婚約破棄された令嬢、聖女と淑女のたしなみ(キャッチアズキャン)で決着(ケリ)をつける
初夏の陽が射し込む王都セレノアの中央広場は、祝祭の飾りで色彩に満ちていた。絹の布が張られた壇の上には王太子アレク・ヴァレンツァが立ち、周囲には貴族、兵士、市民が入り交じる。空気は明るく、どこか浮ついていた。しかしその中心で、侯爵令嬢イザベラ・ロッシだけが、胸の奥に小さな不安を抱えていた。
王太子から突然呼び出された理由は知らされていない。けれど、視線を向けるアレクのまなざしは、以前のような柔らかさを失っているように見えた。
風が吹き、壇にかかる薄布を揺らした。
「皆の者。我は今日、この場で大切なことを告げねばならぬ」
ざわりと群衆が息を飲んだ。イザベラは背筋を伸ばし、一点を見つめる。王太子の言葉は荘厳で、しかしどこか冷えた響きを帯びていた。
「イザベラ・ロッシ侯爵令嬢との婚約を、ここに破棄する」
空気が裂けたような沈黙が広場を覆った。音楽家が弦をはじく手を止め、人々が一斉にイザベラへ視線を向ける。頬の裏側がひりつく。意味を理解するまでに、数拍が必要だった。
――婚約破棄。今、確かにそう言った。
イザベラは自分の呼吸が浅くなるのを感じた。しかし動揺を悟らせぬよう、胸の前で手を組み、静かに問い返す。
「……その理由を、お聞かせ願えますか、殿下」
アレクが口を開きかけた、その前に。
「理由なら、私が申し上げますわ」
鈴の転がるような声が割って入った。人々が道を開くようにして現れたのは、一人の少女だった。金糸のような髪が陽光を弾き、白い衣には聖紋が淡く輝く。国民に愛される聖女――エリナ・フェリシア。
彼女は涙を零しながらイザベラを見つめ、震える声で言った。
「イザベラ様……わたくし、ずっと耐えてきました。でも、これ以上は……」
「耐える? 何の話をしているのです、聖女様」
「いじめ、ですわ。殿方の前では優しい顔をなさるのに、裏ではわたくしを侮辱して……『聖女のくせに殿下に媚びるな』と……」
周囲から悲鳴にも似たざわめきが起きた。
イザベラは言葉を失った。胸の奥がひどく冷える。自分がそんなことを言うはずもない。なぜなら――エリナと直接会話したことすら、ほとんどないのだから。
「それは誤解です。私は聖女様に対し、そのような――」
「言い逃れは無駄だ」
アレクの冷たい声が降る。
「エリナは清らかな心の持ち主だ。そんな嘘をつく者ではない」
イザベラは僅かに瞳を伏せ、己の心が軋む音を聞いた。
彼は、自分よりも聖女の涙を信じるのか。
――ならば、私はどうすればいい。
その瞬間、エリナが涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。さきほどと違い、その瞳には不思議な鋭さが光っている。
「私は、正式に申し上げます。イザベラ様に、名誉決闘を申請いたします」
広場が揺れた。
「名誉決闘……?」
「まさか聖女が……?」
人々がどよめき、審判役の神殿司祭たちが顔を見合わせる。
イザベラは一歩前へ出た。
「聖女様。名誉決闘とは、虚偽を晴らすための最終手段です。あなたが本気で、私が“いじめた”と主張されるのですね?」
「はい。正しい者は、光に照らされますわ」
笑みを浮かべるエリナの目は、どこか愉悦すら宿す。
イザベラはその奥に、密やかな敵意を読み取った。
神殿司祭がルールを読み上げる。
「名誉決闘は、両者の合意のもと行われる。手段は“徒手武技”。勝者は王国法により正当性を認められ、敗者は名誉を失う」
「イザベラ。お前が拒むのなら、この場で罪を認めたとみなす」
アレクの言葉に、再び心が刺されたが、イザベラは真っ直ぐにエリナを見た。
「――受けましょう」
広場中の視線が彼女に集まる。
「ただし、私が選ぶ戦闘様式はキャッチアズキャン。淑女のたしなみとして習ってきた、古流のレスリングです」
「れ、レスリング……?」
「古い武技らしいぞ」
「聖女様は術式の徒手戦だろう? 相性が悪いのでは……?」
ざわつく声が広場に満ちる。
エリナはひくりと口元を引きつらせたが、すぐに微笑を張り付けた。
「それで構いませんわ。どんな方法でも、私はあなたに勝ってみせますもの」
イザベラは静かに頷いた。
「では、六日後の午前十時。神殿闘技場にて」
「ええ。光の前に、あなたの偽りを晒しますわ」
エリナの言葉を最後に、儀式は終わりを告げた。
