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わたくしの推しは筆頭公爵令嬢──あなたを王妃の座にお連れします

作者: Kei

筆頭公爵令嬢クラリスと、推し活令嬢レティシアの“はじまり”。

単体で完結/本編未読でも読める独立短編です。


 わたくし──レティシア・ホーソンは、あなたを王妃の座にお連れすべく、生まれてきたのだと。


 密かに、ここに宣言させていただきます。




 その年、エルデンローゼ王国に激震が走った。


 現王太子夫妻に、世継ぎとなる王子が誕生した。


 それと時を同じくして、王国を支える三大公爵家すべてに、女児が生まれた。


 貴族社会に走った衝撃は、決して小さなものではなかった。


 王国の誰もが考えたのだ──いずれかの公爵令嬢が、未来の王太子妃、ひいては王妃となるのだろう、と。


 三大公爵家は、これまで絶妙な均衡を保っていた。だが、そのいずれかが王家に連なるとなれば──その家は他の二家よりも確実に頭ひとつ抜け出すことになる。


 王子アレクシス様の婚約者が決まるまで、貴族たちは立場と未来を測りかね、三家の動向を息を詰めて見守りながら、右往左往するしかなかった。




 当事者でありながら、そんな政争めいた事情など、当時のわたくしはまるで知らなかった。


 まったくもって、実に平和な日々を過ごしていたのだ。


 貴族社会では、三大公爵家の動向に全員が固唾を呑んでいたというのに──少なくとも、その一角であるホーソン家にとっては、まるで他人事だった。


 そもそもホーソン家は、三大公爵家の中でも異色の存在だった。


 我が家の二つ名は、「芸術と文化の守護者」。


 そして同時に、王家の忠実なるしもべ。


 王家は絶対。

 我らが誇る美と技術のすべては、王家のために振るわれる。例外はない。


 ──もし王家から望まれたなら、わたくしを嫁がせることにも一片の迷いもなかっただろう。

 それが、ホーソン家の誇りなのだから。


 幸いにして世間の見立てでは、次代の王太子の婚約者は、筆頭公爵家であるエヴァレット家か、王家の分家筋にして貴族社会の頂点に君臨するヴィステリア家の令嬢に定まるだろうとされていた。

