踊り場の女
このお話に出てくる下半身のない幽霊は、実際私が見たものです。
それだけで何かあったわけではないですが。
どうせなら、小説にしてしまえと、こねくり回してこれが完成しました。
第一章:澱んだ空気の日常
私が住むT団地は、ただ古いというだけの言葉では到底表現しきれない、奇妙な重さを持った場所だった。この集合住宅群は、建設されてからすでに半世紀近くの時を刻んでおり、その躯体全体が、長い風雨と住人たちの生活の澱によって、疲弊しきっているようだった。
外壁のコンクリートは、まるで病的な皮膚のように、雨垂れの筋と、苔やカビが複雑に絡み合った薄汚い迷彩模様で覆われていた。鉄骨の手すりに覆われた外付け階段は、錆が浮き、そこからは、いつも重く湿った鉄錆の、独特の匂いが立ち上っていた。
まだ多くの部屋に人が住み、生活の営みはあるはずなのに、団地全体を支配している空気は、まるで底なし沼の底のように澱んで、重たい沈黙だけが、棟と棟の間に横たわっていた。賑わいも、子供の笑い声も、もう何年も前から聞こえない。そこに存在する物、そこに住む人々、その全てが、ただひたすらに疲弊し、息苦しいのだ。
私は高校二年生の裕子。私の部屋は四号棟の最上階、五階にある。当然、エレベーターなどという便利なものは存在せず、毎日の通学、そして帰宅は、この無機質な外付け階段を上り下りすることが宿命づけられていた。毎日の上り下りは苦痛だが、エレベーターが設置されるような新しい建物ではないので、我慢するしかない。
階段を上がる際、私はいつの頃からか習慣になっていたように、無意識に、一番上の踊り場を見上げる。視界の奥、階段の垂直な線と、踊り場の水平な線が交差する、光と闇の境目。そこは、団地の内部と外部を繋ぐ、無機質な中継地点だ。
そして、見上げたその瞬間だった。
私の心臓は、激しく鼓動を打つ熱いポンプから、一瞬で凍りついた岩へと変貌した。全身の血液が、重力に逆らって急激に引き上げられたような、非現実的な感覚に襲われた。
五階へ続く踊り場。薄汚れたコンクリートの床。夕焼けの最後の光が、奇妙なオレンジ色を反射させ、壁のシミをぼんやりと浮かび上がらせている。その一番奥、廊下の角の壁際。
居た。
最初に目に焼き付いたのは、その異常な存在の仕方だった。宙に浮いているわけではない。彼女は、手すりから上に顔が出ているから、床に確かに立っているはずだ。しかし、腰から下が、まるで太い断裁機でスパッと切り落とされたかのように存在しなかった。
学生服。濃紺だったはずの生地は色褪せ、黒ずんで埃をかぶっているように見えるセーラー服。スカートは存在せず、その腰の切断面から、彼女は直接床に立っていた。どういう物理法則でそれを可能にしているのか、理解が追いつかない。その切断面から、何かが零れている様子もなく、そこはただ、空虚な無だった。
顔は、高さと、踊り場に溜まった濃い暗闇のせいで、細部までは識別できない。だが、そのセーラー服の襟の白さだけが、闇の中でぼうっと浮かび、そして、その顔が明確にこちらを向いていることだけは、私にははっきりと分かった。
階段の下から、完全に硬直して見上げる私。踊り場から、微動だにせず、ただそこに在る下半身のない女。
彼女は動かない。息遣いもない。まるで、団地の澱んだ空気が、長い年月をかけて偶然セーラー服の形を取り、あの場所に固定されてしまったかのようだ。その圧倒的な静止こそが、何よりも恐ろしい違和感を生み出していた。
恐怖で鼓膜が破れそうに脈打つ。呼吸の仕方を忘れた。足が石膏で固められたように動かず、逃げることも、叫ぶこともできない。スクールバッグの重さが、私の体の重心を後ろに引っ張り続け、意識だけが、切り離されたように踊り場の女に集中する。
どれほどの時間が経過しただろうか。私の体感では、数秒が、永遠にも感じられた。
