によって様々な表情を見せてくれる。
まるで幻想の世界を思わせる事だってあるくらい、美しい。
そんな作品を作り出す彫師を、夢へと誘う「道化師」と呼び、人気があるにも関わらずブランドかしないことを結びつけ「名もなき道化師」なんて異名がつけられてしまったというわけだ。
僕の居心地の良いこの場所の二階に工房があり、透かし彫りやガラス彫刻がされていることを知ったのは三年ほど前。
「もっと早くに教えてくれれば良かったのになぁ。」
と何度も思ったのは、僕自身がその幻想的な世界に魅せられていたからだろう。
僕が初めてここに招かれたのは今から十年くらい前にある。
小学校に入学することへの不安が大きすぎて、少し離れた場所まで遊びに行くようになっていた。小さい頃はよく連れてきてもらっていた川原で一人で遊ぶようになった。子供なりに悩みや不安はあったのだろう。そんな思いが帰路を遠ざけていたのかもしれない。でも、だんだん辺りが暗くなってくると、このまま一人だけ取り残されてしまいそうで、急に怖くなった。
「どう…しよう。」
本当にこのまま帰れなくなったら…そんな事を思ってしまった僕は心細くなり、下を向いて立ち止まってしまった。
「こんなところでどうした?迷子ごっこか?」
不意に聞き覚えのある落ち着いた、僕の大好きな声が耳に届いた。
「ち、違うもん。」
泣きそうな声に気付かれたくなくて、強がっていつもより元気に返事をした僕は、声のする方を見上げる。
彼は僕と視線を合わせる為にいつものようにゆっくりとしゃがんて、ごく自然に僕の世界にはいり込んでくる。
「そうか。じゃあ、きっと探検家だな。」
いたずらの作戦会議でもするように、そっと口元を片手で隠し、耳元で静かに告げられる言葉。彼の言葉にはきっと秘密の魔法がかけられているのだと思ってしまう程、僕にとって、とても不思議な力を持っていたのかもしれない。
「でもな。こんな時間に探検するのは危険だから、今日は帰ろうな。」
「あ…そう、だね。」
本当は帰りたくないけど、仕方がないことくらいはわかっている。でも帰りたくないなんて言えるはずもなく、僕は無意識のうちに彼の服の裾を引っ張っていた。それに気づいた彼は、
「なぁ。今日、泊まりに来てくれないか?」
「え?」
「オレ、ずっと一人だろ?だからたまには誰かと過ごしたいんだよ。」
『おまえん家には、上手く言っといてやるよ』と付け加え、彼は温かい微笑みをくれた。
こうして僕は、初めて彼の家に招かれたのだ。
「あれから十年が経つのか…」
この場所は何も変わらないままだ。来るたびにガラクタは増え続けているが、きっとそれ以外何も変わらない。きっとこれから先、どれだけ時間が流れようとこの居心地の良い場所はなくならない気がする。
「主があれだもんなぁ。」
僕は不在がちな主の姿を思い浮かべて、なんとなくこれから先もずっと変わらないんだろうなと、得意気にニッと笑った。
長身で、ある程度整った顔立ちをしていて、日焼けで髪がうす茶色になった外見は、異国感を漂わせている。ただ立っているだけでも、どこか不思議な存在感がある。本人は全く意識していないし、興味の欠片さえも持っていないことが問題なのではないかと僕は思う。普段の姿を知っているからこそ、そう断言できるのだ。
「あの無頓着でいい加減な姿を隠し撮りして拡散してやろうか。」
ベッドの端で毛布にくるまって眠っている姿はネコみたいだ。いつも同じ毛布を纏っている理由があるのかまでは知らないけれど、疲れていても、穏やかな微笑みを浮かべている寝顔は、どこか可愛く思えてしまう。あの寝顔を見る度に僕はいつも『気まぐれネコ』と言って、柔らかな髪にそっと触れている。
そういえば…この前、ちゃんと話したのはいつだったっけ…?
そんなことを考えているうちに眠ってしまった僕は、珍しく夢を見た。
まだ小さい頃の僕が誰かに肩車してもらって歩いているだけの、夢。だけど、なんだかとても大きくて優しい温もりを感じた。小さい僕はその温もりに包まれて、嬉しそうに笑っていた。
「なんだ?とうとうガラクタの仲間入りか?」
遠くの方でクスクスと笑う声が聞こえる。
「誰が、ガラクタ、なんだよ…」
「お。起きたか?」
僕はまだ寝ぼけている頭で少し考えて、思い出した。
「ん…いつの間にか、寝てた…みたい。」
雑貨が置いてあるフロアのソファーに身を預けたまま、心地よさに負けて眠ってしまったのだろう。
まだボーっとしている僕を見て、主はいつもと変わらない柔らかな笑顔でそっと僕の頭を撫でる。条件反射のように僕が目を閉じると『まるでネコだな。』と言って嬉しそうに笑うのだ。でも不思議と心が和むのだから仕方がない。
「時間があるなら、二時間くらい店番頼んで良いか?」
「お客さんなんて来ないのに?」
出かける用意をしていた主はソファーから立ち上がった僕に振り返って…
「おや?見えていないのか。それは残念なことだ。」
真剣な表情でそう言った。
「え?」
驚く僕を確認して、フッと意地悪そうな笑みをした。
「じゃ、頼んだぞー。」
「ちょっ…」
僕の言葉なんて聞かず、何かを大切そうに抱えて出掛けてしまった。
「注文の商品が仕上がったのか。」
道理で嬉しそうなはずだ。
「まったく、人の気も知らないで。」
誰もいないフロアで深いため息を吐いた。
しばらくの間、一階の図書館フロアで時間を潰していたが、ふと工房が気になり、階段を上がっていく。
好き勝手にして良いという許可はもらっているものの、工房にはあまり気軽に入ってはいけない気がして、普段は近寄らないようにしている。
