表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

婚約破棄された令嬢、聖女と淑女のたしなみ(キャッチアズキャン)で決着(ケリ)をつける

作者: 百鬼清風

 初夏の陽が射し込む王都セレノアの中央広場は、祝祭の飾りで色彩に満ちていた。絹の布が張られた壇の上には王太子アレク・ヴァレンツァが立ち、周囲には貴族、兵士、市民が入り交じる。空気は明るく、どこか浮ついていた。しかしその中心で、侯爵令嬢イザベラ・ロッシだけが、胸の奥に小さな不安を抱えていた。


 王太子から突然呼び出された理由は知らされていない。けれど、視線を向けるアレクのまなざしは、以前のような柔らかさを失っているように見えた。


 風が吹き、壇にかかる薄布を揺らした。


「皆の者。我は今日、この場で大切なことを告げねばならぬ」


 ざわりと群衆が息を飲んだ。イザベラは背筋を伸ばし、一点を見つめる。王太子の言葉は荘厳で、しかしどこか冷えた響きを帯びていた。


「イザベラ・ロッシ侯爵令嬢との婚約を、ここに破棄する」


 空気が裂けたような沈黙が広場を覆った。音楽家が弦をはじく手を止め、人々が一斉にイザベラへ視線を向ける。頬の裏側がひりつく。意味を理解するまでに、数拍が必要だった。


 ――婚約破棄。今、確かにそう言った。


 イザベラは自分の呼吸が浅くなるのを感じた。しかし動揺を悟らせぬよう、胸の前で手を組み、静かに問い返す。


「……その理由を、お聞かせ願えますか、殿下」


 アレクが口を開きかけた、その前に。


「理由なら、私が申し上げますわ」


 鈴の転がるような声が割って入った。人々が道を開くようにして現れたのは、一人の少女だった。金糸のような髪が陽光を弾き、白い衣には聖紋が淡く輝く。国民に愛される聖女――エリナ・フェリシア。


 彼女は涙を零しながらイザベラを見つめ、震える声で言った。


「イザベラ様……わたくし、ずっと耐えてきました。でも、これ以上は……」


「耐える? 何の話をしているのです、聖女様」


「いじめ、ですわ。殿方の前では優しい顔をなさるのに、裏ではわたくしを侮辱して……『聖女のくせに殿下に媚びるな』と……」


 周囲から悲鳴にも似たざわめきが起きた。


 イザベラは言葉を失った。胸の奥がひどく冷える。自分がそんなことを言うはずもない。なぜなら――エリナと直接会話したことすら、ほとんどないのだから。


「それは誤解です。私は聖女様に対し、そのような――」


「言い逃れは無駄だ」


 アレクの冷たい声が降る。


「エリナは清らかな心の持ち主だ。そんな嘘をつく者ではない」


 イザベラは僅かに瞳を伏せ、己の心が軋む音を聞いた。

 彼は、自分よりも聖女の涙を信じるのか。


 ――ならば、私はどうすればいい。


 その瞬間、エリナが涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。さきほどと違い、その瞳には不思議な鋭さが光っている。