私は、奥歯が砕けるほどの力で強く噛み締め、両目を硬く閉じた。そして、理性が限界を迎えた勢いで、階段を駆け上がった。そして、ついに四階へ。心臓が胸郭を突き破りそうな激しい鼓動を打つ。
女がいたさらに上の踊り場をそろりと確認する。女はすでに消えていた。
先ほどの光景が忘れられず、固く目を閉じ五階へと駆け上がった。自分の部屋のドアに飛びつき、鍵を無理やり回し、勢いよく部屋の中に転がり込む。
ドアを閉め、二重に鍵をかけ、そして、全身の震えをどうすることもできずに、壁に背中を押し付けて座り込んだ。
「気のせいよ。疲労だ。幻覚だ」
何度も何度も自分に言い聞かせたが、その言葉には、全く実感が伴わない。昨日までの日常は、踊り場に立ち尽くすその怪異によって、音を立てて崩壊した。
窓のカーテンをそっと開け、外を見る。団地は、深い闇と沈黙に包まれている。
しかし、私は悟っていた。自分は、あの階段から、あの女のいる、澱んだ空気の破片を部屋の中に持ち込んでしまった。
そして、この団地に住んでいる限り、明日も、明後日も、この階段を避けられないという事実が、私を窒息させるかのように、無限の恐怖を生み出した。
第二章:闇に隠された真実の予感
翌日、私は体調不良を訴えて学校を休んだ。昨日経験した極度の緊張と精神的な衝撃は、頭痛と吐き気という形で、明確に肉体を蝕んでいた。枕に顔を埋め、暗い部屋の中でうずくまっても、瞼の裏には踊り場に立つ、下半身のないセーラー服の残像が焼き付いて離れない。
昼過ぎ、意を決して私は自分の部屋を出た。廊下の隅から、恐る恐る階段を覗き込む。太陽の光が、苔が生えたコンクリートの壁を照らし、踊り場のシミや汚れが詳細に見えた。彼女の姿は、どこにもない。
「やっぱり、気のせいだったんだ。夕暮れの光のイタズラだったんだ」
心底、安堵が広がった。全身の力が抜けていくような感覚に襲われる。私は階段を下り、団地の外へ出て、新鮮な空気を吸い込んだ。
団地の外側は、どこにでもある、古びた集合住宅の風景だ。どこにも怪異の気配はない。しかし、再び四号棟の階段に戻り、四階から五階へ上がろうとした瞬間、私の額に、昨日と変わらない、冷たく粘着質な視線が突き刺さった。
私は足を止め、顔を上げた。そこにいるはずの五階へ続く踊り場には、誰もいなかった。だが、見えない何かが、頭上、踊り場から私を見下ろし、私の存在を静かに値踏みしているような、確かな圧力を感じた。
私は、その踊り場を通り過ぎる時、無意識に呼吸を止めて駆け抜けた。この団地では、目に見えない何かが、常に私を監視している。
その日の午後、私は自分の抱える恐怖が、単なる幻覚ではなく、この団地に隠された過去の真実と繋がっていることを突き止めなければ、精神が確実に破壊されると悟った私はノートパソコンを開き、インターネットの闇へと手を伸ばした。
検索窓に、呪文のように「T団地 事故」と打ち込む。最初にヒットするのは、区役所の古い防災情報や、不動産の賃貸情報ばかり。しかし、検索ワードを「T団地飛び降り階段」「T団地変死女子高生」と絞り込むと、インターネットの奥底に追いやられていた、怪しげな情報が浮上してきた。
それは、公的なニュースとは程遠い、古い匿名掲示板のスレッドや、都市伝説マニアの個人ブログだった。情報源は不明確で、日付や人物名は曖昧だが、ある一点で、驚くほどに共通する記述があった。
四号棟は出る。階段の噂は本物。見ても逃げるな。
三十年くらい前の事故。夜中に女子高生が階段から落ちた。ただの事故じゃなか
った。
下半身の損傷が酷すぎて、警察は当初、事件性を疑ったが、住人の証言がすべて
一致したため、最終的に「転落による事故死」として処理された。
遺体の発見場所は、四階と五階の間の踊り場。
私の心臓は激しく波打ち、手のひらがキーボードの上で汗に濡れた。下半身の損傷。女子高生。発見場所は、私が恐れて見上げた五階へ続く踊り場。そして、私が住む四号棟。