 ホーソン家がそれに異を唱えることはなく、わたくし自身もまた、深く考えたことはなかった。


 ただ王家のために。王家が望むままに。

 それがホーソン家の生き方だった。


 ──けれど。


 今思えば、当時のわたくしは理解していなかった。

 なぜ我が家がこれほどまで王家を信じ──もはや信仰の域に──、すべてを捧げる覚悟を当然としているのかを。


 ──しかし、わたくしは、あの日。

 あの瞬間、あの出会いによって。


 ホーソン家の“忠誠”が、ただの理念ではないことを。

 それがどれほど強烈で、絶対的なものかを。

 身をもって理解することとなったのだ。


 脳髄に刻み込まれるような、鮮烈な衝撃とともに──


 わたくしの太陽となる方との、運命的な出会いによって。




 その日、わたくしは王宮の庭園で、お茶をしていた。


 ──もちろん、ホーソン家の邸で催されるような気楽なお茶会ではない。


 なにしろ、この場に集っていたのは、王家と三大公爵家の者たち──王国の未来を担う者ばかりだったのだから。


 わたくしの正面にお座りになっていたのは、王太子妃殿下。

 一児の母とは思えないほどの美貌と気品にあふれ、わずかな所作のひとつにさえ、知性がにじみ出ていた。

 優雅な手つきで、静かにティーカップを口に運ばれるそのお姿は、まさに次代の“王妃”そのものだった。


 そのお隣にはヴィステリア家の令嬢、ディアナ様。

 わたくしと同い年とは思えぬほどの気品と落ち着き。物腰は柔らかく、微笑みはたおやか──まさに、貴族令嬢の鑑だった。


 傍らには、ヴィステリア公爵家の嫡子夫人である母君が、我が子を誇らしげに見守って座していらした。


 けれど──わたくしの視線は、どうしても彼女たちを通り越してしまう。


 妃殿下を挟んだ反対側。

 エヴァレット家のご令嬢──クラリス様へと、自然と引き寄せられていたのだ。


 初めて彼女を見たとき、思わず息を呑んだ。


 ──これは、お人形では……? と。


 あまりにも整いすぎた容姿。

 黒曜石のような艶やかな髪。

 青みを帯びた紫紺の瞳は、まるで宝石そのものだった。


 だが、それ以上に目を奪われたのは──その、まるで動かぬ表情だった。


 お茶を口にする所作さえ完璧。けれど、どこか現実味がなく、一切の無駄がない。

 ほんの一瞬、「本当に生きているのかしら」と疑ってしまうほどに、彼女は静謐だった。


 クラリス・エヴァレット様。

 筆頭公爵家の令嬢。完璧な振る舞いと、氷のような美貌を持つ少女──


 そのお隣の席には、誰もいなかった。

 わたくしの隣にはお母様が、他の子女の隣にもそれぞれ母君が寄り添っていたというのに。


 それでもクラリス様は、ただ静かにお茶を飲んでいらした。

 誰かを必要とする気配など、微塵もない。

 完璧で、孤高で、凛としていて──


 母親の手を借りる必要など、最初からなかったのだと。

 彼女のまっすぐな背筋が、雄弁に語っていた。


 その揺るぎなさが、当時のわたくしには、かえって理解できないものに思えた。




「最近、うちのディアナは、舞の練習に励んでおりまして」


 ヴィステリア夫人が、豪奢な扇で口元を隠しながら、ホホホと笑う。

 その笑みは柔らかくとも、王太子妃殿下に向けられる視線には、どこか媚びた色が混じっていた。

 わたくしは、理由もなく胸の奥がざらつくような、奇妙な不快感を覚えた。


 後に知った話ではあるが──

 夫人は、なんとしてでもディアナ様を、次代の王太子殿下の婚約者にしたいと考えていたのだという。

 格式高いヴィステリア家の名にふさわしく、夫人自身もまた高いプライドを持っていた。常に他家を一段下に見るような、会話の端々にそれがにじんでいた。


 わたくしの隣に座るお母様は、穏やかな笑みを崩さず、ただ静かに紅茶を口にされていた。

 ホーソン家は、代々宰相を輩出する筆頭のエヴァレット家、貴族社会の頂点に君臨するヴィステリア家と比べれば、家格では劣る。

 エヴァレット家には政治力で及ばず、ヴィステリア家には格式で届かない──

 それゆえ、ヴィステリア夫人はホーソン家を一段下に見るのが当然といった態度を隠そうとしなかった。


 当時のわたくしはまだ五歳。

 家同士の確執など知る由もなかったけれど、彼女がこちらを見るたびに向けられる“目線の温度”だけは、はっきり覚えている。


 特にわたくしは、三人の公爵令嬢の中でも、常に下に見られていた。

 ディアナ様と比較され、暗に貶められるような場面も、一度や二度ではなかった。


 ──だからこそ、わたくしにとってこのお茶会は、決して楽しいものではなかったのだ。


 このお茶会は、王太子妃殿下のご主催によるものだった。

 そして、その裏には──次代の王太子殿下、すなわち妃殿下のお子様であるアレクシス様の婚約者を選定するための場である、という噂がまことしやかに囁かれていた。


 わたくしをアレクシス様の婚約者にするおつもりなど、お母様にはなかったはず。

 ただ、お母様はホーソン家の直系にふさわしく、王家を──とりわけ王太子妃殿下を深く敬愛していた。

 妃殿下からのお誘いを断るなど、そもそも考えていなかったのかもしれない。


 わたくしは、周囲に気づかれぬようカップを口元に運び、小さく息を吐いた。


 ──そして、視線の先には。


 クラリス様。


 カップ越しに、そっとそのお姿を伺う。


 ヴィステリア夫人の言葉を聞いているのか、いないのか。

 クラリス様は微動だにせず、完璧な無表情のまま。

 ただ、ときおりお茶に手を伸ばされるのを見る限り、生きてはいらっしゃるようだった。


 ──本当に、美しい方……


 そのお姿は、わたくしが大切にしていたお人形にそっくりだった。

 どこまでも整った容貌に、欠けたところのひとつも見当たらない。

 けれど、お人形がこちらに応えないように、クラリス様もまた、無言の美そのものだった。





「……ですから一度、子どもたちの舞を披露する場を設けてはいかがかと」


 ──え?