「私は、正式に申し上げます。イザベラ様に、名誉決闘を申請いたします」


 広場が揺れた。


「名誉決闘……?」


「まさか聖女が……?」


 人々がどよめき、審判役の神殿司祭たちが顔を見合わせる。


 イザベラは一歩前へ出た。


「聖女様。名誉決闘とは、虚偽を晴らすための最終手段です。あなたが本気で、私が“いじめた”と主張されるのですね?」


「はい。正しい者は、光に照らされますわ」


 笑みを浮かべるエリナの目は、どこか愉悦すら宿す。

 イザベラはその奥に、密やかな敵意を読み取った。


 神殿司祭がルールを読み上げる。


「名誉決闘は、両者の合意のもと行われる。手段は“徒手武技”。勝者は王国法により正当性を認められ、敗者は名誉を失う」


「イザベラ。お前が拒むのなら、この場で罪を認めたとみなす」


 アレクの言葉に、再び心が刺されたが、イザベラは真っ直ぐにエリナを見た。


「――受けましょう」


 広場中の視線が彼女に集まる。


「ただし、私が選ぶ戦闘様式はキャッチアズキャン。淑女のたしなみとして習ってきた、古流のレスリングです」


「れ、レスリング……?」


「古い武技らしいぞ」


「聖女様は術式の徒手戦だろう? 相性が悪いのでは……?」


 ざわつく声が広場に満ちる。

 エリナはひくりと口元を引きつらせたが、すぐに微笑を張り付けた。


「それで構いませんわ。どんな方法でも、私はあなたに勝ってみせますもの」


 イザベラは静かに頷いた。


「では、六日後の午前十時。神殿闘技場にて」


「ええ。光の前に、あなたの偽りを晒しますわ」


 エリナの言葉を最後に、儀式は終わりを告げた。

 人々は「聖女の決闘」「婚約破棄の顛末」を興奮気味に語り合いながら散っていく。


 広場に残されたイザベラは、深く息を吸った。

 胸は痛む。怒りよりも、悔しさと虚しさが重く沈んでいる。


 ――どうして、こんな形になってしまったのだろう。


 その問いは、自分自身にも向けられていた。


 幼い頃、父に教わったことがある。


『誇りを奪われたら、闘え。淑女とは、心のまっすぐな戦士だ』


 誇り。

 自分に残された最後のもの。


 イザベラは拳を握り、ゆっくりと顔を上げた。

 視線の先、遠くの神殿塔が光を反射していた。


「……いいわ。やってやる」


 かつて封じた武技。

 忘れたふりをしてきた力。

 いま再び、自分の内側で燃え上がる。


 六日後、すべてが決まる。

 イザベラは踵を返し、広場を後にした。



 王都セレノアを離れて半日の道のりを進むと、丘陵地帯に抱かれたロッシ侯爵領が見えてくる。大小の森が点在し、緩やかな斜面に葡萄畑が広がる。イザベラは馬車の窓からその景色を眺め、胸の奥の重さを少しだけ吐き出した。幼い頃に慣れ親しんだ土地の匂いが、ほんのわずかに心を落ち着けてくれる。


 馬車が屋敷の前で止まり、イザベラは石畳に足を下ろした。古い外壁は相変わらず重厚で、どこか懐かしい。門番の兵士が驚いた顔で彼女に敬礼する。


「お嬢様、お帰りなさいませ!」


「ただいま戻りました」


 短い返答を残して玄関へ向かう。扉を開けた瞬間、ひんやりとした空気が頬に触れた。天井の高いホールに足音が響く。その音がやけに大きく思えた。胸の痛みと疲れが、風に混じってほどけていくわけではないが、それでも帰郷には確かなぬくもりがある。


「イザベラか」


 低くしわがれた声がホールの奥から聞こえた。イザベラは顔を上げた。


 ロッシ侯爵、アウグスト・ロッシ。かつて“稲妻投げ”の異名で名を馳せた古流武技の使い手。その鋭い視線は歳を重ねても衰えていない。娘をひと目見るなり、彼は眉間に深いしわを刻んだ。


「予定より早い帰郷だな。……何があった」


 その問いかけは、父としてではなく、一人の武技家としての真っ直ぐな声だった。イザベラは胸の奥の痛みに蓋をしながら、ゆっくり頭を下げた。


「お父様。王太子殿下に……婚約を破棄されました」


 ホールの空気が固まったようだった。外の風の音すら遠のく。


「理由は」


「聖女エリナ様からの訴えです。いじめを受けたと……。私には身に覚えがありません」


「当然だ。お前がそんな真似をするか」


 父の声は低く、怒りを含んでいた。それは娘を信じる父親の怒りであり、王宮の軽薄さに向けられたものでもあった。


「そして……名誉決闘を申し込まれました。六日後、神殿闘技場にて。私は受けました」


「名誉決闘……か」


「戦闘様式は、キャッチアズキャンを選びました」


 その名を口にした瞬間、父の瞳がわずかに揺れた。驚愕と、そして深い誇りが一瞬にして浮かぶ。


「キャッチアズキャンを……?」


「私に扱える武技は、それだけです」


「いや。あれは“ただの選択肢”ではない。お前の血に流れる武技だ」


 父がゆっくりと近づき、イザベラの肩に手を置いた。

 その掌は分厚く温かく、幼い頃に稽古場で受けた大きな手と同じだった。


「イザベラ。……戦うのだな」


「はい。自分の名誉を守るために」


「よく言った。ついてこい。六日という時間は短い。しかし、やるしかない」


 父は踵を返し、奥の廊下へ進んだ。

 イザベラは息をひとつ吐き、その背を追った。


 屋敷の奥にある稽古場は、昔と変わらず木の香りが漂っていた。磨き込まれた床板には、長年の稽古で刻まれた無数の跡が残っている。夕陽が差し込み、室内に柔らかな影を落とした。