「あれ?珍しこともあるもんだな。」
いつもちゃんと閉まっているはずの工房の扉が少し開いている。その隙間からそっと部屋の中を覗くと、窓まで開いていることに気づき流石に少し驚いた。
僕は扉を開けたまま部屋に入り、窓を閉めた。
「余程、良い作品に仕上がったのかな?」
乱雑に散らかった作業台の上に依頼書とデザイン画が置いてある。
「へぇ。透かし彫りのペアリングか。綺麗、じゃん。」
少し幅の広いリングに桜の花と花びらを彫ってあるようだ。そういえば最近、結婚式や記念日などの注文が増えたって言ってたっけ。
「ん?」
作業台にある工具置き場に、小さなビンが飾ってあるのを見つけた。小ビンの中には何か彫りが施されたリングが一つ入っているようだ。そっと手を伸ばしたが、触れてはいけないと感じて止めた。
「それ、オレが初めて彫ったリングだよ。」
「あ、ごめん。勝手に入った…」
「ん?構わないけど?」
きっと僕が何をしても、そうやって柔らかくて温かい笑顔をくれるんだろうな。
あのフォトアルバムの中にいる彼と変わらない笑顔で。もしかしたらこれから先もずっと…
作業台の片付けを始めた背中に、意を決して声を掛けた。
「ちょっと質問しても良い?」
「ん?改まって何だよ?」
僕は部屋のクローゼットの奥で見つけたフォトアルバムの…あの写真の事を話した。
「そうか。」
主は…イヤ、彼は静かにそう言って深呼吸をして黙り込んだ。
そして、少しの沈黙の後…
「おまえに、渡したいものがある。ちょっと来て。」
いつになく真剣な表情で告げられた言葉を聞き流すことなんてできず、なんとか一定の距離を保ちながら彼の後ろを歩いた。ほんのわずかな時間のはずが、とてつもなく長く感じてしまう程、無言の時間が苦しかった。
ベッドとカウチソファー、そして据え付けの本棚しかないこの部屋を、僕が一番気に入っていることを知っているのだろうか。
彼の部屋に入ってすぐ、今度は僕が深呼吸をした。
「いつか…こんな日が来るって、わかっていたのにな。」
苦笑しながら本棚の方へ向かい、何かを探し始めた。自分の部屋なのに中々探し物が見つからないようだ。でも、もしかしたら手に取るのを躊躇っているだけなのかもしれない。
「後悔…するかもしれないぞ。」
「どう、して?」
不安な気持ちが強いのだと、気づかれているのだろうか。ただ、僕の中にある疑問を解きたいという思いに嘘なんてないのは事実だ。そんな思いを込めて真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。
「わからないことは聞いてくれ。誤解されたくないから、ちゃんと真実を答える。」
意を決したのか、迷いのない声でそう言った彼もまた、真っ直ぐに僕の瞳を見つめ返した。
「うん。ありがとう。」
僕は数冊のノートとタブレットを受け取った。彼の手が少し震えていたように感じたのは、僕の気のせいだろうか。
まだ仕事が残っている彼と、部屋の片付けを途中で放ってきた僕は、それぞれの時間の中に戻っていった。
誰もいない家に着き、軽く夕食を済ませてから自室に戻った。さっき彼から受け取った物をそっと机の上に置き、残った片付けを無言で終わらせた。
「後悔なんて、しないよ。」
まるで自分に言い聞かせているみたいでなんだか可笑しくなった。
『Subject of research case of Blue raw stone.』
受け取ったノートにもタブレットにも同じ文字が並んでいる。
― 研究対象 青い原石の場合 ―
「研究対象?」
僕はノートを開いて無言で文字を追いかけた。時間が経つのも忘れて、ただ目の前にある事実と向き合いたかった。
ノートには達筆というか、汚いというか…正直、読みにくい文字や聞いたことのない専門用語、挙句の果てには変な図解や公式まで記載されていて、正直全てを理解するには難し過ぎた。
「一体、何の研究なんだ?」
何冊目かの不可解なノートを読み終え、僕はベッドに転がった。
「はぁ」
かなり難解な問題に向き合っているような気がしてきた。
「ただ、あまりにも変わらないなぁって思っただけなのにな。」
父と同級なのだから、彼も今三五歳だ。それにしてはあまりにも若い。というか、あの写真のままにしか見えない。
十五年も、経っているのにか?
「やっぱり…よく、解かんねー。」
深い溜め息を吐き、静かに目を閉じた。
「あれ…?」
絡まった思考回路を停止させて夢の入口に辿り付きかけた時、昔、父の部屋で見つけたある物の存在を思い出した。
そっと自室の扉を開けたが、家の中はいつも通り静まり返っている。
「誰もいないのにな。」
やっぱり今日も遅いんだろうな。もしかしたらしばらく帰ってきていないかもしれない。
僕はできるだけ音をたてないように父の部屋に行き、一応ノックをしてから中に入った。おぼろげな記憶を元に探し物をするのは大変だったが、思っていた物を発見した。
「あった。これだ。」
二枚のCD‐ROMのラベルには彼から受け取った物と同じ文字が並んでいる。
「Blue raw stone…青い原石、か。」
きっと何か関係しているはずだと思い、勢いでCDを読み込んでみる。
「こんなの、こんなの全部嘘だ。」
一枚のCDを観終わって、僕は何も信じたくないと思ってしまった。
「信じろって、そんなのどう頑張っても無理だろ。」
誰か、教えてくれないか?
僕は何者なんだ?
一体、何のために存在し、何のために生きているんだ?
