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始発を待つ、推しとの15分間

 街はまだ眠っている。

 

 重い瞼。仮眠明けの身体は少しだけ熱っぽい。今日も今日とて、始発の電車に乗るため駅に向かう。


「あー、部長死なねえかなぁ」


 はたして、今月だけで何度この言葉を口にしたのだろうか。

 もし僕が、デスノートを拾ったら、まず間違いなく部長の名前を書くだろうし、この世にゴルゴがいるならば、借金してでも部長の暗殺を依頼するだろう。


 目を瞑ると思い出す、憎たらしい部長の顔。ホラー映画で出てくる殺人ピエロのように脳裏に焼き付いて離れない。


 部長は一言で言うと、やたらと声がデカい人だ。


 その声は鋭い矢となって僕の心臓に突き刺さる。彼が怒鳴ることはない。常に笑っている。歯茎を剥き出しにしながら。

 だが、その笑顔は温かみなど欠片もなく、サディストのそれだった。


「おい。貴様、このゴミはなんだ? 俺は会議用の資料を作れと言ったはずだぞ。誰もこんなゴミを作れとは言っていない。簡単な資料も作れない、スプレッドシートもまともに扱えない。お前はいったいなん

ならできるんだ? お前には何も期待できないな」


 会議室にいる全員の前で、机を叩きながらそう吐き捨てた。

 集まる同期の視線。「可哀想に」と「自分じゃなくてよかった」が混ざったような目。今でも思い出すだけで耳まで熱くなる。


 部長はいつもそうだ。

 成果を出せば「調子に乗るな」と言い、失敗すれば「やっぱりな、期待してなかった」と笑う。

 机の上には部下の心を折った数だけの「戦利品」が転がっているようで、誰もまともに口答えできない。


 部長の口癖は、『俺はお前らのためを思って言ってるんだ』だった。けれど、その『お前らのため』に救われた人間を僕は一人も見たことがない。


 朝から晩まで細かいチェック。

「フォントサイズが違う」「改行の位置がおかしい」「この言葉遣いは失礼だ」

 まるで重箱の隅にしか興味がない人間のように、重圧だけを増やしていく。


 夕方になると、部長はわざと仕事を振ってくる。

「今日中にやっとけよ」と言うくせに、必要な資料は渡さない。夜の九時を過ぎてから平然と「これ追加しとけ」とファイルを投げてくる。こちらが残業していれば「熱意があるな」と笑い、定時に帰ろうとすれば「やる気が足りない」と嫌味を言う。どちらに転んでも罰が待っている。


 休日も同じだ。

 早朝に携帯に電話が鳴る。「ちょっとだけ」そう言って始まる業務連絡は、結局一時間を超える。出なければ「危機意識が低い」と叱責され、出れば「休みの日でも頑張ってるな」と上から目線で褒められる。

 そのうち僕らは、休みの日に電話が鳴らないだけで「今日は運がいい」と思うようになった。


 部長の下にいると、時間も心も削られていく。


「はあ、部長死なねえかなぁ」


 同期の一人が自律神経失調症になって会社を辞めた際、一度、人事部に部長のパワハラを相談したことがある。

 しかし、結局何の意味もなかった。人事部の偉い人は、「まあ、あの人はああいう人だからね。しょうがないよ」と他人事のように言って笑った。


 僕は、そのときはじめて部長が社長の親族であることを知った。

 



 しんと冷えた住宅街を歩く。大型トラックが止まったセブンイレブン。オレンジ色を点滅させる信号機。ここまで来れば駅までもうすぐ。


 穴が開くほど胃が痛い。出社する前だが、もう帰りたい。けれども、駅に向かうまでの僕の足取りはそれほど重くなかった。


 駅に辿り着く。自動改札機に定期券をかざす。始発の電車が来る十五分前。


 静かな駅のホーム。

 緑色のベンチには、女子高生が一人。バスケットボール型の不格好な御守りをつけた大きなエナメルバックを肩にかけている。


 やった。今日もいてくれた。


 彼女がこちらを振り返る。僕と目が合う。


「あっ、おはようございます!」


 ぴょんと跳ねたお茶目な寝癖。弾けるような笑顔に思わず頬が緩む。

 彼女はエナメルバックを膝の上にのせて、隣の席を開けてくれる。僕はいつものように彼女のとなりにそっと腰を下ろした。


「おはよう。今日も朝練?」


「はい! そっちも、今日も早朝出勤ですか?」


「まあね。お互い大変だね」


 そう言って、二人で笑いあう。僕たちの会話はいつもこうやって始まる。


「どうです、パワハラ上司は?」


「いつもどおり、最悪だよ。昨日も三十回は嫌味言われた。そっちはどう? 面倒なお嬢様クラスメイトとはうまくやってる?」


「まさか。こっちも嫌味言われまくりですよ。昨日なんて、『あんたはいいよね。入試なんて考えずに部活ばっかりやれるんだから。こんな時期に遊んでられる、あんたが羨ましいよ』って言われましたよ。私は本気でバスケやってるのに!」