「まず構えを取れ。昔の形でいい」


「わかりました」


 イザベラは足を開き、腰を落とし、両手を前へと伸ばした。しかし体のどこかが重く、流れがかみ合わない。肩に余計な力が入り、呼吸も浅い。


「その姿勢は駄目だ。左肩が上がりすぎている」


 父は近寄り、イザベラの肘を軽く押した。わずかな力だけで、体の軸がぐらりと揺れる。


「ほら、崩れる。昔の感覚が戻っていない」


「……忘れたわけではありません。でも、遠ざけてきました」


「知っている。だから取り戻すんだ」


 父はひと呼吸置き、静かに構えた。

 かつて彼を“稲妻”と呼ばせた、低い初動の構えだ。


「来い」


「……え?」


「かかってこい。手加減はせん」


 イザベラは一瞬戸惑ったが、すぐに床を蹴った。

 踏み込み、相手の腕を掴みに行く。

 だが、父の動きは速かった。イザベラの手は空を掴み、次の瞬間、視界が回転した。


「きゃっ――!」


 背中が床に落ち、衝撃が走る。稽古場に乾いた音が響いた。


「遅い。迷いが動作すべてに出ている」


「……わかって、います」


「だが、悪くない。崩されても、反応はまだ死んでいない」


 父は手を差し伸べた。イザベラはその手を掴み、起き上がる。


「立て。何度でもやるぞ」


「はい」


 その後、基礎からの反復が続いた。

 足運び。

 体軸の調整。

 相手の重心を読む目。

 崩しの瞬間、そして投げへの移行。


 繰り返すごとに、イザベラの中で何かが目覚めていく。

 体が反応し始め、筋肉が正しい位置を思い出し、呼吸が流れに乗る。


「ふっ……!」


 イザベラは父の手首を掴み、足を絡め、体を回転させようとした。

 投げは決まらなかったが、父の重心がわずかに動いた。


「今のは悪くない」


「少しだけ、感覚が戻ってきました」


「その少しが大事だ。六日あれば、最低限の戦いは形にできる」


 父は腕を組み、真剣な表情で言葉を続けた。


「だが、相手は聖女だ。術式で身体強化をしてくるはずだ。力比べでは勝てん」


「わかっています。私は技で勝ちます。力ではなく、相手の流れを読む戦いです」


「その通りだ。キャッチアズキャンの本質は“流れ”だ。相手が強ければ強いほど、その力は技の材料になる」


 父はイザベラの額に軽く触れた。


「忘れるな。お前が取り戻すのは、王太子ではない。自分の尊厳だ」


 その言葉は、胸の奥に深く染み込んだ。

 イザベラはまっすぐ父の目を見返した。


「はい。わかっています」


 その日の訓練は深夜まで続き、イザベラの体は悲鳴を上げていた。

 湯につかったとき、肌には赤い痕が残り、指先には軽い腫れがあった。

 しかしそれらの痛みは、奇妙なほど心地よかった。


「私は……弱くない」


 鏡に映る自分をじっと見つめる。

 王宮で飾り立てた頃の姿とは違う。

 だが、いま映っている自分の方が、ずっと“本来の自分”である気がした。


 六日。

 短いが十分。

 尊厳を守るには、これほど強い理由はない。


「必ず勝つ」


 静かな声でそう告げ、イザベラは眠りについた。

 翌朝、彼女は再び稽古場へ向かい、さらなる修練に身を投じる覚悟を固めていた。



 イザベラがロッシ侯爵領で修練に没頭していた三日目。王都セレノアでは、別の熱が渦巻いていた。聖女エリナが名誉決闘を受けたという報せは瞬く間に広がり、広場や市井の酒場ではその話題で持ちきりになっている。


 神殿の階段には参拝客が列をなし、白い衣の神官たちが人々を誘導していた。その中央、エリナは祈りの姿勢で膝をつき、聖紋の前に両手を重ねていた。だが、その表情は世間が抱く“慈愛の聖女”とは違っていた。薄く目を閉じる横顔には鋭さがあり、瞼の裏で渦巻く思惑を隠していなかった。


「エリナ様。陛下からの伝言です」


 側近の若い神官が近づき、緊張した面持ちで声をかけた。


「今回の決闘、必ず勝利せよとのことです。王太子殿下も……」


「アレク様も、でしょう?」


 エリナはゆっくりと顔を上げた。薄く微笑むその姿は、周囲の人々には清らかに映った。しかし、神官にはその微笑がほんのわずかに冷たく見えた。


「ええ。アレク様も、あなたの勝利を強く望んでおられます」


「当然ですわ。あの子……イザベラ様には退いていただかなくては」


 エリナは祈る手を解き、立ち上がった。

 白い衣の裾が静かに揺れる。


「私がどれほど努力してきたか、神殿も王宮も理解しているはずです。アレク様の隣に立つのは、私以外にありえませんもの」


 神官は黙って頭を下げた。

 彼女の内側に燃える強烈な欲望を理解しながらも、それを表に出さないのが“聖女の務め”だと教え込まれてきた。だがここまで露骨な野心を前にすると、いくら神官でも戸惑わずにはいられない。