 思考の海に沈みかけていたわたくしの耳に、唐突にその提案が届いた。


 良からぬものを聞いてしまった、という確信とともに、心の中で盛大な悲鳴を上げる。


 ヴィステリア夫人は、どうやらディアナ様の舞の腕前を、王太子妃殿下に披露したいらしい。

 そのために、三人の公爵令嬢──ディアナ様、クラリス様、そしてわたくし──が、舞を見せる場を設けるべきだ、と。


 ──冗談では、ございませんわ……


 お恥ずかしい話だが、わたくしは芸事のたぐいが得意ではなかった。

 ホーソン家は芸術の家系だが、それはあくまで絵画や彫刻といった“静の美”を極めるものであって、舞や音楽など、“動の美”にはあまり重きを置いていない。


 おそらく、ディアナ様の舞の技術は本物なのだろう。

 自信満々に笑う夫人の態度が、それを物語っていた。

 アレクシス様の婚約者にふさわしいと、堂々と主張したいのだ。


 ……つまり、これは見せ場ではなく、ただの試練だ。


 わたくしはちらりとお母様を見上げた。

 けれど、お母様はわたくしに目を向けることもなく、ただ静かに微笑んでいらした。


 ──助けては、くださらない。


 わたくしは、そっとため息をついた。


 王太子妃殿下が、ゆるやかに視線をめぐらせ、わたくしたち三人の顔を順に見渡される。


 ディアナ様は、母君の提案に微笑みを浮かべていたが──その目元には、わずかな戸惑いの色も見えた。

 どうやら、ご自身の実力を誇示することには、さほど興味がないらしい。

 その点では、ヴィステリア夫人とは正反対のお人柄なのだろう。


 クラリス様はというと、相変わらず無表情のまま。

 背筋を伸ばし、ただ静かに、そこに“在る”というだけで、完璧だった。


 わたくしもまた、公爵令嬢としての礼節を守るべく、笑顔を浮かべた。

 ──けれど、おそらく。

 眉間に寄ったわずかなシワは、王太子妃殿下には見破られていたと思う。


 妃殿下は、わたくしたちに向かって、にこやかに告げられた。


「余興としては、面白いかもしれませんね」 


 ──ああ。


 その優しい声色で、提案を肯定された瞬間。

 わたくしの心は、そっと崩れた。




 結局、わたくしたちは王宮にある舞の練習場に移動し、舞を披露することになった。


 そこは、王家の方々も若き日に舞の稽古を重ねたという、由緒ある一室。

 淡い金と白で彩られた壁面には、美しい神々の舞を描いた壁画が並び、天井には大きなシャンデリアが吊るされている。

 艶やかな木床には一筋の傷もなく、踏み出す足音すら品位を問われるような、張りつめた空気が漂っていた。


 曲目を決めるにあたり、王太子妃殿下とヴィステリア夫人が、少し離れたところで静かに言葉を交わす。


 音楽担当の奏者に渡されたのは、古くから王宮の儀式で用いられる舞曲──

 《月下のメヌエット》と呼ばれる、ゆったりとした三拍子の旋律だった。

 その舞は、ただ優雅なだけでなく、ステップの正確さと上体の柔らかな制御が求められる難易度の高い演目である。


「それでよろしいかしら、クラリス、レティシア」


 王太子妃殿下がこちらへと向き直り、柔らかな微笑とともにお尋ねになる。


 ──よりにもよって、わたくしが最も苦手とする演目だった。


 曲の旋律が耳に入った瞬間、わたくしの心臓が小さく跳ねた。

 それでも、クラリス様は迷いのかけらも見せず、静かに一礼し、頷かれた。


 そして、わたくしが戸惑っているのもつかの間──


「ええ、妃殿下」


 わたくしの母が、わたくしの返答より先に頷いた。

 お母様が──妃殿下に否などと言うはずもない。


 ……わたくしに、決定権はなかった。




 舞を最初に披露したのはディアナ様だった。


 彼女は静かに立ち上がると、スカートの裾を一礼にあわせて美しく揺らす。

 そして、優雅な旋律が流れ出すと、迷いなくステップを踏み出された。


 その足取りは軽やかで、回転のひとつひとつに、訓練された精度が宿っている。

 所作は美しく、姿勢も見事。誰が見ても、非の打ち所などない舞だった。