「誰か、教えて…」
だんだん薄れていく意識の中、僕は彼の名を読んでいた…
「桂…ちゃん、教え、て…」
― Blue raw Stone
「何で青い原石なんだ?」
「アイツ、碧が好きだったから。」
「あ。碧、か。」
二人の男が話している。一人は眼鏡をかけていて、もう一人は肩の辺りまである髪を乱雑に結っている。
ノートの表紙に書いた文字について話しているようだ。
カチャッと扉が開く音がして、白衣を着た初老の男が入ってきた。
「二人とも、もう来ていたのか。」
「ああ。話してくれるんだろう?」
初老の男は無言で頷き、静かに話し始めた。
「まずは、桂花が退院して今は療養所で過ごしているという報告だ。」
二人の男はそれを聞き、驚いて顔を見合わせたが、次の瞬間とても嬉しそうに笑い合う。
「まだ完治したわけではないので、今後、私が遺伝子研究をする事になった。そこで比較対象が必要になるので、二人に協力してもらいたいんだ。」
「なぁ。桂太は姉弟だから対象なのは理解できるけど、なんでオレ?オレは何の比較?」
髪を結っている男が問う。
「血縁の者同士だけじゃ偏った結果になるかもしれない。比較するためには幾つかの対象を用意して当然だろう?」
二人の男は白衣の男の言葉を真剣に聞き、素直に受け入れた様子で検体採取に協力をしている。
『桂花』という人を助けたいという強い思いが伝わってくる程に真剣な表情をしている。
「二人とも、本当にありがとう。」
白衣の男は深々と頭を下げ、二人に礼を伝えた。本当に感謝しているのだろう。検体を大切に抱えている手が物語っている。
「じいちゃん。桂花に早く帰って来いって伝えて。」
眼鏡をかけた男が…桂太が静かに言った。
「ずっと、待ってるって。」
もう一人の男も、小さな声で言った。
「必ず、必ず伝えるよ。二人とも、本当にありがとう。」
白衣の男は何度もお礼を伝え、深々と頭を下げていた。その瞳が潤んでいることに二人は気づいているのだろうか。
「早く帰ってくると良いな。」
「そうだな。」
そのまま画像が消え、違う部屋が映し出された。
専門的な知識がなくても、何かの研究室だという事ぐらいはわかる。理科室で見たことのある実験器具や全く知らない高度な医療器具のような物もある。その部屋でさっきの白衣の男が一人で何かを始めた。
何回も何十回もやり直しているようだ。上手くいかない事に苛立ち、机の上の器具を全て床へと落とす行動も映っている。
「ダメだ!こんなんじゃない!」
白衣の男は成す術を見失い、項垂れていた。深い深い溜め息を繰り返す姿は本当に辛そうで、悲しみさえ感じた。どうしても成功させなければならないという、強い信念があるのだろうか。それからも何度も失敗を繰り返し、少しずつ諦めの色が見え出した頃…
「これだ!やっと、生まれた!やっと生まれてくれたんだな…」
白衣の男は大粒の涙を流し、心から喜んでいた。ずっと求めていた物を手に入れられたようだ。
画面に映し出されたのは、液体の中にある半透明の球体だった。ゆらゆらと気持ち良さそうに漂っているみたいだ。
「やっと私の願いが叶えられそうだ。」
液体の入ったガラスの容器に、そっと手を添えた白衣の男は優しい微笑みを浮かべていた。
また画像が消え、部屋が変わった。
見慣れた白衣の男が、いつもとは違い黒のスーツ姿で現れた。
「桂花、桂太。そして…桂。お前たちにちゃんと全てを伝えておきたかった。これから先、どんな形で事実を知り、どう向き合っていくのか解らないが、私が知っていることを…私が伝えなければならないことを全て話そうと思っている。」
白衣の男は静かな、落ち着きのある声でゆっくりと話し始めた。
二年前の今日、二月二十三日に『桂花』がこの世に別れを告げた事から話が始まった。生まれた時から心臓が悪く、短期の入院や検査を繰り返してきたがはっきりとした原因も解明できないまま、十八年の旅を静かに終わらせた。
『桂』にも『桂太』にも告げることができなかった。本当に申し訳ないと思っている。桂花の死を一番受け入れられなかったのは、私自身だったのかもしれない。
二十年前の十一月二日、君たちが無事に産まれてきてくれたあの日のことを、忘れたりしない。三つの命が誕生した、大切な日だ。でも、大人たちの勝手な事情で一人と離れなければならないことを知り、私は例えようのない怒りを抱いた。きっと君たちの両親の方が辛かっただろうが、私には彼らの決断を許すことができなかった。何も知らないまま、君たちは一緒の時間を歩いていくことができなくなった。それでも日々成長し、三つの命が共に過ごす姿を見ることができたとき、私は本当に嬉しかったんだ。このまま平穏な日常を過ごしてくれと願っていたのに…
桂花の病気が見つかった。
医者である私は桂花の主治医となり、原因を探った。でも…結局救えなかった。
どんなに自分の無力さを呪っただろうか。たった一人の命すら救えないなんて情けなくて、悔しかった。そんな時不意に…救えなかった命だけれど、継ぐことはできないだろうかという思いが私の中に生まれた。決して全ての人に賛同される考えではないけれど、どうしてもやり遂げたいと思った。
それからの日々、苦戦の連続だった。何度も諦めようとも思ったけれど、最後まで諦めなくて良かった。やっと…やっと継ぐことができたのだ。
「桂花、君の命を救うことはできなかったけれど、継ぐことができたんだよ。」
そう言ってふわふわした布に大切に包まれた新しい生命…赤ちゃんの姿が映った。
「現在のこの国では認められていないが、他の国ではなんとか認知してもらえることがわかった。後のことは桂か桂太に頼むしかないのだが…彼らは、理解してくれるだろうか。」
私に残された時間はあとわずかしかない。
「でも、皮肉なものだな。桂花が亡くなった同じ日に生まれたのだからな…」
この子は、君の生まれ変わりだと、思いたい。
今、僕がなんの問題もなく存在しているということが、全てを物語っているのだろう。
僕の父である桂太は、祖父の話を受け入れ、全てを信じて僕を自分の息子として育てることを決意した。そしてきっと、桂には何も伝えなかったのだろうな、とも思った。
二枚目のCDにはノートに記載してあった達筆すぎて半分も理解できなかった実験内容やデータの集計が保存されているだけだった。
「紙媒体よりは長期保存可能だもんな。これだと解読できるしな。」
じゃあ、タブレットには一枚目のCDの内容が入っているだけ、だろうか。
頭の中はかなり混乱しているはずなのに、何故か冷静な僕がいる。そして、今更慌てたところで何が変わるんだという投げやりな僕も、間違いなく…いる。
「はぁ。」
床に転がり、目を閉じて深い溜め息を吐いた。
「桂ちゃんはどこまで知っているのかな。」
僕に渡してくれたデータやタブレットの内容はもちろん把握していると考えるべきだろうな。
本当はこんな複雑な状況を想定していたわけじゃなく、普段からなんとなく異質な気配を漂わせている彼に、秘密があるなら暴いてやろう、くらいの気持ちだった。そう。彼の事をどうしても知りたかった。
いつだって傍にいてくれる彼は、僕にとってずっとずっと憧れの存在だから。
「彼の…桂ちゃんの事を知りたいのなら、まずは己を知れってか?」
それなら、教えて欲しい。
僕は何のために生まれたのか。きっと望まれていたのは僕ではなく『彼女』の存在のはずだ。
桂、僕は、あなたの気持ちが聞きたい…
どうすればそんなに、誰かを信頼することができるのか。熱く焦がれるほどに、深く愛することができるのか。惑うほどに惹かれ、夢見るほどに求め合えるのか…
自らを引換にしても、守りたいと思う存在って…一体何なんだよ!