「ところで、術式強化の準備は?」


「はい。光の加護による身体強化術式は、ほぼ完成しております。ただ、体への負担が……」


「構いませんわ。あの人などに負けるよりは、よほどましです」


 エリナは両手を広げ、光の柱の中に歩み入った。

 聖紋が淡く輝き、空気が震える。

 術式陣が足元に浮かび上がり、体へ白光が流れ込む。


「ん……ふふ……。これで、あの人との差はますます広がりますわね」


 光が収まると、エリナは満足げに息を吐いた。

 神官はその様子を見て、胸の中にひとつの疑問を抱いた。


(イザベラ様は、本当に聖女様をいじめたのだろうか……?)


 だが、その疑問を口にする者はいない。神殿は聖女の力を必要としており、王宮もまた、彼女の「民意」を利用したいと願っているのだ。


 疑念は胸の奥に沈み、光の表層だけが人々の間を広がっていく。


 その頃、イザベラは稽古場で汗に濡れた髪を払ったところだった。


 日はすでに傾き、木造の天井から金色の光がこぼれる。イザベラは父の動きを見つめながら、呼吸を整えた。


「今日はここまでにしよう」


「……はい」


 息を吐くと、全身の疲労がずしりと押し寄せた。しかし、その重さは嫌なものではなく、積み重ねた努力が確かに体に残った証として感じられた。


 父は水差しを手渡しながら、娘の様子をじっと見た。


「だいぶ戻ってきたな。三日でここまで動けるのは、大したものだ」


「まだ本番には届きません。聖女エリナ様は術式強化を使ってくるはずです」


「術式で補う力は、しょせん外側の力だ。だが、お前の武技は体そのものだ。軸が乱れなければ、崩されることはない」


 父の言葉に、イザベラは小さく頷いた。

 体を冷ますために外へ出ると、夕暮れの風が肌を撫でた。木々の葉が揺れ、微かな音を立てる。


 視線を遠くへ向けたとき、王都へ続く石畳の道が赤い光に染まっていた。


 イザベラは胸の奥を静かに引き締めた。


(聖女エリナ様は強い。光術式を扱う才能も、民からの人気もある。だけど――)


 イザベラの心に浮かんだのは、広場で見たエリナの瞳だった。

 涙に濡れ、弱々しいように見えていたが、その奥に潜む冷たい光だけは、紛れもなく本物だった。


(あの“光”は、聖女としての優しさではなかった。もっと別の……鋭さ。あれが彼女の本性なのかもしれない)


 イザベラは両手を握り締め、深く息を吸った。

 風が頬を過ぎるたび、心がわずかに澄んでいく。


「消耗しているな。今日はここまで休め」


「……はい、お父様」


 稽古場の扉を閉めると、木の匂いがゆっくりと遠ざかっていく。

 夜の食卓でも、父は明るい話をしようとしなかった。

 その代わり、訓練の中で感じた娘の変化を、静かに言葉にしてくれた。


「イザベラ。戦う理由は忘れるな。あの広場で見せられた屈辱を、曖昧にするな」


「忘れません。あの場での決断は……間違いではありませんでした」


「そうだ。決闘の意義は、勝つこと以上に、お前が自分を曲げなかったという事実にある」


 その言葉は、重く、優しく、胸の奥に落ちた。

 イザベラは食事を終え、静かな廊下を歩いた。壁に飾られた古い盾や剣は、かつて武門であった家の記憶を残している。


 部屋に戻ると、窓の外に広がる夜空が目に入った。星々がきらめき、遠く王都の方向に淡い光が揺れている。


(聖女エリナ様は、今ごろ何を考えているのだろう)


 答えはわからない。

 しかし、確かにひとつだけわかることがある。


(あの人は、私をただの“邪魔者”としか見ていない)


 イザベラは窓から目を離し、そっと拳を握った。

 その拳には迷いが消え、静かな意志だけが残っていた。


(ならば、私は――私の道を守るために戦うだけ)