私が目撃した恐怖の光景は、三十年前にこの団地で実際に起こった、凄惨な事件の生々しい残像だったのだ。
しかし、なぜ、ただの転落ではありえないほどの損傷を負ったのか。そこに、この団地が三十年間隠し続けている、人間の悪意が絡んでいることは間違いない。公的な記録は、団地の平穏を保つために改竄され、封印されているはずだ。
私は、この過去の事件の真相、そしてあの女の正体を突き止めるには、この団地の奥深くにいる、過去の生き証人を探すしかないと確信した。
私は、団地の裏手にひっそりと佇む管理人室の田村さんを思い出した。彼は、団地ができた頃からここにいる、全てを知る老人だ。彼の口から、この澱んだ空気の根源となる真実を引き出す必要がある。私の日常を取り戻すためには、この悪意に満ちた過去と対峙するしかない。
第三章:古びた証言の核心と断片
次の日、土曜日。私は、極度の緊張を押し殺し、決意を持って管理人室へと向かった。
団地の隅にひっそりと佇むその小さなプレハブ小屋は、団地の長い歴史と秘密が、濃厚に澱んでいる場所のように思えた。
団地ができた頃から住み込みで働いている田村さんは、白髪交じりで、団地の築年数そのものを体現しているような老人だった。彼の目は、多くの出来事を見てきたせいか、どこか遠い過去を見つめているようで、深い諦観が滲んでいた。
私は「学校の課題で、昔の団地の生活について調べている」と嘘をついた。そして、コンビニで買った温かい缶コーヒーを田村さんに差し出した。
「田村さん、この四号棟って、昔からあまり変わっていませんよね。特に、外付けの階段とか。」
私は、声が上ずらないように努めながら、探りを入れた。
田村さんは缶コーヒーを受け取り、一口飲んでから、窓の外の四号棟にぼんやりと視線を向けた。その動作一つ一つが、重く、ゆっくりとしている。
「四号棟か。あそこはな、昔からちょっと澱んでるんだ。日が当たりにくいせいか、住人が入れ替わっても、空気だけは変わらない。」
私は、自身の感じていた「澱んだ空気」が、この団地の住民たちの間では、暗黙の了解だったことに戦慄した。それは、物理的な現象ではなく、この場所に根付いた精神的な重さなのだ。
「階段ね。まあ、事故はあったよ。古い団地だ。三十年も経てば、色々あるさ」
田村さんは、そう言いながら、少し声を潜めた。
「特に四号棟で、階段の事故があったと、インターネットで見たんですが」
私は、情報源を曖昧にごまかしながら、核心に迫った。
「……もう三十年近く前になるかね」
田村さんは、組んだ両手に顎を乗せ、重い口を開いた。
「当時、五階に住んでた佐々木恵美っていう高校生がいた。真面目で、控えめな子だったが。あの子がな、夜中に階段から落ちたんだ」
噂と、私の脳裏に焼き付いた怪異の姿が、鮮明に重なり始める。私は、唾を飲み込んだ。
「警察は、事故処理した。夜中に階段で足を滑らせた、ってな。だがな、あの時の状況は、誰も事故だとは思ってなかったよ」
田村さんは缶コーヒーを再び手に取り、私の目を見据えた。彼の目には、遠い過去の惨劇を再び目撃しているかのような、痛みが見て取れた。
「発見されたのは、四階と五階の間の踊り場。遺体の損傷が凄まじくてな。特に下半身。ただ落ちただけじゃ、あんな風にはならないと当時の消防隊員の一人が、口を滑らせたのを、こっそり聞いたんだ」
私の全身から、血の気が引いていくのが分かった。下半身のないセーラー服の女。四階と五階の間の踊り場。彼女がこの目で見た恐怖の光景は、三十年前、この場所で起きた凄惨な事件の、最も生々しい瞬間を映し出していたのだ。
「恵美さんは、誰かに恨みでも買っていたんですか? それとも……、いじめとか」
私は、震える声で尋ねた。
田村さんは首を振った。
「いや。むしろ真面目ないい子だった。ただ、事故の直前、奇妙なことを言っていたと聞いた」