「ねぇ、桂。僕はいつか、あなたのように…なれるのかなぁ。」
いつか、誰かに格好良いと憧れてもらえるような存在になれるのだろうか。
「わからないことは聞けって言ってたもんな。」
流石にこんな時間に押しかけたら怒るかな。でも、一人でいるのは少し気が重い…
「寝てても、起こせばいいか。」
結局、何か理由をつけて、この部屋から抜け出したいだけなんだけどな。
時計の針は夜中の三時を指していた。
「妖怪さんの出勤時間ですかぁ?」
「え?」
闇の中から聞こえてくる声は楽しそうに、くすくす笑っている。
「こんな夜中に出歩いてるから、妖怪さんかと思ったら、迷子の碧音くんだったか。」
二階のベランダに小さな灯が見えた。
「桂ちゃん、飲みすぎだろ?」
「ああ?たまにはいーんだよ。」
また、くすくす笑っている。
飲みすぎの時によく見る姿だ。酔った時の桂ちゃんは、からかうように話し、よく笑う。そして普段吸わないタバコをくゆらせる。
僕は自宅よりも慣れた家の中に入り、電気もつけず暗がりの中を歩いて、彼のいるであろうベランダに向かった。もう少しで桂ちゃんの会えると思うだけで、さっきまで苛立っていた心が嘘のように静かだ。
「信じられないよなぁ。」
あの一瞬で寝るなんて。
僕は少し大袈裟に溜め息を吐いた。
「桂ちゃん。桂ちゃん、風邪ひくって。」
「…オレはそんなヤワじゃない。」
「なんだ。起きてんのか。」
用意周到だよな。彼はいつものお気に入りの毛布をしっかりと抱きしめ、ベランダで丸まっている。
「ネコにでもなりたいのかよ。」
「オレ、ネコだもん。」
毛布の中からくぐもった声がして、またくすくすと笑っている。
何がそんなに楽しいのかと思った時、彼は勢いよく立ち上がり大きく伸びをした。
「んー。碧音、コーヒー飲むか?」
「あ、うん。飲む。」
彼は僕の頭をポンッと叩いて、毛布を引きずりながら部屋に戻っていく。
コーヒー好きな彼は、手間を掛けた方が美味しいのだと、いつもサイフォンでコーヒーを淹れてくれる。
「砂糖は?」
「最近入れてない。」
コトッと僕の前にマグカップを置き、彼は部屋の入り口近くの椅子に座った。
この部屋は工房と彼の自室の間にある、作品たちの住処だ。壁や棚、ショーケースを設置して保管している作品たちもいる。
久しぶりに入った部屋には幾つかの新作が増えていて、僕はじっくりと見て回った。彼はそんな僕を遠目に眺めて微笑んでいる。
僕たちはしばらく無言の時間を共有し、お互いがその空間を満喫しているように感じた。
「碧音、急なんだが…来月から長期で留守になりそうだ。」
静寂を破ったのは、彼だった。
「長期って事は、いつ戻ってくるか不明って事なんだね。」
彼は眉間に皺を寄せ、不機嫌な表情で頷いた。
どちらともなく交わす言葉を見失い、また静かに時を刻む音だけが微かに耳に届いてくる。
「桂ちゃんって…」
「うん?」
「桂ちゃんって、桂花さんのこと、今でも、その…好きなの?」
僕の突然の問い掛けに、彼は息を飲んだ。そして少し照れた表情をして僕を見ている。
「何か、変なこと言った?」
平静を装い、敢えて大したことではない言い方をしてみたけれど、僕の心臓は今にも爆発しそうなほどドキドキしている。
彼はわざとらしく咳払いをして、自身を落ち着かせるようにコーヒーを飲む。
「まさか、おまえからそんな言葉を聞くなんて思ってなかったよ。」
彼はそう言って苦笑した。その表情は今まで僕が見たことがない、優しくて綺麗で…儚い微笑みだった。
「きっと、これから先もずっと…ずっとオレの想いは変わらない。」
凛とした響きのある声で告げる彼の姿は、どこか誇らげにさえ見える。
「うん。オレ、桂花が好きだよ。」
まっすぐに見つめられ断言された僕は、黙って彼を見返すことしかできなかった。
「オレ、ずっとおまえの父親が…桂太が羨ましかった。」
「え?」
フッと笑い、彼は続けた。
姉弟とはいえ、ずっと一緒にいられる桂太を羨ましいと思っていたのだと言う。彼は時間になると当たり前だが、家に帰らなければならない。いつも一緒に遊んでいたけれど、見えない壁が常にあったのだ。会っているときは感じなかった淋しさを知り、彼は彼女に惹かれている自分に気付き始めた。
「でも、自分の気持ちを素直に認められた時には…遅かったんだけどな。」
彼は淋しそうに笑って言った。
思いを言葉で伝える前に、彼女は何も告げずに姿を消した。何度かそんなことがあったからだろう。いつものようにそのうち帰ってくると思っていたが、数週間が経っても結局、彼女は帰ってこなかった。
更に時間が流れ、それぞれが忙しくなり、少しずつ待つだけの日常から遠のいていった。桂太は幼い頃からの夢を叶え、桂は足りない何かを求める旅へ向かう。
二人は違う道を選び、歩き出した。
「桂太は、ちゃんとなりたい自分になったんだよ。」
「航空士になりたかったんだ。」
「そう。小さい頃からいつも空を見上げて言ってたよ。」
『いつか三人で空を飛ぶんだ!』
その答えが航空士だったのかはわからないが、確かに夢を叶えたのだと思う。
「オレは、やっと自分の足りなかった何かを見つけられたのだと、思ってる。」
ただ、それには形がないから、思い描く『何か』を形にしているのだと言った。
彼の生み出す作品たちのことを言っているのだろうと思い、僕は改めて部屋の中をゆっくりと眺めてみた。彼の作品たち…透かし彫りもガラスの彫刻も、通常の世界に薄くモヤがかかったような儚さや神秘さを感じさせてくれる。そんな幻想的な感覚を見せてくれるのは『彼』だからこそ、なのかもしれない。
「夢が叶っても、足りないものに気付いても、オレたちは桂花を忘れたわけじゃない。オレは、ずっとアイツの帰りを待ってた。」
不定期に届く、言葉のない絵ハガキの送り主を彼女だと信じ、再会を願っていた。そんな時、一通の手紙から、彼女とオレの本当の繋がりを知ったんだ。そして時を同じくして…彼女と再会した。
彼女との、再会…
正確には、彼女の気配との再会、なのだろうか。
「キンモクセイが甘く香る季節だったせいなのかもな。」
「え?キンモクセイって?」
僕の言葉に彼は一瞬驚いた表情をした。
「碧音は聞いたことないか?」
― キンモクセイの甘い香りに酔った者たちは、かくりよの世界への扉が開かれ、迷い込むことがある。 ―
彼は嬉しそうにそう言って、少し遠くに視線を向ける。
「あの時…桂花と再会した時、オレは知らなかった事実をすべて知った。」
月光に照らされ、ぼんやりと桂花の姿が見えた時、もう二度と失いたくないと思った。誰よりも大切な存在である桂花を…二度も失うわけにはいかないのだと、瞬間的に覚悟を決めた。
「オレ、かくりよの扉をくぐり抜けたことがある。」
彼の言う『かくりよ』が僕の認識と同じものだとしたら、彼は、すでにこの世界に存在していないことになってしまうのではないだろうか?