 その強い思いを胸に、イザベラは眠りについた。



 決闘を四日後に控えた朝、ロッシ侯爵家の中庭では、薄い霧が静かに立ち込めていた。草葉には夜露が残り、踏みしめるたびに冷たさが足元へ伝わる。イザベラは稽古着の袖を整え、深く息を吸い込んだ。体の奥にわずかな緊張が走るが、それは恐怖ではなかった。ただ、迫る試合への意識が心を研ぎ澄ませているだけだった。


「イザベラ、今日は動きが硬いな」


「はい。……少し、考えすぎているかもしれません」


 父の言葉に、イザベラは苦笑しながら構えを解いた。ここ数日、彼女は訓練と休息を繰り返しながらも、その合間に王都の噂を思い出してしまっていた。


 聖女との名誉決闘は前例が少なく、国中が騒ぎ立てている。掲示板にはさまざまな予想が並び、酒場では「聖女の加護が勝つ」だの「侯爵令嬢は泣くだけになる」だの、雑多な声が飛び交っているという。


 イザベラはそのどれにも耳を貸してはいない。しかし、王都の空気が彼女に影響しないはずもなかった。


 父はイザベラの肩を軽く叩いた。


「気を張りすぎるな。お前は十分に戦える。昔からそうだ。力を見誤るな」


「……ありがとうございます」


 イザベラは視線を空に向けた。淡い雲が薄く広がり、その隙間から太陽が弱々しい光を落としている。


(本当に、私は戦えるのだろうか)


 揺らぐ思いが喉の奥で渦巻き、胸にわずかな重さを作る。だが、目を閉じた瞬間、あの広場での屈辱が浮かび上がり、心の迷いを引き裂いた。


(逃げるためではなく、戻るために戦うのではなく、奪われた尊厳を掴み返すために)


 イザベラは静かに拳を握りしめた。


 訓練は午前でいったん終わり、午後は行動を整えるために軽めの調整が行われた。父は無理をさせず、最後の仕上げとして主に身体の軸と姿勢を確認した。


「もう十分だ。あとは本番まで、心を休めることに専念しろ」


「はい……そうします」


 午後の陽が傾き始めると、イザベラは庭を散策し、昔の記憶と向き合った。花壇の香り、鳥の声、風の触れる感覚。そのすべてが昔と変わらず、しかし今の彼女の心だけが強く変化しているように感じられた。


(子供の頃、私はただ父の技に憧れていた。それだけだった。だけど今は、その技が私を守る力になる)


 花のつぼみをそっと撫でると、冷たい風が頬をかすめた。


(聖女エリナ様は、光の術式で身体能力を高めると言っていた。あの瞬発力は脅威になる)


 人々はエリナを清楚で純粋な存在だと信じている。だが、イザベラは広場で見たあの眼差しを忘れられなかった。涙の奥に潜んだ、鋭く凍るような光。その光こそ、彼女の本性だった。


(あの眼差しが本物なら、術式の力以上に、エリナ様自身が強い意志で私を排除しようとしている……)


 その思考は恐怖ではなかった。

 むしろ、イザベラの胸に静かで確かな熱を灯していた。


 夕食を終えた後、イザベラは自室の机に向かい、決闘場の図面を広げた。神殿闘技場は円形で、床は硬めの砂が敷かれている。滑りにくく、受け身さえ取れれば大きな怪我は避けられる構造だ。


(術式による突進が来るなら、踏み込みの角度を読む必要がある。力任せなら、こちらの技が生きる。脆い軸があるはず)


 考えを深めていると、扉を軽く叩く音がした。


「イザベラ、入るぞ」


「どうぞ、お父様」


 アウグストが部屋に入り、机を覗き込んだ。娘が図面を前にしているのを見て、彼はわずかに笑みを浮かべた。


「戦術を考えているのか」


「はい。でも、少し迷っています。エリナ様の動きが読めない部分が多いので」


「読めないものは、読めるところまでで十分だ。お前自身の動きは、もう安定している。戦いは“最初の一歩”が勝負の大半を決める。相手が踏み込んだ角度を見極めれば、そこから崩せる」


「……最初の一歩、ですか」


「そうだ。迷っていると、相手の強さばかりが目に入る。だが、相手の強さは相手の問題だ。お前の動きはお前自身が決めるものだ」


 その言葉は、イザベラの胸を静かに貫いた。

 父は窓際へ歩き、夜空を見上げながら続けた。


「戦う理由を思い出せ。あの日、広場で心を裂かれたお前を見て、私は胸の底に怒りを覚えた。だが、お前は逃げずに進んだ。それが真の意味で、お前の尊厳だ」


「……はい」


「明日は王都へ戻る。試合前日の空気は、お前にとって決して楽ではないだろう。噂も冷たい視線もある。だが、心は揺らぐな」


 イザベラは深く頷いた。

 父は静かに部屋を出て行った。


 夜になり、屋敷が静まり返ると、イザベラは窓を開き、冷たい空気を吸い込んだ。星々は澄んだ光を放っている。遠くで犬が吠える声が聞こえ、その音が一定のリズムで響く。


(私は、王太子アレク殿下に戻ってほしいわけじゃない。あの人の隣に立つ事を望んでいたわけでもない)