人々は「聖女の決闘」「婚約破棄の顛末」を興奮気味に語り合いながら散っていく。
広場に残されたイザベラは、深く息を吸った。
胸は痛む。怒りよりも、悔しさと虚しさが重く沈んでいる。
――どうして、こんな形になってしまったのだろう。
その問いは、自分自身にも向けられていた。
幼い頃、父に教わったことがある。
『誇りを奪われたら、闘え。淑女とは、心のまっすぐな戦士だ』
誇り。
自分に残された最後のもの。
イザベラは拳を握り、ゆっくりと顔を上げた。
視線の先、遠くの神殿塔が光を反射していた。
「……いいわ。やってやる」
かつて封じた武技。
忘れたふりをしてきた力。
いま再び、自分の内側で燃え上がる。
六日後、すべてが決まる。
イザベラは踵を返し、広場を後にした。
王都セレノアを離れて半日の道のりを進むと、丘陵地帯に抱かれたロッシ侯爵領が見えてくる。大小の森が点在し、緩やかな斜面に葡萄畑が広がる。イザベラは馬車の窓からその景色を眺め、胸の奥の重さを少しだけ吐き出した。幼い頃に慣れ親しんだ土地の匂いが、ほんのわずかに心を落ち着けてくれる。
馬車が屋敷の前で止まり、イザベラは石畳に足を下ろした。古い外壁は相変わらず重厚で、どこか懐かしい。門番の兵士が驚いた顔で彼女に敬礼する。
「お嬢様、お帰りなさいませ!」
「ただいま戻りました」
短い返答を残して玄関へ向かう。扉を開けた瞬間、ひんやりとした空気が頬に触れた。天井の高いホールに足音が響く。その音がやけに大きく思えた。胸の痛みと疲れが、風に混じってほどけていくわけではないが、それでも帰郷には確かなぬくもりがある。
「イザベラか」
低くしわがれた声がホールの奥から聞こえた。イザベラは顔を上げた。
ロッシ侯爵、アウグスト・ロッシ。かつて“稲妻投げ”の異名で名を馳せた古流武技の使い手。その鋭い視線は歳を重ねても衰えていない。娘をひと目見るなり、彼は眉間に深いしわを刻んだ。
「予定より早い帰郷だな。……何があった」
その問いかけは、父としてではなく、一人の武技家としての真っ直ぐな声だった。イザベラは胸の奥の痛みに蓋をしながら、ゆっくり頭を下げた。
「お父様。王太子殿下に……婚約を破棄されました」
ホールの空気が固まったようだった。外の風の音すら遠のく。
「理由は」
「聖女エリナ様からの訴えです。いじめを受けたと……。私には身に覚えがありません」
「当然だ。お前がそんな真似をするか」
父の声は低く、怒りを含んでいた。それは娘を信じる父親の怒りであり、王宮の軽薄さに向けられたものでもあった。
「そして……名誉決闘を申し込まれました。六日後、神殿闘技場にて。私は受けました」
「名誉決闘……か」
「戦闘様式は、キャッチアズキャンを選びました」
その名を口にした瞬間、父の瞳がわずかに揺れた。驚愕と、そして深い誇りが一瞬にして浮かぶ。
「キャッチアズキャンを……?」
「私に扱える武技は、それだけです」
「いや。あれは“ただの選択肢”ではない。お前の血に流れる武技だ」
父がゆっくりと近づき、イザベラの肩に手を置いた。
その掌は分厚く温かく、幼い頃に稽古場で受けた大きな手と同じだった。
「イザベラ。……戦うのだな」
「はい。自分の名誉を守るために」
「よく言った。ついてこい。六日という時間は短い。しかし、やるしかない」
父は踵を返し、奥の廊下へ進んだ。
イザベラは息をひとつ吐き、その背を追った。
屋敷の奥にある稽古場は、昔と変わらず木の香りが漂っていた。磨き込まれた床板には、長年の稽古で刻まれた無数の跡が残っている。夕陽が差し込み、室内に柔らかな影を落とした。
「まず構えを取れ。昔の形でいい」
「わかりました」
イザベラは足を開き、腰を落とし、両手を前へと伸ばした。しかし体のどこかが重く、流れがかみ合わない。肩に余計な力が入り、呼吸も浅い。
「その姿勢は駄目だ。左肩が上がりすぎている」
父は近寄り、イザベラの肘を軽く押した。わずかな力だけで、体の軸がぐらりと揺れる。
「ほら、崩れる。昔の感覚が戻っていない」
「……忘れたわけではありません。でも、遠ざけてきました」
「知っている。だから取り戻すんだ」
父はひと呼吸置き、静かに構えた。
かつて彼を“稲妻”と呼ばせた、低い初動の構えだ。
「来い」
「……え?」
「かかってこい。手加減はせん」
イザベラは一瞬戸惑ったが、すぐに床を蹴った。
踏み込み、相手の腕を掴みに行く。