「強がってるように聞こえるかもしれないけど、迷いなんて全くなかった。」
自らの命と引き換えにしても、失いたくないと思える存在って何だんだ?
僕は、彼の言葉がだんだんわからなくなっていた。特別な表現でも難しい言葉でもないはずなのに、意味がわからない。言葉が理解、できない。
「碧音?どうかしたのか?」
「…らない。桂ちゃんの言ってることが、わからないんだ。どう…して?なんで…」
「碧音。良いんだ。わからなくて、良いんだよ。」
彼の声はどこまでも優しくて、温かい。
「きっとまだ知らない感情だから、わからなくて良いんだよ。」
大きな手がそっと僕の頭を撫でる。いつもの桂がいるのだと感じられるだけで、心の不安が溶けていく。
幼い頃からずっとそうだった。僕の疑問や不安をちゃんと受け止めて、解いてくれるんだ。僕が憧れている『桂ちゃん』はいつだってそっと見守ってくれていた。これからもずっと変わらないはずだ。でも…今、ここにいる『桂』は僕の知らない感情を持っていて、何だか急に遠い存在になってしまったように思う。
僕がまだ知らない感情って…なんだろう。
少し暗い朝靄の中を歩いて帰った僕は、重い身体をなんとか動かしベッドに倒れ込んだ。
「疲れた…」
今は眠ろう。何も考えずに、今はただ、眠りたい…
近くにいたのに知らなかった事実を知らされた時、彼は驚いただろうな。普通に過ごしていた当たり前だった関係が、本当は作られたものだったと告げられて、一体どう思ったのだろう。
真実をずっと隠されたままだった彼は、どうして親友を…実の弟を許すことができたのだろうか。
自分の出生も取り巻く環境も、信頼していた存在さえ、何もかもが間違いだったとわかった時、虚無感に溺れなかったのは彼の持つ強さ故なのだろうか?
怒り、悲しみ、困惑や不安…たくさんの負の感情を抱いたはずなのに、彼は一度もそんなことを言わなかった。だけどもしかしたら、そんな感情を抱いていたからこそ、彼は迷わずに開けてはいけない扉に手を伸ばしたのかもしれない。『二度も失いたくない』と強く願っていたのだから…それでも、失望することが怖かったのだと思いたいが、その扉の向こうに必ず彼女がいて再会できる確証なんて何ひとつなかったのに扉を開けた。生存している者が迷い込んでしまったら、戻れない世界だとわかっていながらもどうして選んだのか。彼の言うように僕がまだ知らない感情が、その理由になるのだろうか。
考え方を変えてみても、到底理解への糸口が掴めない。
「今の僕には、何もわかんないって事なのかな。」
結局、彼の事がわからないし、いくつもの消化不良な感情だけが僕の中に住み着いてしまったまま、無情に時間だけが流れていく。
どうしても仕事の都合がつかなかった父の代わりに、彼が卒業式に来てくれた。
「卒業、おめでとう…で良いんだよな?」
なんで疑問形なんだ?と思いつつ悪態をついてみる。
「留守にするんじゃなかったっけ?無理して来なくて良かったのに。」
「おお。遅れた反抗期ってヤツかぁ?」
いつもと同じ優しい笑顔で言う彼につられて、思わず笑ってしまった。
「写真撮るぞー!」
「碧音―、早く来いって。」
何人かの友人に呼ばれて僕が彼の傍を離れようとした時、不意に大きな手が頭を撫でた。
「まっすぐ、おまえが信じた道を歩けよ。」
「桂、ちゃん?」
何か違和感を感じて頼りなげに彼に呼びかける。
「オレは…オレたちはずっとおまえの傍にいるから…忘れんなよな。」
ぐしゃぐしゃと豪快に頭を撫でた大きな手は、少しだけ震えて、いた。
その後『じゃあな』といった彼は、僕の手に何かを握らせて立ち去った。遠くなる背中を見送ってそっと握った手を開く。
「あ、これって…」
彼の部屋で見つけた小ビンに入っていた指輪に革紐がついている。
「ありがとう。桂、ちゃん。」
僕がそっと革紐を首にかけると、胸元で指輪が優しく光った。それはまるで彼の微笑みを思わせるような温かな輝きで、嬉しくなった。
「碧音、早くしろって!」
「今行くー。」
卒業式の記念写真に写った僕は、ちゃんと笑えていただろうか。
いつか、彼の話してくれたことの意味を知ることができた時、僕は彼のような笑顔ができるのだろうか。優しくて綺麗で…誰かを幸せにできるような、そんな笑顔。
まずは、この正体不明な感情と向き合うところから始めてみるよ。
ずっと正体不明のまま僕の中に住み着いた感情は、今もまだ理解できていない。向き合ってきたつもりだけれど、結局この居心地の良い環境から離れる必要があると思った。もうこの地には戻らないくらいの覚悟が必要だったのかもしれない。
正直、何度も帰りたいと思ったし、少しずつ明らかになっていく事実から逃げ出したくなることもあった。でも、決して無駄な四年間ではなかったと思う。
知らない場所で知らない人達と出会い、僕はいろいろな発見をした。同じものを見ていても感じ方が違うように、人の数だけ…星の数だけ違った生き方がある事を痛感した。
「僕は少し、ほんの少しだけあなたの考えがわかってきたかもしれない。」
高校を卒業し、大学へ通い始めて三年目の夏、僕はある人と出会った。そしてその人の存在は僕にとって特別なものになっていったんだ。
「桂ちゃん、今度帰った時、紹介したい人がいるんだけど、会ってくれる?」
― へぇ。楽しみにしとくわ。
帰らないと決めて旅立ったからにはと、なかなか決意できず本当にあの日以来帰っていなかった。
「ところで桂ちゃんって今、帰ってきてるの?」
― ん?それが、まだ出先なんだ。
「じゃあ僕が帰っても、会えないんじゃないの?」
まだ出先という事は、もしかすると僕の中学の卒業式以来ずっと帰っていないという事なのかもしれないと思った。
「帰ってくる気がない、とか?」
電話の向こうでクスッと静かに笑われた気がした。
― 碧音、おまえさぁ…
「なに?」
― オレが渡したタブレット、観てないだろう?