 広場での言葉が蘇る。


 ――イザベラ・ロッシ侯爵令嬢との婚約を破棄する。


 胸の奥を刺す痛みは、もう薄れ始めていた。


(私は、私を取り戻したいだけ。奪われたものを、奪い返すだけ)


 その言葉は、静かに、しかし力強く心の奥で響いた。


 翌朝、イザベラは荷物を整え、王都へ向かう準備を整えた。侍女たちが心配そうに見つめている。馬車の前に立つと、父が娘の肩に手を置き、短く言った。


「負けるな」


「はい。必ず」


 馬車が動き出し、ロッシ侯爵領の風景がゆっくりと遠ざかっていく。

 イザベラは窓に手を当て、かすかな震えを押し静めた。


(王都へ戻る。この戦いの舞台へ)


 揺れる馬車の中で、イザベラは決意を胸に刻み続けた。



 王都セレノアの空はまだ薄暗く、朝の光が街路を淡く照らしていた。人々の足音がいつもより早い。名誉決闘の日。歴史ある神殿闘技場では、すでに観客の列ができていた。祭りのような喧騒が空気を震わせ、人々の視線は今日の試合に集中している。


 馬車を降りたイザベラは、広場に集まる視線を感じながら、ゆっくりと歩き出した。表情は静かだが、その奥には強い意志が宿っている。周囲には噂や期待が渦巻いていた。それらの声は、耳に届かないほど遠く感じられた。


「イザベラ」


 背後から呼び止める声があった。振り返ると、アウグストが歩み寄ってきた。娘の肩に手を置く動作は静かで、しかし確かな力を持っている。


「迷うな。お前のやるべきことは、もう決まっている」


「……はい」


 言葉は短く、それだけで十分だった。父は深く頷き、闘技場への入り口を指した。


「行け。あとは己の技を信じるだけだ」


 イザベラは静かに礼をし、闘技場へ足を踏み入れた。


 内部は明るく、無数の旗が揺れている。観客席はすでに埋まり、ざわめきが波のように押し寄せていた。中央には円形の土台があり、固く踏み固められた砂が広がっている。床の感触を確かめながら、イザベラはゆっくりと歩いた。


(滑らない……。踏み込みやすい……)


 頭の中で、父に言われたことを思い出す。最初の一歩。その一歩さえ正確なら、崩す流れを作れる。


 やがて、反対側の入口が開いた。まぶしい光の中から、白い衣を纏った聖女エリナが現れた。輝くような微笑みを浮かべ、人々の歓声を浴びながら優雅に歩く。だが、その目だけは冷たい光を秘めていた。


「イザベラ様。今日は、真実を光で照らして差し上げますわ」


「……ええ。どちらの“真実”が残るか、確かめさせていただきます」


 両者が中央の印まで進むと、審判役の司祭が前に立った。司祭の声は張り詰めていた。


「名誉決闘、両者の合意のもと、これより開始する。武器の使用は禁止。術式は自衛の範囲で許可するが、致命を与えるものは禁止。降参、または戦闘不能により勝敗を決する」


 観客席が静かになり、空気が一気に張りつめた。


「両者、構えよ」


 エリナは胸の前で両手を合わせ、聖紋に祈るような形を取る。淡い光がその体を包み、足元に細かな術式陣が浮かび上がった。観客席から驚きの声が上がる。


(やはり来た……光の身体強化)


 イザベラは深く息を吸い、腰を落として構えた。視線を逸らさず、相手の肩と足と呼吸の動きを同時に観察する。


「始め!」


 合図と同時に、エリナが弾かれたように踏み込んだ。光の尾が残るほどの速さだ。掌底を突き出すような動き。真っ直ぐな突進。


(来る――!)


 イザベラは後ろへ大きく下がらず、半歩だけ角度をずらす。エリナの掌底は空を切り、勢いのまま前へ進んだ。


「そこっ!」


 すぐにエリナが振り向き、次の一撃を繰り出す。だが、その踏み替えはわずかに軸が浮いた。


(その一瞬――)


 イザベラは相手の手首へ軽く触れ、その力の流れを読む。次の瞬間、自分の左足をエリナの重心の外側へ滑り込ませ、体を低くしながら引き込むように動いた。


 エリナの体が揺れた。


(いける!)


