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冬の水道水の冷たさが、帰宅の祈りを強めていく。
「お先に失礼します」
「おつかれ~」
楽しさも充実感も一切ないまま、今日も労働を終えた。バイトからの帰りの風は、いつもと変わらず冷たかった。しかし、足取りは軽い。
行きと時間の流れが異なる電車の中は、暖房が効いていて冷え切った体を温めてくれた。そして、僕は最寄りの一つ前の駅で降りた。
馴染みの扉は、心なしか軽く感じる。
「バイトお疲れ~」
「お疲れ様」
千華さんと榊さんの労いの言葉で、今日一日の疲労が全て吹き飛んだ気がした。
夜も深まり、お腹も満たされた頃、千華さんが口を開いた。
「榊さんと話してたんだけど、和樹君が春休みに入ったら旅行に行かない?」
胸は高鳴り、心は弾んだ。
「どこに行くんですか?」
千華さんと榊さんは、顔を見合わせた。
千華さんが口を開く。
「和樹君は、どこに行きたい?」
深く考えず、最初に思い浮かんだ都道府県を言う。
「鳥取県」
「鳥取か~、いいね」
「車で行こうか」
「私免許持ってるから。運転変われますよ」
「もし、僕が疲れたら変わってもらおうかな」
それから僕らは、まだ見ぬ旅路に夜が明けるまで語りつくした。
まだまだ春が恋しい頃、後期の期末考査が始まろうとしていた。
来年度の自分を楽にするためにも、一つでも多くの単位を拾っていきたい。考えたくもないが、就活のことも考えると、尚更頑張らないといけない。
期末考査が終われば、春休みに突入し、待ちに待った三人での旅行が待っている。
レジュメを見通し、頭にその内容を叩きこむべく、あの場所に向かう。
僕がペンを走らせている中、目の前の人はコップを傾けていた。
ふと、顔を上げると笑顔の千華さんと目が合う。
「何か僕の顔についてます?」
「ううん。和樹くんってかわいい顔しているなって」
顔が熱くなり、顔を下に向ける。
「ずるいなー、いつも」
独り言をつぶやいてみる。
「ん?何か言った?」
「何もないです」
「え~?教えてよ」
「秘密です」
幼稚な心を曝け出して、最大限の笑顔を見せてやる。
「分からないことがあったら、このお姉さんに聞くんだぞ」
偉そうな顔と言葉にも、可愛いと思っている自分がいる。
「聞いても意味なさそうなので大丈夫です」
「え~、ひどい~」
こんなくだらなく楽しい時間が、いつまでも続いて欲しいと心の底から願う。
試験最終日、アラームで強制的に起こされる。全くもって、不愉快な目覚めだった。
校舎から出ると、高く昇っている太陽と目が合った。少し寝不足の僕の眼には、眩しすぎた。
終わった達成感で、睡眠欲が溢れ出て来た。
いつもより早くの帰宅に、一種の優越感に浸る。約三年間の月日で、すっかり慣れた長い長い電車の中で、溜め込んだ疲労が、僕を夢の中へ誘った。
目を開けると、いつの間にか最寄りの付近を、電車は走っている。平日の昼間のガラガラな電車内で、僕は大きく体を伸ばした。
目的地の駅で降り、改札を抜けると、前触れもなく電話が鳴る。妙に嫌な予感がした。電話に出ると、その嫌な予感が的中したことに気づく。
「もしもし、村瀬君?ちょっと今良いかな?」
「はい。店長どうしました?」
「来月に出してもらうシフトのことなんだけど」
バイト先の店長の声は、不機嫌なものになっていた。
「バイトのシフト最近入り悪いけど、来月のシフト分かっているよね?」
店長からの言葉を聞いていると、沸々と思いが湧いてくる。僕はその思いを止めようとせず、吐き出したくなった。
「すみません。これから学業の方も忙しくなるのでバイト辞めさせていただきます」
相手からの返事を聞かずに、電話を切る。すぐに電話がかかってきたが、着信拒否のボタンを躊躇することなく押した。
段々、冷静になっていく自分がいた。あまりに実感が湧かない出来事だが、平穏無事をモットーに送ってきた人生からは、かけ離れていると気づく。
多分、僕がしたことは世間では悪なのだろう。だけど、物事の良しあしよりも、自由への翼を手に入れた高揚感が、僕を支配していた。
「それでバイト辞めたの?」
榊君の問いに、こくりと頷く。
「和樹君やるね~」
「和樹君が選んだのなら良い選択だと思うけど、何で千華ちゃんはそんなに嬉しそうなの?」
「嬉しそうになんかしてないですよ。ただこれでみんな無職仲間になったなって思っただけです」
千華さんは、榊さんにいたずらっぽく笑って見せた。
「でも千華さん、イラストレーターの仕事してるじゃないですか」
「私フリーランスだから、実質無職」
「何ですかその暴論」
頭にこびりついていた不安が、少しずつ剥がれつつあることを願う。
「とりあえず、旅の計画たてようか」
榊さんのその言葉に、旅路の期待が膨らんでいく。
「鳥取の本買ってきたから読んでみて」
榊さんは、二、三冊の旅行本を机に置いた。その中から一冊を手に取り、ページをめくり出す。
その本の中には、様々な美味しそうなグルメや、目を奪われるような綺麗な風景が、次々に目に飛び込んできた。
今から二日後の朝が、待ち遠しい。