 彼女はそう言って頬を膨らませる。その怒った表情は、まったく怖くなくて、むしろ愛らしかった。


「そっか。それはムカつくね」そう僕は相槌を打ちながら、彼女の制服をちらりと見る。「てか、君、大学行かないんだね」


 彼女の着ている制服は、確か偏差値と学費の高さ有名な私立校のものだったはずだ。


 はい、と頷いた彼女は、「父には大学には行っておけって言われてましたけど、最近、気が変わったんです」と続けた。


「高校卒業したら、就職します。やりたいことができましたから」


「へえ、そうなんだ。……やりたいこと、か。いいね」


 彼女の笑顔がいつにもまして眩しい。

 やりたいこととは、いったいなんだろうか。気になるが、これ以上深くは聞かない。聞いてはいけない。


 僕は彼女の名前さえも知らなかった。


 彼女と話しをするようになったのは、いつの日からだろう。毎日、このホームで顔を合わせる僕ら。会釈からはじまり、気がつけば始発を待つ十五分間、僕は彼女と話すようになっていた。


 言っておくが、これは恋じゃない。ただ彼女は僕の推しなのだ。


 名前も知らない推しとの十五分間の会話。その十五分だけで地獄の一日を耐えられる。

 それだけが、僕を会社へと歩かせる理由になっていた。


「え? いまなんて?」


 彼女の言葉は一言一句聞こえてはいた。

 でも、あまりにも衝撃的な内容で、僕は慌てて聞き返す。

 

 彼女は「もぉー、寝ぼけてるんですか?」と頬を膨らませた。


「私、来週の大会を最後に引退するんですって! ……だから、貴方と早朝にこうやってお話しするのもあと数回だけです」


 ……嘘だろ。嘘だと言ってくれ。

 強い絶望感と、喪失感に苛まれる。心にぽっかりと穴が開く。


 あと数回。たったそれだけで、僕の地獄の日々を支えていた十五分間が消えてしまう。その現実が、部長の罵声よりもはるかに重く胸にのしかかってきた。


「そっか。……残念だね」


 電車が入ってくる。大きなブレーキ音で僕の声はでかき消される。電車が来たら、どんなタイミングでも会話を終了する。それが僕たちの暗黙のルールだった。

 




「……はあ。死にたい」


 辛い、辞めたい、死にたい。

 何度も何度も……何度も、頭の中で永遠とループするその言葉たち。今月だけで何度、「死にたい」と口にしたのだろうか。


 僕は一人ベンチに腰掛け、始発の電車を待っている。


 推しとの十五分間の会話がなくなって、早数か月。季節が変わり、気づけばもうすぐ四月になろうとしていた。


 あの頃よりも残業はさらに増え、休日の呼び出しも日常になった。部長の罵声を浴びるたび、胃の奥が灼けるように痛んだ。


「もうお前、会社辞めたら? お前がいなくたって、ここは余裕で回るからさ。仕事もできない、彼女もいない。まじでさ、お前って、なにが楽しくて生きてるの?」


 知らえねよ、と心の中で吐き捨てる。部長の顔面に唾を吐いてやりたい。

 お前のせいで自殺しましたって内容の遺書でも残して、本当に死んでやろうかとさえ思う。


 でもきっと、こいつは僕が死んだら、いつものように歯茎を剥き出しながら醜い顔で笑うのだろう。


 電車に乗る足取りも重い。今や僕を駅へと歩かせる理由は、何ひとつ残っていない。

 

 そんなある朝。


「なあ、聞いたか? 部長が飛ばされたらしいぞ」

 

 出社早々、同期のひそひそ声が耳に飛び込んできた。


「……は? マジで言ってる?」


「まじまじ。急遽、昨日付けで地方の子会社に飛ばされたらしいぜ。なんでも、社長直々の指示だってさ」


 僕は耳を疑った。社長の親族だから安泰だと、誰もが思っていたあの部長が……?


 殺人鬼ピエロがいない社内の空気は別世界のようだった。


 僕は現実感がないまま、呆然としながら仕事をこなし、定時後に逃げるように会社を出た。駅まで歩いているうちに、久々に心に隙間ができていることに気づいた。

  

 そして、駅のホームに辿り着く。


 緑色のベンチに、見覚えのある影。

 バスケットボール型の不格好な御守りがついた大きなエナメルバックはもうない。代わりに、落ち着いた色の高級ブランドのハンドバックを膝にのせている。


「……え」と思わず声が漏れる。


 彼女がこちらを振り返る。僕と目が合う。何一つ変わらない弾けるようなあの笑顔。


「あっ、お久しぶりです!」

 

 心臓が跳ねる。数か月ぶりの推し。幻覚じゃないかと目を疑う。


「どうして……?」


「私、無事就職できたんですよ。まあ、コネ入社ですけど」


「え、就職? コネ?」


「はい。実は、父が社長でして。……あれ、言ってませんでしたっけ? 先輩」


 笑顔のまま、彼女はさらりと言った。


 頭が真っ白になった。


 社長の——娘? ……それに、先輩?


「それでパワハラ上司のこと、よく教えてくださったじゃないですか」


 彼女は声をひそめ、お茶目にウィンクする。


「お父さんに話したら、『それは放っておけないな』って」


「……まさか」


「言っときますけど、私のやりたいことはこれだけじゃないですよ」


 少しだけ大人っぽい表情で彼女は、はにかむ。


 僕はすべて理解した。


 あの地獄の日々を作っていた張本人は、もうここにはいない。その理由が、名前も知らない推しの一言だったなんて。

 

 電車が入ってきた。けたたましいブレーキ音。それでも今度は、会話を切らなかった。


 僕は笑っていた。自然とこみ上げてくるように。


「今日からは早朝じゃなくても、会えますね」


 女子高生から、社会人となった彼女。


 


 ——僕が数年後にあの会社の社長になるのは、また別のお話。

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