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パルプ・フィクションに憧れて

 初恋は、ユマ・サーマンだった。

 

 父の部屋に貼ってあった『パルプ・フィクション』の映画ポスター。


 ユア・サーマンが演じるギャングボスの若妻ミア。ベッドに寝転んだ彼女がたばこを指に挟み、どこか退屈そうにこちらを見ている。


 こちらを品定めしているようにも見える、そのアンニュイな眼差しは、幼い僕を一瞬で虜にした。

 

 物心ついたときから、自分が他の人とは違うってことになんとなく気づいていた。

 

 僕は子供ながらに、周りの子たちがひどく幼く見えた。クラスメイトの恋話に混ざることは決してなかったし、友達と同じ服装や髪型なんて絶対にしたくなかった。初恋の相手がハリウッド女優だったことが、その証のように思えた。

 

 僕は他の人とは違う。そのことが少しだけ誇らしかったけど、母はそんな僕に良い顔をしなかった。


 でも、父は違った。


「いいか、忍。他の人とは違うってことは、それだけ特別だってことだ。特別な君は、物語の主人公になる素質があるんだよ」


 父はマイノリティの生きづらさも、豊かさも丸ごと理解してくれて、僕にとって唯一の理解者だった。




 大学生になって、映画研究会に所属した。


 映画研究会に所属するやつなんて、ほとんどがサブカル気取りのイタいオタクなやつらばかり。彼らは映画が好きなのではない。映画好きな自分が好きなのだ。


 小難しい評論家の真似をしてシーシャを吹かすか、やたらと古いシュールなフランス映画の名前を出して優越感に浸る。そういう姿を見ていると、物の本質を見ようとするやつは少ないとつくづく思う。

 

 でも、先輩は違った。

 

 黒髪ボブの髪型に、美人特有の切れ長の目、大人びた笑み、胸元にある蝶のタトゥー。まるでスクリーンの中から抜け出してきたみたいな圧倒的な存在感。

 

 大学内でも美人で有名な勝木先輩は、この映画研究会のマドンナであった。

 

 男たちは皆、彼女に好意を寄せていた。僕もそうだ。でも、僕はみんなのように彼女の外見に惹かれたのではなく、彼女の内面、つまり本質に惚れていた。

 

 あれは新入生歓迎会のときのこと。

 お洒落な居酒屋の一室。新歓を主催してくれた先輩たちが、順番に自己紹介を始める。学部、学年、名前、好きな映画をめいめいに言っていく。少し退屈だなって思い始めたころ、勝木先輩の番が回ってきた。


「はじめまして、法学部三年の勝木です。好きな映画はパルプフィクションとキルビル。嫌いな映画はお涙頂戴の恋愛映画全般。最初に言っておきますが、私は、君たちみたいな映画オタクな男には一切興味がありません。なので、絶対に私のことは好きにならないでください」


 バニラシェイクを赤いストローで飲んでいる、彼女はクールにそう言った。


 まるでミアだ。……僕と一緒だ。


 運命だと思った。


 今となって思えば、あのときの先輩は僕たち新入生に対して、舐められないようにかましていた。先輩はそういうところがある。そんなところも愛らしい。




 大学の講義室で行われる、週に一度の自主上映会。


 本当は勝木先輩のとなりに座りたかったけど、マドンナのとなりに座るなんて、一年生の僕には不可能。結局、いつものように同期のやつらで固まって席に着いた。


 夕方七時に映画が終わり、周りの同期は横でだらだらと「やっぱり、ゴダールだな」とか、「タルコフスキーが一番だ」とか、小難しい映画談義に花を咲かせている。こいつらもこの半年間でだいぶ、自分に酔っているサブカル好きになったものだと思う。

 

 僕は頬杖をつき、スマホをいじりながら、退屈なサブカル話を聞き流す。

 

 ……おっ。パルプ・フィクション、リバイバル上映やってるじゃん。


 近くの映画館の上映中の映画を調べているとき、僕の前に勝木先輩が現れた。


「ねえ、忍。あんた、今日暇? 今からもう一本映画観に行かない?」 


「え?」突然のことに僕は目を丸くする。


 驚いたような声を出したのは、僕だけではなかった。

 周りの同期から羨望の眼差しを向けられる。さっきまであんなに早口で捲し上げていた口が、今はぽかんと開いているのが、なんだかおもしろかった。


「あんた、新歓でタランティーノ好きって言ってなかったっけ?」


「……ええ、好きですけど」まさか覚えててくれてたなんて。僕はまた驚いた。「もしかして、映画ってパルプ・フィクションですか?」


「そう」彼女は薄く笑った。「一緒にレイトショー観に行こ」


 え、どうしよう。急に現れた幸運に、すぐに頷くことができない。僕が緊張で口を結んでいると、先輩はそっと僕の耳元に顔を寄せて、ささやくように言った。


「あんたも、退屈な評論会に参加する気ないんでしょう?」


 挑発するように細い顎を傾ける。紅いリップは、場末のネオンみたいに艶やかだった。



 手を引かれるように連れてこられた、大学近くにあるレトロな映画館。


 館内は、ほとんど客がいなかった。どうやら平日のこんな時間に、二時間半以上もある昔の映画を観る暇人は、そこまで多くないらしい。


 メロンソーダを片手に、赤いベルベットの椅子に沈み込む。スクリーンの光が瞬いて、白い煙のように僕らの顔を薄く照らした。

 