だが、父の動きは速かった。イザベラの手は空を掴み、次の瞬間、視界が回転した。
「きゃっ――!」
背中が床に落ち、衝撃が走る。稽古場に乾いた音が響いた。
「遅い。迷いが動作すべてに出ている」
「……わかって、います」
「だが、悪くない。崩されても、反応はまだ死んでいない」
父は手を差し伸べた。イザベラはその手を掴み、起き上がる。
「立て。何度でもやるぞ」
「はい」
その後、基礎からの反復が続いた。
足運び。
体軸の調整。
相手の重心を読む目。
崩しの瞬間、そして投げへの移行。
繰り返すごとに、イザベラの中で何かが目覚めていく。
体が反応し始め、筋肉が正しい位置を思い出し、呼吸が流れに乗る。
「ふっ……!」
イザベラは父の手首を掴み、足を絡め、体を回転させようとした。
投げは決まらなかったが、父の重心がわずかに動いた。
「今のは悪くない」
「少しだけ、感覚が戻ってきました」
「その少しが大事だ。六日あれば、最低限の戦いは形にできる」
父は腕を組み、真剣な表情で言葉を続けた。
「だが、相手は聖女だ。術式で身体強化をしてくるはずだ。力比べでは勝てん」
「わかっています。私は技で勝ちます。力ではなく、相手の流れを読む戦いです」
「その通りだ。キャッチアズキャンの本質は“流れ”だ。相手が強ければ強いほど、その力は技の材料になる」
父はイザベラの額に軽く触れた。
「忘れるな。お前が取り戻すのは、王太子ではない。自分の尊厳だ」
その言葉は、胸の奥に深く染み込んだ。
イザベラはまっすぐ父の目を見返した。
「はい。わかっています」
その日の訓練は深夜まで続き、イザベラの体は悲鳴を上げていた。
湯につかったとき、肌には赤い痕が残り、指先には軽い腫れがあった。
しかしそれらの痛みは、奇妙なほど心地よかった。
「私は……弱くない」
鏡に映る自分をじっと見つめる。
王宮で飾り立てた頃の姿とは違う。
だが、いま映っている自分の方が、ずっと“本来の自分”である気がした。
六日。
短いが十分。
尊厳を守るには、これほど強い理由はない。
「必ず勝つ」
静かな声でそう告げ、イザベラは眠りについた。
翌朝、彼女は再び稽古場へ向かい、さらなる修練に身を投じる覚悟を固めていた。
イザベラがロッシ侯爵領で修練に没頭していた三日目。王都セレノアでは、別の熱が渦巻いていた。聖女エリナが名誉決闘を受けたという報せは瞬く間に広がり、広場や市井の酒場ではその話題で持ちきりになっている。
神殿の階段には参拝客が列をなし、白い衣の神官たちが人々を誘導していた。その中央、エリナは祈りの姿勢で膝をつき、聖紋の前に両手を重ねていた。だが、その表情は世間が抱く“慈愛の聖女”とは違っていた。薄く目を閉じる横顔には鋭さがあり、瞼の裏で渦巻く思惑を隠していなかった。
「エリナ様。陛下からの伝言です」
側近の若い神官が近づき、緊張した面持ちで声をかけた。
「今回の決闘、必ず勝利せよとのことです。王太子殿下も……」
「アレク様も、でしょう?」
エリナはゆっくりと顔を上げた。薄く微笑むその姿は、周囲の人々には清らかに映った。しかし、神官にはその微笑がほんのわずかに冷たく見えた。
「ええ。アレク様も、あなたの勝利を強く望んでおられます」
「当然ですわ。あの子……イザベラ様には退いていただかなくては」
エリナは祈る手を解き、立ち上がった。
白い衣の裾が静かに揺れる。
「私がどれほど努力してきたか、神殿も王宮も理解しているはずです。アレク様の隣に立つのは、私以外にありえませんもの」
神官は黙って頭を下げた。
彼女の内側に燃える強烈な欲望を理解しながらも、それを表に出さないのが“聖女の務め”だと教え込まれてきた。だがここまで露骨な野心を前にすると、いくら神官でも戸惑わずにはいられない。
「ところで、術式強化の準備は?」
「はい。光の加護による身体強化術式は、ほぼ完成しております。ただ、体への負担が……」
「構いませんわ。あの人などに負けるよりは、よほどましです」
エリナは両手を広げ、光の柱の中に歩み入った。
聖紋が淡く輝き、空気が震える。
術式陣が足元に浮かび上がり、体へ白光が流れ込む。
「ん……ふふ……。これで、あの人との差はますます広がりますわね」
光が収まると、エリナは満足げに息を吐いた。
神官はその様子を見て、胸の中にひとつの疑問を抱いた。
(イザベラ様は、本当に聖女様をいじめたのだろうか……?)