「え?だって、あれは…」
あのタブレットに入っているのはCDに入っていたものと同じじゃないのか?
― 観て、欲しいんだけどな。
「う、うん。観てみるよ…」
微かに彼を呼ぶ声が聞こえた僕は、またねと言って電話を切った。そして事の始まりとなったタブレットを見つけ出し、電源を入れてみた。
「起動はするのにはなぁ。」
画面には読み込みエラーの文字が表示されるだけで何も映らない。最初はちゃんと動いていたはずなのに。
「あ、アイツに聞いてみるか。」
僕はアイツにメールを送った。電話ではなくメールにしたのは生活環境を考慮しての行動だ。
『明日の午後なら大丈夫。待ってるねー。』
そう。いつもこんなやり取りで約束を交わす。なんとなくお互いを必要としている関係が少しずつ居心地の良い場所を作り出しているののだと思っている。
次の日、約束通りアイツを訪ねた。
「あ、回路異常を起こしてるみたい。ちゃんと保管してなかっただろ?」
「ん?かもしれない。」
彼は呆れた表情で僕を見て、わざとらしく大きな溜め息を吐く。
「直りそう?」
「当然。」
「さすが!感謝するよ。」
はいはいと適当に僕をあしらいながらもタブレットを直してくれた。
「ところで何のデータなの?」
「僕もまだ知らない。」
彼は『あ、そう』とだけ言ってそれ以上何も聞かなかった。聞かれたとしても答えは変わらないんだけど。
「碧音、あのさぁ。ボクね…」
「うん。」
「なんでもない。また今度、話すわ。」
彼はそう言って少し悲しそうに笑った。そんな彼が気になって、できるだけ一緒にいたいと思ったけれど、ゆっくりと確実に『その時』は歩み寄っていた。
「瑞樹、また来るよ。今日はありがとな。」
「うん。またな。」
いつも明るい笑顔で見送ってくれる彼とは、それきり会えなくなってしまった…
アイツ…瑞樹は中学の時事故に遭い、それが原因で余命宣告されていた。その日よりも長く生きられた彼は、逆にいつ『その時』が訪れても不思議ではない状況だったという。
「そう…ですか。瑞樹が…旅立ったんですね。すぐに向かいます。」
僕は彼の母親から連絡を受け、すぐに病院に向かった。病室の周りに数人の大人たちがいる中を足早に通り抜けて部屋に入る。
「瑞樹…またねって言った、のに…」
眠っているだけに見える程、穏やかな表情をしている彼の手をそっと握り、僕は心の中で何度もありがとうを伝えた。
初めて親友と呼べる存在と巡り会えて、心から大切で失いたくないと思えたんだ。彼の余命の話を聞いて、もし僕が代われるのなら代わりたかった。彼に見て欲しい世界がたくさんある。知って欲しい事だってたくさん、たくさん…あるんだ。
「もっと…もっと早くに、出会いたかった…」
願ったところで叶わない事だとわかっているのに、願わずにはいられなかった。
「瑞樹…もう一度、会いたい。」
せめて、もう一度だけで良いから目を開けて。たくさん話したいことがあるんだ。
「瑞樹、またね。おやすみ…」
僕は静かに眠る彼にそう言って扉を閉めた。
数日後、僕はやっと彼に直してもらったタブレットの電源を入れた。気持ちの切り替えという意味もあったのだろう。僕にとっての原点だから。でもタブレットを観ていないと言ったと時の桂の対応を思い出すと改めて観るのが怖かった。
「何、だよ。これって…」
彼は本当にこれを観て欲しかったのか?
何年か前に部屋で見つけたアルバムに残されていた記憶たちの中にはボックの知らない時間が混ざっていた。でも今、画面上に映し出されているのはすべて僕の中にある。切り取られているはずのシーンが自然に繋がって次々と動き始める。まるで、動画を観ているようだ。
「あれ…?」
僕は自動再生を止めて画面を確認した。
父が…桂太が後ろの方を歩いていて、僕は桂に肩車されているって事は…?
「誰が、撮ってんだよ…」
不思議に思ってじっと画面に見入っていたら次の写真に切り替わってしまった。
「えっ…」
不意に桂と視線が絡まって言葉を飲み込んだ。僕は耐え切れなくなって思わず停止ボタンを押し、画像を消した。
「何だよ、今の表情。あれは反則じゃねーのか?」
写真を撮っていたのが誰なのかわからないし、そこにいたのかさえ不明だけれど、桂は確かにその人を見つめていた。とても優しくて深い想いが込められた視線だった。気持ちを落ち着かせるために、僕は何度も深呼吸をした。
「はぁ。桂ってあんな艶っぽい表情するんだ。あー、まだドキドキしてる…」
視線が重なった瞬間、心が跳ねて鼓動が落ち着かなくなった。こんなに動揺したのはきっと初めてだ。
「もう二度と見ない!」
再びタブレットに向かいその他にもあるフォルダーを順番に観ていく。
「こんなにもたくさん僕の大切な思い出たちが入っていたのか。」
ずっと残してくれていたことがすごく嬉しかった。
「桂ちゃんは、これを観て欲しかったんだ。」
幼い僕が少しずつ成長していく時間の流れと、感情のままに怒ったり笑ったり、そして泣いている姿を届けたかったのだろう。知らないうちに憧れの存在に近づくことだけを考えて背伸びばかりしていた僕に、今の自分と向き合う事も必要だと伝えたかったんだ。
その時、画面にノイズが入った。
「通信障害か?」
― 本当にちゃんと繋がってんのかよ?
「え?何?」
― 何も映ってないけど?なぁ、桂。
― ちょっと待てって。
桂ちゃんと、お父さんの、声…?
「桂、ちゃん?」
僕は画面に呼び掛けてみた。
― あ。声は継ったぁ。
画面の向こうで、確かに桂ちゃんの声が聞こえる。
― 碧音、聞こえてるのか?