 上映前に何度も観たことがあると言っていたはずだが、先輩はスクリーンに釘付けになっている。


 ぴくりと動く頬。眉間に集まる小さな皺。たまにストローを唇ではむはむしている。

 

 煙草を喫うユマ・サーマンの横顔と、スクリーンの光を反射する先輩の横顔が重なって見える。

 

 パルプ・フィクションは父さんが一番好きだった映画。

 今まで数十回と観た映画のはずなのに、心臓のリズムがスクリーンのフィルムリールのように早回しになっていた。



「退屈だった?」


「……え?」


 深夜二時。雑居ビルの九階にあるアメリカンな雰囲気のカフェバー。


 僕はメロンソーダーを頼み、先輩はバニラシェイクを頼んだ。

 そういえば先輩、新歓のときもバニラシェイクを飲んでいたな、と思い出す。もしかして、あのときも、パルプ・フィクションを来る前に観てきたのだろうか。


「たばこ喫っていい?」


 先輩は灰皿に視線を落とす。いいですよ、と僕が答えると、先輩は黄色のパッケージのボックスを取り出す。シュポン、と高そうなジッポでたばこに火をつけた。


「彼氏の影響ですか?」


「ん?」先輩は不思議そうに、こてんと首を傾げる。


「……ほら、女がたばこ喫うのって、だいたい男の影響だから」


「あんたは、男の影響でたばこ喫うの?」


「喫いませんけど」


 先輩は曖昧に笑うばかりで、僕の問いに答えてはくれなかった。


「で、退屈だったの?」


「なにがですか?」


「映画」


「なんで、ですか?」


 もしかして気づかぬうちに退屈な表情でもしていたのだろうか。確かに、パルプ・フィクションは何度も観た映画だ。けれど、退屈だと思ったことは一度もない。


 先輩は煙草をくゆらせる。そして、真っ直ぐに僕を見つめる。


「だって、全然映画観てなかったじゃない。——私の方ばっかり見てた」


 彼女の言葉で、拳銃を向けられたように心臓がどきりと跳ねた。


 ばれていたのか。恥ずかしい。先輩への想いを悟られぬよう、僕は逃げるように窓の外に視線を移す。


 深夜二時。それはモラトリアムな時間帯。視界に映る都会の街は、まだまだ眠る気配がない。

ゆらゆらと揺れるたばこの煙。店内に流れるノスタルジックなポップミュージック。


 映画みたいだな、とふと思った。それと同時に父の言葉を思い出す。


 ——特別な君は、物語の主人公になる素質があるんだよ。


 肩まである長い髪を手櫛で梳いて、小さく深呼吸。覚悟が決まり、先輩に視線を戻す。


「私、先輩のことが好きです」


「…………えっ?」


 先輩はこれでもかと目を丸くした。


 しばしの沈黙。ピザの斜塔のように伸びたたばこの灰が、ぽとりと灰皿に落ちる。

 

 しばらくして先輩はたばこの火を消すと、ゆっくりと口を開いた。


「……好きって、そういう意味の好き?」


「はい」


「……そっか」


 先輩は困ったように笑ったあと、初めてみるような真面目な顔つきに変わった。


「私も忍のこと好きだよ。——でも」


 このあとに続く言葉は、なんとなく想像できた。だから、もう、覚悟はできている。


「私の好きは、忍の好きとは違う」


 真面目な顔をした先輩も、とても魅力的で素敵だった。



「ごめんね、忍。私、女の子には恋できないんだ」



 なんで僕は、他の人と違うんだろう。なんで男の人を好きになれないんだろう。

 

 僕は必死に涙を堪え、「まあ、そうですよねー」と強がって笑う。


 あー、だめだ。どれだけ我慢しても涙は消えてくれそうにない。涙でマスカラが滲みそうだった。

 

 ワンチャンあるかもって思ったけどな。

 だって先輩、新歓のときに『男には一切興味がありません』って言ってたからさ。僕と同じだ。運命だな、って思ったんだけど。……ああ、そっか。あの言葉には『映画オタク』って枕がついていたんだった。

 

 舞い上がって、僕はそんなことも忘れていた。


 ……父さん。僕、主人公にはなれなかったよ。

 

 ふと窓の外を眺める。

 窓ガラスに映る女の僕。モラトリアムな街の灯りは涙で滲んで、まるでスクリーンに流れるエンドロールみたいに見えた。


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