田村さんは再び周囲を警戒し、さらに声を落として囁いた。
「恵美ちゃんは、団地の階段で、『自分の足が見えない』って、ずっと怯えていたらしい。『暗くなると、階段の踊り場に立っているのに、腰から下が無くなってしまう』って。誰にも信じてもらえなかったがな」
私の背中に冷たい汗が流れた。佐々木恵美は、事件に遭う前から、既に自らの存在の否定という呪いに侵されていた。誰も信じてくれない。自分が確かにそこに立っているのに、誰も見てくれない。その絶望が、彼女の体を精神的に切り離し、そして……。
田村さんの話は、恵美の転落死が、単なる事故ではなく、この団地の住人たちが作り出した集団的な悪意の帰結であり、秘密裏に処理された事件であることを明確に示していた。
私は、この過去の事件の真相、そしてあの怪異の正体を突き止めるためには、この団地の闇の核心に触れる必要がある。それは、恵美の死に関わり、今も五階に住み続けている、過去の共犯者に他ならない。
第四章:閉ざされた過去と共犯者の動揺
田村さんの証言で、私の心の中にあった漠然とした恐怖は、三十年前に起きた凄惨な事件という明確な実体を得た。しかし、田村さんの口からは、これ以上の核心的な情報は引き出せなかった。彼は、長年団地の管理に携わる中で、知りすぎた故の諦めと、これ以上関わりたくないという強い拒否感を漂わせていた。
私は、団地の内部にいる「過去の生き証人」、つまり恵美の事件の真相を知り、そしてそれを隠蔽し続けている当時の住人を探すことに決めた。手がかりは、「当時佐々木恵美と同じ五階に住んでいた古株の住人」という情報だけだ。
四号棟の五階には四世帯ある。階段側から、最近引っ越してきたばかりの若い夫婦の部屋、その隣が私の部屋。さらに隣は空室、残る一軒、廊下の一番奥に位置するその部屋の玄関プレートには、長年の風雨で薄れた文字で「篠崎」と書かれていた。この部屋だけが、団地の歴史と共に時を刻んできた古株のようだった。
土曜日の夜、午後七時。団地の廊下は、蛍光灯の青白い光が寂しく空間を照らしているだけで、住人たちの生活音はほとんど聞こえない。団地の夜は、いつもこんなにも静かで、重苦しい。
私は、極度の緊張で手が震えるのを感じながら、篠崎家のドアチャイムを押した。
しばらくしてドアが開き、疲れ果てたような表情の、白髪交じりの高齢女性が顔を出した。八十歳前後の篠崎ハル。その目には、常に何かにおびえているかのような、深い警戒心と、長い人生で何かを隠し通してきた者の陰りが宿っていた。
「あの、篠崎さん。二つ隣に住む私といいます。学校の課題で、昔の団地の生活について少しお伺いしたいことが……」
私は、平静を装うのに必死だった。
「うちには何も話すことはないよ。悪いけど、今は忙しいから」
ハルさんはすぐにドアを閉めようとする。その拒絶の姿勢は、まるで秘密の壁を築いているかのようだった。
「待ってください!」
私は反射的に、ドアを閉めようとするハルさんの手に触れた。
「佐々木恵美さんのことを、ご存知ないでしょうか? 三〇年前に、この階段で事故にあった……」
私が「佐々木恵美」の名前を、そして公的に隠蔽された事件のキーワードである「事故」という言葉を口にした瞬間、ハルさんの顔色が、文字通り、一瞬で紙のように白く変わった。その瞳は驚愕と恐怖で大きく見開かれ、その反応は田村さんの比ではなかった。
「あんた……、 その名前をどこで……」
ハルさんは震える声で呟き、周囲の廊下を激しく見回した。誰かに聞かれることを、彼女は心の底から恐れているようだった。そして、次の瞬間、私の腕を乱暴に掴み、力を込めて玄関へと引き入れた。
奥に見える古い畳と、埃っぽい家具。そして、カビと線香、そして何か古い匂いが混ざり合った、団地特有の、重い匂いが鼻をついた。ハルさんは、すぐにドアに鍵をかけ、私を部屋の奥まで通すことを恐れ、玄関で自室に背を向けるように立ち、向かい合う格好で話し始めた。