だが、その疑問を口にする者はいない。神殿は聖女の力を必要としており、王宮もまた、彼女の「民意」を利用したいと願っているのだ。
疑念は胸の奥に沈み、光の表層だけが人々の間を広がっていく。
その頃、イザベラは稽古場で汗に濡れた髪を払ったところだった。
日はすでに傾き、木造の天井から金色の光がこぼれる。イザベラは父の動きを見つめながら、呼吸を整えた。
「今日はここまでにしよう」
「……はい」
息を吐くと、全身の疲労がずしりと押し寄せた。しかし、その重さは嫌なものではなく、積み重ねた努力が確かに体に残った証として感じられた。
父は水差しを手渡しながら、娘の様子をじっと見た。
「だいぶ戻ってきたな。三日でここまで動けるのは、大したものだ」
「まだ本番には届きません。聖女エリナ様は術式強化を使ってくるはずです」
「術式で補う力は、しょせん外側の力だ。だが、お前の武技は体そのものだ。軸が乱れなければ、崩されることはない」
父の言葉に、イザベラは小さく頷いた。
体を冷ますために外へ出ると、夕暮れの風が肌を撫でた。木々の葉が揺れ、微かな音を立てる。
視線を遠くへ向けたとき、王都へ続く石畳の道が赤い光に染まっていた。
イザベラは胸の奥を静かに引き締めた。
(聖女エリナ様は強い。光術式を扱う才能も、民からの人気もある。だけど――)
イザベラの心に浮かんだのは、広場で見たエリナの瞳だった。
涙に濡れ、弱々しいように見えていたが、その奥に潜む冷たい光だけは、紛れもなく本物だった。
(あの“光”は、聖女としての優しさではなかった。もっと別の……鋭さ。あれが彼女の本性なのかもしれない)
イザベラは両手を握り締め、深く息を吸った。
風が頬を過ぎるたび、心がわずかに澄んでいく。
「消耗しているな。今日はここまで休め」
「……はい、お父様」
稽古場の扉を閉めると、木の匂いがゆっくりと遠ざかっていく。
夜の食卓でも、父は明るい話をしようとしなかった。
その代わり、訓練の中で感じた娘の変化を、静かに言葉にしてくれた。
「イザベラ。戦う理由は忘れるな。あの広場で見せられた屈辱を、曖昧にするな」
「忘れません。あの場での決断は……間違いではありませんでした」
「そうだ。決闘の意義は、勝つこと以上に、お前が自分を曲げなかったという事実にある」
その言葉は、重く、優しく、胸の奥に落ちた。
イザベラは食事を終え、静かな廊下を歩いた。壁に飾られた古い盾や剣は、かつて武門であった家の記憶を残している。
部屋に戻ると、窓の外に広がる夜空が目に入った。星々がきらめき、遠く王都の方向に淡い光が揺れている。
(聖女エリナ様は、今ごろ何を考えているのだろう)
答えはわからない。
しかし、確かにひとつだけわかることがある。
(あの人は、私をただの“邪魔者”としか見ていない)
イザベラは窓から目を離し、そっと拳を握った。
その拳には迷いが消え、静かな意志だけが残っていた。
(ならば、私は――私の道を守るために戦うだけ)
その強い思いを胸に、イザベラは眠りについた。
決闘を四日後に控えた朝、ロッシ侯爵家の中庭では、薄い霧が静かに立ち込めていた。草葉には夜露が残り、踏みしめるたびに冷たさが足元へ伝わる。イザベラは稽古着の袖を整え、深く息を吸い込んだ。体の奥にわずかな緊張が走るが、それは恐怖ではなかった。ただ、迫る試合への意識が心を研ぎ澄ませているだけだった。
「イザベラ、今日は動きが硬いな」
「はい。……少し、考えすぎているかもしれません」
父の言葉に、イザベラは苦笑しながら構えを解いた。ここ数日、彼女は訓練と休息を繰り返しながらも、その合間に王都の噂を思い出してしまっていた。
聖女との名誉決闘は前例が少なく、国中が騒ぎ立てている。掲示板にはさまざまな予想が並び、酒場では「聖女の加護が勝つ」だの「侯爵令嬢は泣くだけになる」だの、雑多な声が飛び交っているという。