 だが、エリナの術式が輝き、反動で体勢を強引に戻した。踏み込み直し、今度は横へ跳ぶように動き、蹴りを放ってきた。


「ふっ!」


 イザベラは腕で最小限の距離を作り、半歩で受け流す。エリナは攻撃を続けるが、光術式に頼った動きは力強い反面、予備動作がはっきりと見えた。


(直線……そして直線。前へ出ることしか考えていない)


 エリナの蹴りが外れた瞬間、イザベラは流れるように相手の膝裏へ手を滑らせた。右足を刈り上げ、体を回転させながら引き倒す。


「きゃっ――!」


 エリナの体が砂地に沈む。観客席から大きなどよめきが起きた。だが、短い悲鳴のあと、光術式がまた強く輝き、エリナはすぐに立ち上がる。


「そんな……古い武技ごときで、私に勝てると思って?」


 エリナは涙を誘うような微笑みを浮かべ、周囲から同情を集める。その瞳の奥には苛立ちが宿っていた。


「技に古いも新しいもありません。必要なのは流れです」


 イザベラの声は静かだった。

 エリナは、その静けさを嘲笑うかのように術式をさらに高めた。衣の裾が光で揺れ、足元に砂が弾ける。


「これで終わりですわ!」


 エリナが突進した。

 だが、その踏み込みは強烈すぎた。力に頼れば頼るほど、重心の揺れは大きくなる。


(この一歩……来た!)


 イザベラはエリナの胸元へ軽く触れ、その力の向かう方向を読んだ。

 次の瞬間、体を斜めに滑り込ませ、エリナの左足に足を絡める。


「っ――!」


 イザベラは腰を落とし、全身をしならせながら相手の上半身を引き込んだ。

 古流キャッチアズキャンの得意とする“足刈りからの胴返し”。

 重心の流れを最小の力で一気に転倒へ持っていく技。


「いやっ……!」


 エリナの体が宙で回転し、砂地へ叩きつけられる。

 そこでイザベラは素早く腕をとり、関節へ力を加えた。


「やめ……痛い……いや……!」


「降参を」


「嫌……嫌よ……!」


 エリナの術式は乱れ、光が不規則に揺れる。関節を極められ、これ以上の抵抗は不可能だった。


「聖女エリナ、戦闘不能! 勝者――イザベラ・ロッシ侯爵令嬢!」


 歓声が爆発し、闘技場が揺れた。

 エリナは地面に倒れたまま、悔しさに唇を噛みしめている。光術式は弱まり、まるでその野心ごと消え失せていくようだった。


 イザベラはゆっくりと立ち上がり、深く息を吐いた。

 静かで凛とした空気が彼女の周囲に広がった。


(これで……私の尊厳は取り戻せた)


 胸の奥に温かな火が灯るのを感じながら、イザベラは観客席をゆっくりと見渡した。



 闘技場の喧騒はしばらく収まらなかった。イザベラが勝利を収めた瞬間、観客席は歓声とどよめきの渦に飲み込まれ、人々は互いに肩を叩き合い、驚きや感心を語り合っていた。聖女エリナに敗北が訪れるなど、誰も想像していなかったのだ。


 イザベラは砂地に残る足跡を見つめ、ゆっくりと呼吸を整えた。汗が肩を流れ落ちる感覚が、ようやく自分が決闘を終えた現実を教えてくれた。


「イザベラ!」


 名前を呼ぶ声に振り返ると、アウグストが闘技場に駆け寄ってきていた。いつも威厳のある姿とは違い、父はわずかに目を潤ませている。


「よくやった……。本当によくやった」


「お父様……」


 言葉はそれだけだったが、父の手が娘の肩を包んだ瞬間、イザベラは胸の奥に深い温かさが広がるのを感じた。あの日、王都の広場で感じた痛みとはまるで違う、確かな重みだった。


 そのとき、神殿側の神官たちが担架を運び込み、エリナを丁寧に乗せて控室へ運んでいった。彼女は意識を取り戻しつつあったが、悔しさに満ちた目でこちらを睨んでいた。


「イザベラ様……覚えていなさい……!」


 かすれた声が聞こえたが、その言葉に力はなかった。

 イザベラは静かに目を伏せた。


(恨むのなら、どうしてあの場で嘘を重ねたのか……)