「誰にも、誰にも聞かれてないだろうね!? あのことは、この棟で、五階の住人たちで、封印された話なんだから……」
ハルさんは、私の質問に答えるというよりも、三十年間胸に閉じ込めていた秘密が、制御不能な形で溢れ出すのを恐れているようだった。
そして、ハルさんは震えながら、当時の五階の人間関係の、あまりに陰湿な暗部を語り始めた。団地の自治会やPTAを巡る、主婦たちの激しい派閥争い。恵美の母親がその争いで孤立し、真面目で内気な恵美が、無理をして母親を守ろうとしていたこと。
「恵美ちゃんはね、派閥の中心人物だった奥さんの、とても悪質な不正を、偶然知ってしまった。それを、彼女は勇気を振り絞って、自治会で告発しようとしたんだ」
「告発……」
私は、その勇気ある行動と、その後の悲劇の関連性に、息を呑んだ。
「そう。でも、五階の住人は、皆がその奥さんと利害関係で繋がっていた。誰も恵美ちゃんの証言を信じなかった。それどころか、彼女たち五階の住人全員が、恵美ちゃんを『精神的に病んでいる』『嘘つきだ』という噂を流して、集団で潰しにかかったんだよ」
私は、全身の血が逆流するような感覚を覚えた。あの下半身のない怪異は、単なる霊ではない。それは、集団的な悪意によって、存在そのものを否定され、現実世界から切り離された少女の、怒りと絶望が形となって現れた姿だったのだ。
「恵美さんが『自分の足が見えない』って怯え出したのも、その頃だ。彼女は、生きながらにして、存在を消されようとしていた。その絶望が、彼女の体を精神的に切り離し、あの階段の澱んだ空気に取り込まれていったんだ……」
ハルさんは、顔を覆い、しゃくりあげるようにすすり泣いた。
「そして、あの夜。私は聞いてしまった。階段の踊り場で、誰かが激しく争う声を。そして、ドスンッ! という、重たいものが落ちる、鈍い音を……」
ハルさんは顔を上げ、恐怖と罪悪感と、そして私への警戒心が入り混じった目で私を見た。
「警察には、事故だと報告した。五階の住人全員で、そう言い張ることにした。真実がバレたら、私たち全員が、殺人幇助か、共犯に問われる。私たちの平穏な生活と、団地の評判を守るために、私たちは恵美ちゃんの死を、『階段の事故』として、集団で押し潰したんだ」
そして、ハルさんは、震えながら、しかし明確な声で、最も恐ろしい核心を告げた。
「あの下半身の損傷はね、ただ落ちただけじゃないよ。争っているうちに、誰かが階段の鉄骨に、恵美ちゃんを何度も強く打ち付けた。何度も、何度も。止めに入る人間は、誰一人いなかった。それが、五階の住人全員が共有している、団地の、恐ろしい秘密なんだよ。」
私は、体中の血が冷え切るのを感じた。あの踊り場に立つ女は、人間の悪意によって存在を否定された佐々木恵美の怨念そのものだった。
「……ありがとうございました」
私はハルに背を向けると、これ以上この澱んだ空気に留まる必要はないと判断した。
ドアノブに手をかけた瞬間、ハルさんの手が私の腕を掴んだ。その手は、まるで氷のように冷たく、震えていた。
「あんた、知ったからには、もう終わりだよ… …。あの女は、秘密を知った人間を許さない。あんたも、この階段の、風景の一部にされてしまうんだ!」
その言葉が呪いのように私の耳に響いた。ハルさんの手をそっと解き扉を開け、突然の訪問を再度詫びようと彼女の方に振り向いた。その時、私の左手側、廊下の突き当りの階段から、冷たいコンクリートの怪談を上がってくる何かが力強く擦る音が、確実に近づいてくるのが聞こえた。
ヒュッ……
ヒュッ……
ズリッ……
ズリッ……
それは、下半身のない体が、階段という構造物に阻まれながらも、私を捕らえようと、執拗に体を引きずって這い登ってくる音だった。
第五章:悪意の残滓との壮絶な対決
ヒュッ……
ヒュッ
ズリッ……!
