7
穏やかな波の音が、ここまで届いていた。
榊さんの元妻こと正美さんと千華さんの表情は、先程よりは幾分か朗らかなものになっていた。
「お友達だったのね。私、勘違いしちゃってごめんなさいね」
穏やかな口調になった正美さんは、優しそうな顔を覗かせていた。
「いえいえ。私の方こそ失礼なこと言ってしまってすみません」
「ううん。確かにこの人とは赤の他人になったから、利伸さんが何しようと口出す権利は私にはない」
正美さんの視線を受けた榊さんは、それまでただ黙っていたが、ようやく口を開いた。
「正美、千華ちゃん、誤解を与えてしまって申し訳ない」
清々しく榊さんは、頭を下げた。
「和樹君も巻き込んじゃってごめんね」
蚊帳の外で、一部始終を見ていた僕は、ようやくこの場の存在を取り戻した。
「正美、今日は何の用事でここに来たの?」
「智花があなたに会いたいってせがむから。会わせる前に、あんたの様子を見に来ようと思ったのよ」
「智花は元気か?」
「うん」
「それなら良かった」
榊さんは、静かにコップを手に取る。
「来週でいい?」
「ん?何が?」
コップを口元に運ぶ榊さんの手が止まる。
「智花があなたと会う日よ」
「いいのか?」
「ええ。あなたが智花のことを大切に思っていることは知っているから」
榊さんが、一人の父親として見えた。その背中は、きっと大きく逞しいものなはずだ。
未来のことなんてなるべく考えないでいた。未来なんて考えたところで、ろくなことがないことは知っていたから。
「就活はもう始めてるの?来年には、もう就職なのよ」
あまりしつこく言って来ていなかった親までも、就活準備の気配すら見せていない僕に焦りを見せ始めた。
「分かってる。ちゃんと考えているから」
痛いところを突かれた僕は、虚勢を張ることしか出来なかった。途方もなく巨大な焦りを感じながら、嘘までついて怯える自分が心底嫌になる。
親から、就活から、そして自分自身から逃げたくて扉を開き、真夜中の外の世界に飛び出す。だが、結局いつもの場所に吸い寄せられていた。
「泣きそうな顔をしてどうした少年、お姉さんに話してみないか?」
この人の顔を見ると、胸がポカポカ温かくなって安心する。彼女には、弱味さえ曝け出しても良いのかもしれないと思えた。
「何も見えない水の中で必死にもがいている気分です」
千華さんに奢ってもらった缶のコーヒーを口に運ぶ。
「今日は一段と星綺麗だね」
彼女に言われて上空を見上げる。
「無責任な言葉だけど、私は和樹君ならこれからの未来より良い方向に向かっていくと思う」
正論ではない彼女の言葉に救われる。
「頑張ってもがいている君は、世界で一番かっこいいよ」
「千華さん!」
絶対に今伝えるべきでは無いことは分かっているが、僕の中で暴れるこの気持ちを抑えることは出来なかった。
「好きです」
彼女が口を開き、言葉を紡ぐその瞬間まで悠遠の時がかかったように感じた。
「ごめんなさい。和樹君の気持ちにはこたえることは出来ない」
何度目かの失恋をした。
こうなることは分かっていた。そう、分かっていた。
僕の頬に涙が伝い、止めどなく流れる。
「そんなに泣かないで」
彼女の手が、僕の顔に伸びて来た。
「ごめんね。勇気出して言ってくれたのに」
「僕も急に変なこと言ってしまってすみません」
「『恋』は相手の光に見惚れること、『愛』は相手の影を受け入れること。今の私には、どちらも出来る気がしない。もしかしたら、これからもずっとかもしれない。そうなってしまうことが本当に怖い」
彼女の言葉の真偽は分からないが、心一杯の優しさを感じた。
冷たくなったベンチが、僕を包み込む。
年が明け、早くも二か月が経とうとしていた。就活に対しての不安も行動力も、何一つ変わらなかった。
千華さんとは、大手との仕事が入ったことによって彼女とここしばらく会えていなかった。
彼女の居ない一日は、驚くほど早く過ぎていく。
二十一年間生きてきてようやく気づいた。孤独の淋しさに。
温かな母の晩御飯を口に運びながら、心の孤独を感じた。
今日の夜も、息をするように流れていった。いつもの夜よりも二倍くらい時が早く感じた。
人類の結晶である冷たい板の電源を入れる。時刻が表示され、一瞬考えた後電源を切り、再び眠りの世界に入った。
次に起きた時、時刻は正午をまわっていた。こんな日もあっても良いと思えた。
再び目を瞑ろうとした時、不意に携帯が鳴った。
電話をかけて来た主は、千華さんだった。指をスライドして、電話に出る。
「和樹君、これから会えないかな?」
彼女の声は、どこか寂しさを帯びていた。
電話を切ると、すぐに上着を手に取る。財布と携帯をポケットに突っ込む。
家族を起こさないように、神経を使いながら、冷たく重い扉を開ける。
「久しぶりだね。元気だった?」
暗闇の世界で出会った部屋着の千華さんは、相変わらず素敵だった。
「僕は一応元気でした。千華さんは?」
「私の家のはずなのに、一人でずっといるのが寂しかった」
彼女の頬には、一筋の雫が伝っていた。
「ごめんね。ずるいよね、この前和樹君のこと振ったのに」
愛する人の言葉と涙に、未熟な僕は抱きしめることしか出来なかった。
「私、孤独にはとっくに慣れたはずなのに、和樹君と会えないことがこんなにも辛いことだなんて知らなかった」
千華さんの弱音を聞いたのは、初めてだった。
「僕だって会えないのは、本当に辛かったです。だから、今日ここで会えてすごく嬉しい。これからも、もっともっと二人でたくさん会いましょうね」
「うん!」
「約束ですよ」
僕が笑った。彼女も笑った。
一つの電灯に照らされながら、二人で見た夜空は無限の星々が輝いていた。
しばらく幸せな沈黙が続いた。悠遠にも続くこの時間が、たまらなく好きになる。
「雨止まないね」
「雨なんか・・・」
僕の胸に千華さんの頭が沈む。
「雨止まないね」
「はい。止まないですね」
我が国の美しい表現に酔いしれる。
星々が降る丘で、僕はあなたと夢を見た。