 ──さすが、ヴィステリア夫人が妃殿下に見せたがるだけのことはある。


 その完成された舞に、わたくしは思わず見惚れてしまった。

 ……けれど、すぐに現実へと引き戻される。


「それではレティシア様、どうぞ」


 ヴィステリア夫人の声に、我に返る。

 彼女をそっと見上げたとき、その笑みに浮かんだものを、わたくしは見逃さなかった。


 ──それは、わたくしを見下す、獰猛な勝者の微笑だった。


 ああ、これからわたくしは、ただの見世物になるのだ。

 ディアナ様を引き立てるための、引き算の役として舞台に立たされる。


 お母様は、こちらを見ようともしない。

 ならば、これは甘んじて受けるしかないのだろう。

 ここを乗り切れば、それで済むのだ──


 わたくしは覚悟を決めて、一歩を踏み出した。




 ──そのときだった。


 わたくしの前に、ふわりと人影が差し込んだ。

 すっと、誰かがわたくしの前に立つ。そして、そっと手を差し伸べてきた。


「──よろしければ、ご一緒させていただけませんか」


 ……クラリス様だった。


 何のためらいもなく、まっすぐに差し伸べられた手。

 その意味を測りかねて、わたくしはその手とお顔を、交互に見つめる。


「ちょっと、クラリス様──」


 ヴィステリア夫人が、苛立ちを隠しきれない声で抗議の言葉を発する。

 けれど、クラリス様はそれに答えることなく、ゆっくりと夫人に視線を向けた。


 その瞳には、怒りも、苛立ちも、慈悲もない。


 ただ、氷のように澄んだ、感情の色を映さぬ光が宿っていた。


 ──それなのに、その視線だけで。


 ヴィステリア夫人は言葉を失った。

 五歳の少女の視線に、数々の社交をくぐり抜けてきた貴婦人が、押し黙らされたのだ。


「クラリス。どうしたのですか」


 王太子妃殿下が、場を和らげるように声をかける。


 クラリス様は、その視線の強さをすっとほどいてから、妃殿下へ向き直られた。


「わたくしもレティシア様も、おそらくディアナ様ほど上手に舞えません。ですから──せめて、ご一緒させていただければと」


 その声音はあくまで穏やかで、控えめだった。

 けれど、その言葉が持つ意味は明白だった。


 ディアナ様と比較されれば、わたくしたちはきっと見劣りする。

 ならば、共に舞うことで、比較の舞台を変える。

 それは、ただの思いつきではなく──場を掌握した上での、完璧な“返し”だった。


 クラリス様の視線の呪縛から解き放たれたヴィステリア夫人も、「……そういうことであれば」と、しぶしぶながらも頷いた。

 その表情には、勝ち誇っていたときの余裕など、もはや残っていなかった。


 わたくしはホッとすると同時に、少し不安になった。


 《月下のメヌエット》は、本来一人で舞うことを前提とした舞曲であり、二人で舞う構成など習ったことがなかった。

 優雅でありながら緩急が多く、ほんの一瞬タイミングを間違えただけで、全体の調和が崩れてしまうような、繊細な舞だ。

 それを、息を合わせたことのない方と、即興で舞うなど──本来、無謀に近い。

 まして、相手はクラリス様。完璧で、孤高の舞姫のようなその方と、わたくしが並んで舞うなど、本当に許されることなのだろうか……


 けれど、そんなわたくしの不安を払うように。

 クラリス様のこちらに向けられる視線は、確かで、揺るぎなかった。


「レティシア様──わたくしに、合わせていただけますか?」


 その声は静かで、けれど、どこまでも真っ直ぐだった。


 わたくしは戸惑いながらも、その手を取った。


 その瞬間──指先から伝わる温もりに、胸の奥で何かがふわりとほどけた気がした。




 音楽が流れ出す。

 《月下のメヌエット》──月の光のように静かで、けれど一歩間違えば全体の調和が崩れる、繊細な舞曲。


 クラリス様は、わたくしの手を軽く取ると、ほとんど合図もなく、一歩を踏み出された。

 けれど、まるで最初から決められていたかのように、わたくしの足も自然とその後を追っていた。


 ごく静かな足音。ドレスの裾がふわりと揺れ、光を帯びたように広がっていく。