廊下を這うような、コンクリートを何かが擦り、引きずる音が、私の正面から迫ってくる。その音は、もはや単なる怪異の気配ではない。三十年前にこの団地で集団的な悪意によって殺され、存在を否定され、肉体を切り刻まれた少女の、怒りと悲しみの具現化だった。
「来る… 来るよ! あの子は、私たち全員の悪意が作り出した怪物なんだ!」
ハルの顔には、秘密が露呈することへの恐怖と、過去の罪の重さが込められていた。
篠崎ハルは、顔を蒼白にして震えながら、私という存在をそこに放置し扉を閉めた。
私の耳には、廊下の向こう端から向かってくる音が、リズムを刻まず、不規則に、しかし確実に、迫ってくる。それは、下半身を失いながらも、私を捕らえようと、執拗に床を掻きむしる怨念の音だった。
私は自分の部屋に逃げ込むか恵美と対峙するか、瞬時に判断した。
ただ逃げるだけでは、この団地の呪縛から逃れられないことを知っていた。恵美を殺したのは、突き落とした個人の罪だけでなく、その真実を三十年間隠蔽し、恵美の死を事故として押し潰し続けた団地の住人たちの集団的な悪意なのだ。この悪意の残滓を断ち切らなければ、彼女は永遠に階段の「風景の一部」にされてしまう。
私は、覚悟を決めて恵美の方に向かって走り出した。
廊下の床を力強く這い進んできた恵美が私に向かって手を伸ばした。その彼女を飛び越えて階段へ向かう。あと一歩のところで私の足元を捕らえられずに終わった恵美の手は空を切った。
後ろで向きを変える気配を背中に感じながら、一気に数段飛ばしで駆け下りた。下半身のない女の這う速度は、階段を降りる私の勢いには追いつけなかった。
私は、一階からそのまま敷地の地面へと飛び出した。
怪異の支配する棟の影から逃れ、広い視野を確保できる道路側へと移動した私は、四号棟の外付け階段をまっすぐに見上げた。冷たい夜風が私の火照った顔を冷やす。
そして、五階へ続く踊り場。
私は、そこに立っている恵美の姿を、はっきりと捉えた。昨日までの幻影とは比べ物にならないほど、その姿は鮮明で、生々しい。下半身のないセーラー服の少女。白いブラウスには、乾燥した血液のような茶色い染みが広がり、彼女の凄惨な最期を物語っていた。
彼女は、団地の外から見上げる私に向かって、微かに首を傾げた。それは、怒りというよりも、「なぜ、部外者のあなたが、私に干渉するのか」という、理解できない悲しみを湛えた問いかけのように見えた。
私は、自分が今、恵美の怨念と、そしてそれを生み出した団地の悪意という、二つの巨大な力に挟まれていることを理解した。この階段の五階へ続く踊り場は、彼女が唯一存在を許された場所。団地の住人たちの悪意が、彼女の存在を否定し、このコンクリートに縛り付けているのだ。私は、静かに、しかし決然とした意志を込めて、唇だけでその決意を紡いだ。
「私が、あなたの秘密を、世界に引きずり出す!」
私は、ポケットからスマホを取り出し、震える指先でカメラを起動した。五階へ続く踊り場が映るようにスマホを固定し、ライブ配信を開始した。
私は、堰を切ったように、興奮した口調で話し始めた。佐々木恵美の名前。三十年前のいじめと告発の試み。五階の住人たちによる集団的な隠蔽、そして、篠崎ハルから聞いた「階段の鉄骨に何度も打ち付けられた」という、あまりにも凄惨な最期の真相。
私は、団地の内部に閉じ込められていた悪意の根源を、団地の外、インターネットという無数の目がある世界へ、叫ぶように叩きつけた。
その瞬間、五階の踊り場に立っていた恵美の姿が、激しく、熱で溶けるように歪んだ。
彼女の体は、強い光を浴びた影のように揺らめき、輪郭が溶解していく。それは、彼女を三十年間縛り付けていた「事故」という名の虚構が、真実の力によって崩壊していく光景だった。恵美の姿が消滅した場所には、団地の壁や階段に深く染み付いていた、住民たちの集団的な悪意の残滓が、巨大な黒い靄となって凝縮した。