「お父さんまで、何やってんの?」
― 桂が、オンライン通話しようって言い出して、始めたのは良いんだけど。
映像が届いていない、という事か。こんな時、アイツがいてくれたらなぁと思っている自分に苦笑した。もう、会えないんだった…
「あっ」
― おっ
何をどうやったのかわからないけれど、画面上に二人の姿が映し出された。
― 碧音。元気そうだなぁ。
「二人も、元気そうで良かった。」
― 実は、顔を見て伝えたいことがあってな。
久しぶりに見る父は、いつになく真剣な表情をしていた。
「僕も、聞いて欲しい事が…あるんだ。」
僕たちは初めて三人で話をした。いつだって誰かがいなくて、こんなふうに会話する日が来るなんて思ってもなかった。何年も会っていなかった僕たちはそれぞれの近況報告をして、文句を言ったり笑ったりして過ごした。
僕は瑞樹の話をした。どうしても二人に伝えたくて、出会った日から『またね』を言った時までの事をすべて、話した。僕が初めて出逢えた最高の親友だから、本当は二人に会って欲しかったんだと、伝えた。
「あ、れ…なんで今更…」
瑞樹の母から連絡を受けた時も、実際に会いに行っても泣かなかったのに、どうして今になって涙が溢れてくるのだろうか。
― 碧音、泣いて良いんだよ。
― ちゃんと向き合えて、偉いな。
「僕、瑞樹に…会いたい。もう一度だけでも良いから…会いたいんだ。なんで、こんな事に、なんで瑞樹が…」
二人に見守られながら僕は、泣いた。
画面という隔たりがあるはずなのに、僕は二人の優しさと温もりを感じて、余計に涙が止まらなくなってしまった。
「ごめん。もう大丈夫。ちょっと落ち着いたから。ごめんね。」
― 謝んなくて良い。
― 碧音、謝ることじゃないんだよ。
僕はこんなにも大切に想われていたのかと再認識をした。そう思える程に画面越しの二人の笑顔が心に残った。
少し照れたようなはにかんだ笑顔の父と、いつも通り優しい笑顔の桂ちゃん。
僕はこの二人が大切で、大好きだ。
「二人とも、ありが…とう…」
って伝えたかったのにな。
無常にも再び画面にノイズが入り映像は突然途切れてしまった。
― …音、聞こえてるのか、わかんないけど…
桂ちゃんの声が聞こえた。
― …ってる。待ってるか、ら。オレ、たち、は、ちゃ…んと、おまえの、…いる…
「桂ちゃん!」
そのまま音声も聞こえなっくなってしまった。
「ありがとう。桂ちゃん、お父さん。」
僕の気持ちは伝わっているのだろうか。だけどこの言葉が届いていなくても、きっと二人はわかってくれているような気がする。
この四年間を無駄ではなかったと断言できるのはきっと、僕が知らなかった感情と出会えたからなのだと思う。
桂が話してくれた事の意味が、今の僕なら少しは理解できそうだ。
例えるなら、壊れて錆び付いてしまった回路を修復し、破損したデータも修復して正常な状態に組み直していくように、だんだんと明らかになる事実と書き換えられていく記憶が重なり合った刹那、僕の中で『何か』が音を立てて弾けた。
「そう。僕はずっと、それを知りたかったんだ。」
ゆっくり、ゆっくりと閉ざされていた扉が開かれていく。修復されたデータがケーブルの管を流れ、モニターに映し出された画像のように、僕の中で知らなかった感情が、今、静かに生まれたのだ。
やっと知らなかった感情が解けて、少しずつ動き出した。これが桂の言っていた事なんだと思った時、目の奥がじんわりと熱くなり『ああ、泣くんだ』と思い、静かに目を閉じてみた。だけど、涙は零れず、その代わりに胸の奥にとても暖かくて優しい風が流れ込み、そっと懐かしい香りを届けてくれた気がした。
「帰るか…な。」
そう呟いた僕はきっと優しい笑みを浮かべている、だろう。
少しはあの人に…桂に近づけたの、かな…
久しぶりに帰ってきたせいだろうか、見慣れた街なのに、どこかよそよそしさを感じる。特別何かが変わったわけではないのに、懐かしいはずの景色はピースの欠けたパズルのように、何かが足りない。
「ただいま…」
「おかえり。」
返事がないと決めつけていた僕は、聞こえた声に驚いた。
「帰ってくるって言ってたから。」
そう言って笑う父の姿は懐かしいというより、なんだか新鮮な感じがした。
「部屋、そのままにしてあるから、少し休めよ。」
「うん。ありがと…」
普段からあまり会話がなかった僕たちは、結局そのままの関係みたいだ。
「碧音。」
「何?」
二階の自室へ向かう途中で声を掛けられ、見下ろす形で振り返った僕を見上げた父は眩しそうに目を細める。
「なんか…おまえ、桂に似てきたなぁ。」
と嬉しそうに笑う。
「なんだよ、それ。」
意味が分からずに眉間に皺を寄せる僕を見て、父は更に満足そうな表情をした。
「おやすみー。疲れてんならお父さんもちょっと休んだら?」
そう言って僕は背を向けて手を振った。
「碧、あとで桂んとこ行けよな。」
「あ…うん。あとで…」
本当は会いたくない気持ちが僕の中にあることを、父は知っているのだろうか。
駅から僕の家に着くまでに、昔よく遊んだ川原と桂の家がある。川原は今もあったけど、少し狭くなっていた。桂の家の方は…なんとなく視線を向けられなかった。この街に感じた違和感の正体は、僕自身の気持ちの変化が原因なのかも知れない。
「はぁ。やっぱりこのベッドは好きだなぁ。」
長期間使っていなかったベッドは少し軋んだ音を立てたが、すぐに僕を眠りへと誘ってくれた。
窓を開けたまま眠ってしまった僕は、夜気を含んだ少し冷たい風に起こされた。
「まだ夜は少し冷えるか。」
窓を閉めようと起き上がった時、ふと思い出した。
「あ、桂ちゃん家、行ってない。」
直接約束したわけじゃないけど、父はきっと僕が帰ってくることを話しているだろう。
「…今から、行こ。」
いつだって僕は突然彼に会いにいくから、今から行っても大丈夫…だと思いたい。
僕はポケットにある物を入れ、彼の家に向かった。
「桂、ちゃん。いる?」
声をかけても返事はない。僕はいつものように持っている鍵で勝手に扉を開けて入っていく。
「あれ?」