 二人の舞は、競うでも、寄り添うでもない。ただ、互いの影を踏まずに、同じ光を分け合う舞だった。


 まるで、音楽の方がわたくしたちに合わせて流れているかのような、不思議な錯覚さえあった。


 わたくしは舞いながら、胸の中は驚きでいっぱいだった。


 ──見劣りするって、誰が……


 クラリス様の舞は──完璧だった。


 先ほど、わたくしが見惚れたディアナ様の舞も、確かに素晴らしかった。


 けれど、この舞は──クラリス様の舞は、とても五歳の少女のものとは思えなかった。


 静謐で、精緻で、圧倒的。

 それでいて──気高く、揺るぎない。


 クラリス様越しに、王太子妃殿下やお母様、ヴィステリア夫人やディアナ様の顔が見える。


 王太子妃殿下とお母様の表情は変わらない。ふたりとも、優雅に微笑んでいる。

 けれどその目は、真剣にこちらを見つめる光を帯びていた。


 ディアナ様は、頬を紅潮させながら、こちらをじっと見つめている。

 同じ舞を嗜むものとして、クラリス様の舞は、きっと理想そのものなのだろう。

 その目が潤んでいるのが、わたくしにもわかった。


 ヴィステリア夫人は──


 ……扇で口元を隠してはいるが、その目は恐ろしいほどに険しい。

 まるで、親の敵でも見るかのような──

 あるいは、自身の“誇り”そのものを踏みにじられた者の目だった。


 その視線に胸の奥が冷えるのを感じ、わたくしは目を逸らした。


 視線を戻した先には、わたくしとともに舞うクラリス様の横顔があった。 


 ──本当に、お綺麗……


 白磁のような肌に、つややかな黒髪がふわりと揺れる。

 紫紺の瞳が、宝石のように輝きながら、わたくしを見つめていた。


 その目に──わたくしは、胸の高鳴りを覚える。


 ──何かしら、この感覚は。 


 それは初めて抱く感情だった。


 少しの不安と、それを遥かに上回る、眩しいほどの高揚。


 クラリス様と舞うことで、わたくしもまるで、この曲が得意かのように舞えていた。


 もちろん、ディアナ様の足元にも及ばないだろう。

 けれど、クラリス様のリードにより──


 わたくしは、どこまでも高みに昇れるような、そんな気がした。




 舞が終わると、クラリス様とわたくしは、周りに向かって礼をした。


 王太子妃殿下をはじめ、見守っていた方々から惜しみない拍手が送られる。

 その音のなかには、従者たちの手を叩く小さな音さえ混じっていた。


 それはきっと、クラリス様の見事な舞に対する賞賛だったのだろう。

 けれど、どうしてかわたくしも、胸がじんと熱くなっていた。


 拍手の音に包まれながら、心のどこかで思っていた。


 ──わたくしは、確かにここにいたのだと。


 クラリス様のおかげで。

 この状況下でも、自分を恥じることなく、俯くことなく、前を向けた。

 そしてクラリス様と……この完璧な少女と、同じ舞台で、時を重ねることができた。


 その感動に、わたくしの心は張り裂けそうだった。


 ──しかし。

 ただ一人、ヴィステリア夫人が。

 鋭く、厳しい視線をわたくしたちに向けていた。


「……素晴らしい舞でしたわね、クラリス様、レティシア様」


 口元は笑っていたが、その声には冷たい棘があった。

 その言葉の裏に潜むものを感じ取って、わたくしは思わず身をすくめる。


 自分の娘を王太子妃殿下に印象づけようとしていた、その目論見をわたくしたちが打ち砕いたのだ。

 その行動が、どれほど彼女の誇りを傷つけたか──想像に難くなかった。


「──ですが、クラリス様は、どうにも型を崩す癖がついていらっしゃるようで」


 夫人は扇で口元を隠した。

 けれど、わたくしには──その奥で嘲るように歪んだ笑みが浮かんでいるのが、はっきりと見える気がした。


「本来お一人で舞うはずの曲を、レティシア様と並んで舞われるなど……きっとお母様のもとで正しい舞の作法を学べなかったからでしょうね。……あら、余計なことを申し上げてしまいましたわ」


 その瞬間、わたくしは目を見開いた。


 ──なんてことを……!