その黒い靄は、団地全体を飲み込むような巨大な影となり、階段を滑り落ちて、私を押し潰そうと、猛烈な速度で迫ってきた。
それは、恵美の怨念ではなく、彼女を殺し、三十年間この団地に澱み続けた悪意そのものが、秘密を暴露した私を「風景の一部」として永遠に吸収しようとする、最後の、そして最も強力な抵抗だった。
私は、スマホを握りしめ、全身の力を込めて、その言葉の全てに真実を宿らせるかのように、静かに配信のマイクに向かって、その魂を込めた言葉を叩きつけた。
「もう誰も、あなたを忘れない! あれは、事件だったんだ!」
私の心の中で、恐怖は消え去り、真実を求める意志が、燃え盛る炎となった。その純粋な覚悟の光が灯った瞬間、団地の壁を覆い尽くさんとしていた黒い靄の動きが、一瞬で停止し、そして、急速に霧散していった。まるで、太陽の光に晒された古い闇が消え去るように。
団地の夜は、静寂に戻った。見上げると五階へ続く踊り場から、恵美の姿が、光をまとい空へ登っていく姿が見えた。あとにはただ、汚れたコンクリートの壁と、錆びた鉄の手すりが、静かに存在するだけだった。
私は配信を終え、その場に崩れ落ちた。全身の力が抜け、彼女はただ、夜空を見上げていた。
結末:そして、夜が明ける
翌朝。
私は、団地の植え込みにもたれかかるようにして、いつの間にか眠り込んでいた。団地の棟の間に朝日が強く差し込み始めている。全身の関節が軋むような痛みを感じながら、私はゆっくりと体を起こした。
彼女が昨夜行ったライブ配信は、深夜のSNSで爆発的な拡散を見せていた。
匿名の噂や都市伝説として処理されてきた佐々木恵美の事件が、団地住民による具体的な証言と、私自身の恐怖体験を伴って公開されたことで、「T団地三十年前の未解決事件の真相」という見出しが、次々とニュースサイトのトップを飾ることとなった。
私の告発は、団地の内部に深く澱んでいた悪意を、公の光の下に引きずり出したのだ。
数日後、警察が四号棟へ再捜査に入った。三十年前の佐々木恵美の転落死は、正式に事件として再調査されることになったのだ。当時の住人たちへの事情聴取が始まり、団地の長きにわたる秘密が、静かに崩壊していく。
私の家族は、娘がネットで騒がれる中心人物となってしまったことに耐えられず、すぐにこの団地を離れることを決めた。そして今日が、この階段を上る最後の日だ。
私は四号棟の階段を上った。
太陽の光は、昨日までと変わらず、ところどころ苔の生えた階段に差し込んでいる。階段は古びており、油断すれば滑りそうなほど汚れている。しかし、昨日までのあの重苦しく、人を窒息させるような「澱んだ空気」は、もはや感じられなかった。階段は、ただの古い建築物に戻っていた。
私は知っている。この階段の踊り場は、もう誰かの魂を縛り付ける場所ではない。
私が四階と五階の間の踊り場に差し掛かった時、私は立ち止まった。下半身のない少女の姿は、二度と人の目に映ることはないだろう。自分の部屋に戻り、最後の荷物を持った私は、再び踊り場へ向かう。
私は、自分の足元、コンクリートと錆びた鉄骨の隙間に、朝日を浴びてひっそりと咲いている小さな、赤い花を見つけた。
それは、団地の悪意とコンクリートの冷たさに抗うかのように、か弱く、しかし力強く、そこに咲いていた。
それは、三十年間、存在を否定され、切り刻まれた少女の魂が、真実によってようやく解放され、この世界に根付かせた、かすかな命の痕跡のように見えた。
私は、その花に別れを告げるように、目を細めた。そして、階段を足取り軽やかに降りて行った。私の役目は、終わったのだ。
私は深く息を吸い込み、そして、団地と、そこに残した全ての過去に背を向け、一歩を踏み出した。
アスファルトを踏みしめる足裏には、確かな生の実感が伝わっていた。
(C),2025 都桜ゆう(Yuu Sakura).