イザベラはそのどれにも耳を貸してはいない。しかし、王都の空気が彼女に影響しないはずもなかった。
父はイザベラの肩を軽く叩いた。
「気を張りすぎるな。お前は十分に戦える。昔からそうだ。力を見誤るな」
「……ありがとうございます」
イザベラは視線を空に向けた。淡い雲が薄く広がり、その隙間から太陽が弱々しい光を落としている。
(本当に、私は戦えるのだろうか)
揺らぐ思いが喉の奥で渦巻き、胸にわずかな重さを作る。だが、目を閉じた瞬間、あの広場での屈辱が浮かび上がり、心の迷いを引き裂いた。
(逃げるためではなく、戻るために戦うのではなく、奪われた尊厳を掴み返すために)
イザベラは静かに拳を握りしめた。
訓練は午前でいったん終わり、午後は行動を整えるために軽めの調整が行われた。父は無理をさせず、最後の仕上げとして主に身体の軸と姿勢を確認した。
「もう十分だ。あとは本番まで、心を休めることに専念しろ」
「はい……そうします」
午後の陽が傾き始めると、イザベラは庭を散策し、昔の記憶と向き合った。花壇の香り、鳥の声、風の触れる感覚。そのすべてが昔と変わらず、しかし今の彼女の心だけが強く変化しているように感じられた。
(子供の頃、私はただ父の技に憧れていた。それだけだった。だけど今は、その技が私を守る力になる)
花のつぼみをそっと撫でると、冷たい風が頬をかすめた。
(聖女エリナ様は、光の術式で身体能力を高めると言っていた。あの瞬発力は脅威になる)
人々はエリナを清楚で純粋な存在だと信じている。だが、イザベラは広場で見たあの眼差しを忘れられなかった。涙の奥に潜んだ、鋭く凍るような光。その光こそ、彼女の本性だった。
(あの眼差しが本物なら、術式の力以上に、エリナ様自身が強い意志で私を排除しようとしている……)
その思考は恐怖ではなかった。
むしろ、イザベラの胸に静かで確かな熱を灯していた。
夕食を終えた後、イザベラは自室の机に向かい、決闘場の図面を広げた。神殿闘技場は円形で、床は硬めの砂が敷かれている。滑りにくく、受け身さえ取れれば大きな怪我は避けられる構造だ。
(術式による突進が来るなら、踏み込みの角度を読む必要がある。力任せなら、こちらの技が生きる。脆い軸があるはず)
考えを深めていると、扉を軽く叩く音がした。
「イザベラ、入るぞ」
「どうぞ、お父様」
アウグストが部屋に入り、机を覗き込んだ。娘が図面を前にしているのを見て、彼はわずかに笑みを浮かべた。
「戦術を考えているのか」
「はい。でも、少し迷っています。エリナ様の動きが読めない部分が多いので」
「読めないものは、読めるところまでで十分だ。お前自身の動きは、もう安定している。戦いは“最初の一歩”が勝負の大半を決める。相手が踏み込んだ角度を見極めれば、そこから崩せる」
「……最初の一歩、ですか」
「そうだ。迷っていると、相手の強さばかりが目に入る。だが、相手の強さは相手の問題だ。お前の動きはお前自身が決めるものだ」
その言葉は、イザベラの胸を静かに貫いた。
父は窓際へ歩き、夜空を見上げながら続けた。
「戦う理由を思い出せ。あの日、広場で心を裂かれたお前を見て、私は胸の底に怒りを覚えた。だが、お前は逃げずに進んだ。それが真の意味で、お前の尊厳だ」
「……はい」
「明日は王都へ戻る。試合前日の空気は、お前にとって決して楽ではないだろう。噂も冷たい視線もある。だが、心は揺らぐな」
イザベラは深く頷いた。
父は静かに部屋を出て行った。
夜になり、屋敷が静まり返ると、イザベラは窓を開き、冷たい空気を吸い込んだ。星々は澄んだ光を放っている。遠くで犬が吠える声が聞こえ、その音が一定のリズムで響く。
(私は、王太子アレク殿下に戻ってほしいわけじゃない。あの人の隣に立つ事を望んでいたわけでもない)