家に入ってすぐ、違和感に気づく。いつもの、香りがしない。桂の大好きなキンモクセイの香りがしていない図書館は少し、淋しかった。
「これ、何の香りだろう…」
キンモクセイの甘く妖艶な香りではなく、甘いけれど爽やかな香りがする。よく見ると部屋のテーブルや棚に白やピンクの花が飾ってある。四枚の花びらは十字型をしていて、小さな花が集まって丸い花を型取っている。
「その花はジンチョウゲっていうんだよ。」
工房にいたのか、桂はゆっくりと階段を下りてきた。
「ジンチョウゲ?初めて聞いた。」
「瑞々しい香りと書いて瑞香っていう別名もあるんだって。」
「へぇ」
「おかえり。碧音。」
桂は、まっすぐに僕を見て、優しい微笑みを添えてその言葉をくれた。
あの頃と全く変わらない、桂の姿で。
「ただいま。」
僕は動揺していることが伝わらないように、そう返すだけで精一杯だった。それに気づいているのか、彼はクスッと笑って…
「この花はおまえの誕生花なんだって。誕生石と同じで花もあるって教えてもらった。」
誰に、教えてもらったのかは聞かなくても、なんとなくわかっていた。
「ねぇ、桂ちゃんは、いつから『桂ちゃん』なの?」
僕は一番聞きたいけど、聞きたくない事を言葉にしてしまった。彼の表情から、ふと笑顔が消えた。そして目を閉じて静かに言った。
「二十年以上前に、なるかな…」
「二十年、前って。」
「桂花に再会した後、オレは決心したんだ。」
彼は『かくりよの扉をくぐった事がある』と話してくれたことがあった。きっとそれは、彼女が存在している世界に行く事を決意し、それを実行したということだ。
「じゃあ、桂ちゃんは、どうして今も僕の前にいてくれるの?」
自分でも声が震えている事がわかる程に緊張している。彼の返事を聞くのが、怖い。
「オレ、桂花を二度も失いたくないって思いだけで、アイツの世界へ行ったんだ。再会できる保証なんてどこにもないのに、会えると信じていた。ホント、バカ…だよなぁ。」
彼はそう言って苦笑した。
「向こうでアイツに会えた時、泣きながら怒られた。でも、ありがとうって言ってもらえたことが、嬉しくて…オレも泣いた。そのまま帰れなくても良いと思ってたけど、アイツの言葉を聞いてオレなりに考えて答えを出した。だから、今も、おまえの…碧音の前に存在しているんだ。」
単なる噂でしかなかったが、オレたちはその噂を信じることにしたんだ。
『かくりよに生存している者から贈り物を受け取った者は、ひとつだけ願いが叶えられる。逆もまた然り。』
「オレと桂花は噂を信じた。オレは少しの間、自由にかくりよと現世を行き来できる事を…桂花は碧音に大切な存在が見つかる事を、願って互いに贈り物をした。」
「それで…その願いは?」
彼は嬉しそうに笑った。
「もちろん。二人の願いは叶ったよ。碧音は大切だと思える存在に出逢えて、今も心にちゃんと生きてるだろう?」
瑞樹の事だと、すぐにわかった。そう、僕は自分よりも大切だと思える存在に出逢えた。だからこそ、桂ちゃんの言葉の意味が理解できたんだ。
「なぁ、碧音。」
「何?」
彼はそっと溜め息を吐く。
「オレ、また留守にするからさぁ…」
彼は優しく微笑んだ。
「ここ、頼むわ。」
「え?」
「オレの代わりに、ここを守ってくれないか?ちょっと期間がわからないから、今回はお礼に贈り物を用意してるんだ。」
「お礼?」
「ま、明日になれば、わかるよ。」
意味深に微笑みながら話す彼は、すごく楽しそうに見える。
「もうすぐ…夜明けだなぁ。」
「うん。」
そろそろ…行くんだね。桂花さんのところへ…
「碧音、待ってるからな。ずっと、オレたちはおまえのこと、見守ってる。もっともっといろんな事に出会えるから。もっともっと幸せを見つけていけよ。」
「桂ちゃん…」
これ以上何もいらない。もう、何もいらない。だから、だからあと少し…ほんの少しでもいいから…一緒にいて、欲しい。
ゆっくりと空が明るくなるに連れて、彼の…桂の姿が透けていく。
「桂ちゃん!」
「碧音、またな…」
「桂。これを…」
僕はポケットからある物を取り出し、桂に渡した。受け取った彼は広げた手の中の物を見て嬉しそうに笑った。
「ありがとう。お揃いだな。」
まだまだ歪だけれど、桂にもらった指輪を真似して透かし彫りした指輪を、贈った。
僕の初めての作品。
どうしても桂に受け取って欲しかったんだ。キンモクセイを彫った指輪を…
少し暖かさを感じる朝日の中、僕は一人、その場に立ち尽くしていた。
そして…
「何、考えてんだよ…桂の、バカ…」
目の前に広がる情景に、僕は涙が止まらなくなった。
シンプルな四角い印象の家。壁にはツタが這っているような、そんなちょっと不気味な家だ。外側から中が見えるようにと、通常よりも大きめの窓がある。
彼はそこに、ガラスの彫刻を施したのだ。ほぼ壁一面くらいの範囲。左上にはキンモクセイの花たち。その下を並んで三人が川原を歩いている。川原の反対側には二人の少年が座っていて傍らにはジンチョウゲが咲いている。
そこには彼らと、僕たちが描かれていた。
『ジンチョウゲの花言葉は永遠、なんだって。』
「そんな事、教えてもらわなくても、知ってる…」
いつか、そんなふうに笑ってやるから…
どこからか優しい風が吹いて、ハラハラと桜の花びらが舞い降りてきた。時間が流れて、また季節が変わっていく。
「今度は、いつ帰ってくるんだろうな…」
もう帰ってくることはないとわかっているけれど…
僕は空に向かって大きく腕を伸ばした。
僕の大切な人たちに、いつか想いが届くようにと願いながら、彼にもらった指輪をそっと握り締める。
彼の工房で静かに僕の訪れを待っている花と出会うのは、もう少し先の事になる。
そこには、甘い香りの強い、真っ白なクチナシの花がいる。
『とても、幸せです。』
そんな彼らの想いを伝えるために、僕を待っている。
最後までお付き合いくださいましてありがとうございます。
snowの世界はいかがでしたか?
文字が描き出す世界を想像して頂けたら…とても嬉しいです。
また機会がございましたら、ぜひ他の物語たちも読んでみてください。