 決闘はすでに終わった。

 正義がどちらにあったかは、もはや疑いようがない。


 審判役の司祭が高らかに宣言した。


「名誉決闘の結果により、イザベラ・ロッシ侯爵令嬢の名誉は完全に回復される! 聖女エリナの訴えは虚偽と認定し、王宮は彼女の身柄について神殿と協議を行う!」


 観客席に再び歓声が湧いた。

 その波が押し寄せる中、イザベラは静かに頭を上げた。


(私の名誉は、確かに取り戻せた)


 その確信が胸の中心に灯り、ようやく心が軽くなった。


 しかし、ここからが本当の選択の始まりだった。


 闘技場の出口へ向かおうとしたその時、豪奢な衣を纏った王太子アレクが姿を現した。顔は緊張に強張り、周囲の視線をどう利用すべきか計算しているようにも見える。


「イザベラ。話がある」


 人々の注目が集まる中、アレクはイザベラの前に立った。彼の声にはかつての威厳は薄れ、焦りの色が浮かんでいた。


「まず……その、今回の件、誤解があったようだ。聖女エリナの訴えは虚偽だった。私は……判断を誤ったのかもしれない」


 イザベラはアレクの言葉を静かに聞きながら、胸の奥に冷たい感覚を覚えた。


「判断を誤った……ですか」


「いや……その、これはお前を責めたいわけではない。ただ……改めて話し合うべきだと……」


 アレクは周囲の視線を気にしながら続けた。


「婚約についても、もう一度考え直そうと思う。お前の名誉は回復された。ならば……」


「殿下」


 イザベラは静かに言葉を割った。


「婚約の件ですが……私はお受けいたしません」


 アレクの表情が凍りついた。


「な、なぜだ。私は――」


「殿下に否定されたのは、私の行動や態度ではありません。私の“存在そのもの”でした」


 イザベラは視線をそらさず、まっすぐに告げた。


「私は殿下の隣に立つことよりも、自分の誇りを守ることを選びます」


 沈黙が落ちた。

 人々のざわめきが遠くで揺れ、アレクは何か言い返そうとしたが、結局言葉を失った。


「……そうか」


 アレクは顔を伏せ、ゆっくりと人混みへ消えていった。


 残された空気には、ようやく一区切りついたという静けさが漂っていた。


 イザベラが出口へ向かおうとしたとき、背後から声がかかった。


「イザベラ様。ご無事で何よりです」


 振り返ると、近衛騎士団長の レオナルド・ヴェルネッティ が立っていた。精悍な顔立ちに、落ち着いた瞳。以前から面識はあったが、こうして真正面から言葉を交わすのは珍しい。


「レオナルド様……観戦されていたのですか」


「はい。素晴らしい戦いでした。あの技は……見事としか言いようがありません」


「ありがとうございます。父の教えのおかげです」


「いえ、それだけではない。あなた自身の心の強さがなければ、あの場で技は生きません」


 レオナルドの声は穏やかで、しかし真摯だった。

 イザベラは戸惑いながらも、胸の奥に温かさを覚えた。


「あなたが戦う姿を見て……私はひとつ、痛感しました。名誉とは肩書きではなく、生き方だということを」


「……そんな、大げさな」


「いえ。あなたは今日、それを示された。誇りという名の剣で、誰よりも美しく戦われた」


 その言葉に、イザベラはわずかに頬を染めた。

 胸の奥で、これまでとは違う鼓動が小さく跳ねる。


「これからどうされるのですか」


「しばらくは家に戻り、生活を整えます。王都で生きる意味も、もう少し考え直したいと思います」


「そうですか……」


 レオナルドは短く息を吐き、イザベラの目を見つめた。


「もしよろしければ、いつか……あなたのお話を聞かせていただけませんか。今日、あなたが示された強さは、もっと多くの人が知るべきものだと思うのです」


 イザベラは言葉に迷いながらも、ゆっくりと頷いた。


「……いつか、ぜひ」


 レオナルドの表情に静かな微笑が浮かんだ。それは華美ではなく、ただ誠実な光を湛えた笑みだった。


「では、また」


 彼が去ったあと、闘技場には夕陽が差し込み、砂地を黄金色に染めていた。


 イザベラは静かに深呼吸をした。

 胸の奥にある火は、もう闘いのためだけに燃えているのではない。

 新しい未来のために、小さく優しい光を放ち始めていた。


(私は自分の尊厳を取り戻した。これからは……私の歩きたい道を歩いていく)


 そう心の中で呟き、イザベラは王都の風を受けながら闘技場を後にした。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