広場での言葉が蘇る。
――イザベラ・ロッシ侯爵令嬢との婚約を破棄する。
胸の奥を刺す痛みは、もう薄れ始めていた。
(私は、私を取り戻したいだけ。奪われたものを、奪い返すだけ)
その言葉は、静かに、しかし力強く心の奥で響いた。
翌朝、イザベラは荷物を整え、王都へ向かう準備を整えた。侍女たちが心配そうに見つめている。馬車の前に立つと、父が娘の肩に手を置き、短く言った。
「負けるな」
「はい。必ず」
馬車が動き出し、ロッシ侯爵領の風景がゆっくりと遠ざかっていく。
イザベラは窓に手を当て、かすかな震えを押し静めた。
(王都へ戻る。この戦いの舞台へ)
揺れる馬車の中で、イザベラは決意を胸に刻み続けた。
王都セレノアの空はまだ薄暗く、朝の光が街路を淡く照らしていた。人々の足音がいつもより早い。名誉決闘の日。歴史ある神殿闘技場では、すでに観客の列ができていた。祭りのような喧騒が空気を震わせ、人々の視線は今日の試合に集中している。
馬車を降りたイザベラは、広場に集まる視線を感じながら、ゆっくりと歩き出した。表情は静かだが、その奥には強い意志が宿っている。周囲には噂や期待が渦巻いていた。それらの声は、耳に届かないほど遠く感じられた。
「イザベラ」
背後から呼び止める声があった。振り返ると、アウグストが歩み寄ってきた。娘の肩に手を置く動作は静かで、しかし確かな力を持っている。
「迷うな。お前のやるべきことは、もう決まっている」
「……はい」
言葉は短く、それだけで十分だった。父は深く頷き、闘技場への入り口を指した。
「行け。あとは己の技を信じるだけだ」
イザベラは静かに礼をし、闘技場へ足を踏み入れた。
内部は明るく、無数の旗が揺れている。観客席はすでに埋まり、ざわめきが波のように押し寄せていた。中央には円形の土台があり、固く踏み固められた砂が広がっている。床の感触を確かめながら、イザベラはゆっくりと歩いた。
(滑らない……。踏み込みやすい……)
頭の中で、父に言われたことを思い出す。最初の一歩。その一歩さえ正確なら、崩す流れを作れる。
やがて、反対側の入口が開いた。まぶしい光の中から、白い衣を纏った聖女エリナが現れた。輝くような微笑みを浮かべ、人々の歓声を浴びながら優雅に歩く。だが、その目だけは冷たい光を秘めていた。
「イザベラ様。今日は、真実を光で照らして差し上げますわ」
「……ええ。どちらの“真実”が残るか、確かめさせていただきます」
両者が中央の印まで進むと、審判役の司祭が前に立った。司祭の声は張り詰めていた。
「名誉決闘、両者の合意のもと、これより開始する。武器の使用は禁止。術式は自衛の範囲で許可するが、致命を与えるものは禁止。降参、または戦闘不能により勝敗を決する」
観客席が静かになり、空気が一気に張りつめた。
「両者、構えよ」
エリナは胸の前で両手を合わせ、聖紋に祈るような形を取る。淡い光がその体を包み、足元に細かな術式陣が浮かび上がった。観客席から驚きの声が上がる。
(やはり来た……光の身体強化)
イザベラは深く息を吸い、腰を落として構えた。視線を逸らさず、相手の肩と足と呼吸の動きを同時に観察する。
「始め!」
合図と同時に、エリナが弾かれたように踏み込んだ。光の尾が残るほどの速さだ。掌底を突き出すような動き。真っ直ぐな突進。
(来る――!)
イザベラは後ろへ大きく下がらず、半歩だけ角度をずらす。エリナの掌底は空を切り、勢いのまま前へ進んだ。
「そこっ!」
すぐにエリナが振り向き、次の一撃を繰り出す。だが、その踏み替えはわずかに軸が浮いた。
(その一瞬――)
イザベラは相手の手首へ軽く触れ、その力の流れを読む。次の瞬間、自分の左足をエリナの重心の外側へ滑り込ませ、体を低くしながら引き込むように動いた。
エリナの体が揺れた。
(いける!)
だが、エリナの術式が輝き、反動で体勢を強引に戻した。踏み込み直し、今度は横へ跳ぶように動き、蹴りを放ってきた。
「ふっ!」
イザベラは腕で最小限の距離を作り、半歩で受け流す。エリナは攻撃を続けるが、光術式に頼った動きは力強い反面、予備動作がはっきりと見えた。
(直線……そして直線。前へ出ることしか考えていない)
エリナの蹴りが外れた瞬間、イザベラは流れるように相手の膝裏へ手を滑らせた。右足を刈り上げ、体を回転させながら引き倒す。
「きゃっ――!」
エリナの体が砂地に沈む。観客席から大きなどよめきが起きた。だが、短い悲鳴のあと、光術式がまた強く輝き、エリナはすぐに立ち上がる。
「そんな……古い武技ごときで、私に勝てると思って?」
エリナは涙を誘うような微笑みを浮かべ、周囲から同情を集める。その瞳の奥には苛立ちが宿っていた。
「技に古いも新しいもありません。必要なのは流れです」
イザベラの声は静かだった。
エリナは、その静けさを嘲笑うかのように術式をさらに高めた。衣の裾が光で揺れ、足元に砂が弾ける。
「これで終わりですわ!」
エリナが突進した。
だが、その踏み込みは強烈すぎた。力に頼れば頼るほど、重心の揺れは大きくなる。
(この一歩……来た!)
イザベラはエリナの胸元へ軽く触れ、その力の向かう方向を読んだ。
次の瞬間、体を斜めに滑り込ませ、エリナの左足に足を絡める。
「っ――!」
イザベラは腰を落とし、全身をしならせながら相手の上半身を引き込んだ。
古流キャッチアズキャンの得意とする“足刈りからの胴返し”。
重心の流れを最小の力で一気に転倒へ持っていく技。
「いやっ……!」
エリナの体が宙で回転し、砂地へ叩きつけられる。
そこでイザベラは素早く腕をとり、関節へ力を加えた。
「やめ……痛い……いや……!」
「降参を」
「嫌……嫌よ……!」
エリナの術式は乱れ、光が不規則に揺れる。関節を極められ、これ以上の抵抗は不可能だった。
「聖女エリナ、戦闘不能! 勝者――イザベラ・ロッシ侯爵令嬢!」
歓声が爆発し、闘技場が揺れた。
エリナは地面に倒れたまま、悔しさに唇を噛みしめている。光術式は弱まり、まるでその野心ごと消え失せていくようだった。
イザベラはゆっくりと立ち上がり、深く息を吐いた。
静かで凛とした空気が彼女の周囲に広がった。
(これで……私の尊厳は取り戻せた)
胸の奥に温かな火が灯るのを感じながら、イザベラは観客席をゆっくりと見渡した。
闘技場の喧騒はしばらく収まらなかった。イザベラが勝利を収めた瞬間、観客席は歓声とどよめきの渦に飲み込まれ、人々は互いに肩を叩き合い、驚きや感心を語り合っていた。聖女エリナに敗北が訪れるなど、誰も想像していなかったのだ。
イザベラは砂地に残る足跡を見つめ、ゆっくりと呼吸を整えた。汗が肩を流れ落ちる感覚が、ようやく自分が決闘を終えた現実を教えてくれた。
「イザベラ!」
名前を呼ぶ声に振り返ると、アウグストが闘技場に駆け寄ってきていた。いつも威厳のある姿とは違い、父はわずかに目を潤ませている。
「よくやった……。本当によくやった」
「お父様……」
言葉はそれだけだったが、父の手が娘の肩を包んだ瞬間、イザベラは胸の奥に深い温かさが広がるのを感じた。あの日、王都の広場で感じた痛みとはまるで違う、確かな重みだった。
そのとき、神殿側の神官たちが担架を運び込み、エリナを丁寧に乗せて控室へ運んでいった。彼女は意識を取り戻しつつあったが、悔しさに満ちた目でこちらを睨んでいた。
「イザベラ様……覚えていなさい……!」
かすれた声が聞こえたが、その言葉に力はなかった。
イザベラは静かに目を伏せた。
(恨むのなら、どうしてあの場で嘘を重ねたのか……)
決闘はすでに終わった。
正義がどちらにあったかは、もはや疑いようがない。
審判役の司祭が高らかに宣言した。
「名誉決闘の結果により、イザベラ・ロッシ侯爵令嬢の名誉は完全に回復される! 聖女エリナの訴えは虚偽と認定し、王宮は彼女の身柄について神殿と協議を行う!」
観客席に再び歓声が湧いた。
その波が押し寄せる中、イザベラは静かに頭を上げた。
(私の名誉は、確かに取り戻せた)
その確信が胸の中心に灯り、ようやく心が軽くなった。
しかし、ここからが本当の選択の始まりだった。
闘技場の出口へ向かおうとしたその時、豪奢な衣を纏った王太子アレクが姿を現した。顔は緊張に強張り、周囲の視線をどう利用すべきか計算しているようにも見える。
「イザベラ。話がある」
人々の注目が集まる中、アレクはイザベラの前に立った。彼の声にはかつての威厳は薄れ、焦りの色が浮かんでいた。
「まず……その、今回の件、誤解があったようだ。聖女エリナの訴えは虚偽だった。私は……判断を誤ったのかもしれない」
イザベラはアレクの言葉を静かに聞きながら、胸の奥に冷たい感覚を覚えた。
「判断を誤った……ですか」
「いや……その、これはお前を責めたいわけではない。ただ……改めて話し合うべきだと……」
アレクは周囲の視線を気にしながら続けた。
「婚約についても、もう一度考え直そうと思う。お前の名誉は回復された。ならば……」
「殿下」
イザベラは静かに言葉を割った。
「婚約の件ですが……私はお受けいたしません」
アレクの表情が凍りついた。
「な、なぜだ。私は――」
「殿下に否定されたのは、私の行動や態度ではありません。私の“存在そのもの”でした」
イザベラは視線をそらさず、まっすぐに告げた。
「私は殿下の隣に立つことよりも、自分の誇りを守ることを選びます」
沈黙が落ちた。
人々のざわめきが遠くで揺れ、アレクは何か言い返そうとしたが、結局言葉を失った。
「……そうか」
アレクは顔を伏せ、ゆっくりと人混みへ消えていった。
残された空気には、ようやく一区切りついたという静けさが漂っていた。
イザベラが出口へ向かおうとしたとき、背後から声がかかった。
「イザベラ様。ご無事で何よりです」
振り返ると、近衛騎士団長の レオナルド・ヴェルネッティ が立っていた。精悍な顔立ちに、落ち着いた瞳。以前から面識はあったが、こうして真正面から言葉を交わすのは珍しい。
「レオナルド様……観戦されていたのですか」
「はい。素晴らしい戦いでした。あの技は……見事としか言いようがありません」
「ありがとうございます。父の教えのおかげです」
「いえ、それだけではない。あなた自身の心の強さがなければ、あの場で技は生きません」
レオナルドの声は穏やかで、しかし真摯だった。
イザベラは戸惑いながらも、胸の奥に温かさを覚えた。
「あなたが戦う姿を見て……私はひとつ、痛感しました。名誉とは肩書きではなく、生き方だということを」
「……そんな、大げさな」
「いえ。あなたは今日、それを示された。誇りという名の剣で、誰よりも美しく戦われた」
その言葉に、イザベラはわずかに頬を染めた。
胸の奥で、これまでとは違う鼓動が小さく跳ねる。
「これからどうされるのですか」
「しばらくは家に戻り、生活を整えます。王都で生きる意味も、もう少し考え直したいと思います」
「そうですか……」
レオナルドは短く息を吐き、イザベラの目を見つめた。
「もしよろしければ、いつか……あなたのお話を聞かせていただけませんか。今日、あなたが示された強さは、もっと多くの人が知るべきものだと思うのです」
イザベラは言葉に迷いながらも、ゆっくりと頷いた。
「……いつか、ぜひ」
レオナルドの表情に静かな微笑が浮かんだ。それは華美ではなく、ただ誠実な光を湛えた笑みだった。
「では、また」
彼が去ったあと、闘技場には夕陽が差し込み、砂地を黄金色に染めていた。
イザベラは静かに深呼吸をした。
胸の奥にある火は、もう闘いのためだけに燃えているのではない。
新しい未来のために、小さく優しい光を放ち始めていた。
(私は自分の尊厳を取り戻した。これからは……私の歩きたい道を歩いていく)
そう心の中で呟き、イザベラは王都の風を受けながら闘技場を後にした。
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