 クラリス様の母君──セレナ・エヴァレット様は、昨年この世を去られた。

 それを知っていながら、あえて“母がいない”ことを持ち出すなど……


「お、お母様……!」


 ディアナ様も青ざめた顔で、必死に母君を止めようと声を上げた。

 けれどヴィステリア夫人は、その声すらも取るに足らぬものとするかのように、扇をふわりと一振りしただけだった。


 その仕草は優雅に見えて、あまりにも冷淡だった。


 わたくしは、そっとクラリス様を振り返る。


 その表情は──変わらなかった。


 それでも、わかった。……わかって、しまった。


 クラリス様は、今──確かに、傷ついていらっしゃる。


 だって、舞の後からずっと握られていたその手に、ほんのわずかに、力がこもったのが伝わったから。


 ああ──この方は、生きている。血の通った、人間なのだ。


 あまりに美しく、完璧で、孤高で──

 どこか遠い世界にいるような存在だったその方が、今ここに、わたくしの隣にいて、確かに感情を揺らしている。


 そのことが、わたくしにはどうしようもなく嬉しくて。

 そして、どうしようもなく、切なかった。


「クラリス」


 わたくしが、胸の奥から溢れ出しそうな感情に呑み込まれそうになった、そのとき。


 練習場に凛と響いた澄んだ声。


 ──王太子妃殿下だった。


 気がつくと、妃殿下はクラリス様のすぐ前に立っておられた。

 そのお顔には、慈しみに満ちた微笑みが浮かんでいる。


 「慈愛の花妃」──

 人々がそう呼ぶのも、納得の優しさが、そこにあった。


「とても素晴らしい舞でしたわ。……わたくしにも、教えてくださるかしら?」


 妃殿下のその一言に、場の空気がまた変わる。


 ヴィステリア夫人が息を呑んだのが、わたくしにもはっきりわかった。

 その顔色は、赤くなったかと思えば青ざめ、まるで色を定められないままだった。


 わたくしは、そっとクラリス様を見上げた。


 クラリス様の表情は──やはり変わらない。


 けれど。


 その手が、わたくしの手を握る力が……ほんの少し、緩んだ。


 それだけで、わたくしの中に何かが灯った。


 ──勇気。

 小さな、小さな灯火。


「わ、わたくしも……クラリス様に、舞を教えていただきたいです!」 


 自分でも驚くほど、大きな声だった。

 練習場に反響するのではないかと思うほど、はっきりと、通る声で。


 慌てて、わたくしは片手で自分の口を覆った。

 顔が熱い。声が震えていなかったことが、逆に怖いくらいだった。


 クラリス様の視線が、わたくしに向けられる。


 その表情は──やはり変わらなかった。


 でも、その瞳が。


 紫紺の、美しいその瞳が──


 ほんの少しだけ、細められたような気がした。


 それだけで、胸がいっぱいになった。




 それから──


 わたくしは、クラリス様について調べた。

 エヴァレット家について。クラリス様の育ちや経歴、好きな色、読まれている書物まで──


 クラリス様のすべてを、わたくしは知りたかった。知ろうとした。


 ホーソン家は、王家に忠誠を誓う家だ。

 それは誇りであり、血に刻まれた掟であり、絶対だった。


 ──けれど。


 わたくしは、見つけてしまったのだ。


 わたくしの、太陽を。


 もう、クラリス様のことしか考えられなかった。

 この胸の高鳴りは恋ではなく、憧れでもなく──


 ただひとつ、敬愛と忠誠だった。


 クラリス様を、主と仰ぎたい。

 この方の傍らで、その道を照らしたい。


 そんなことをお父様やお母様に言えば、きっと叱られる。

 笑われるかもしれない。相手は筆頭公爵家の令嬢、そしてわたくしは王家に仕える家の娘。


 ……それでも。


 それでも、やはり、わたくしはホーソン家の人間なのだ。


 忠誠を捧げるということの意味を──

 このとき、わたくしは初めて、自分の血で理解した。


 わたくしはホーソン家に生まれながら、王家ではなく、ただ一人の少女に“忠誠”を誓ってしまった。

 だが、そうして初めて、ホーソン家が掲げる“忠誠”の本当の意味を知ったのだ。


 これは──“信仰”。

 魂を差し出すほどの、絶対の誓い。




 わたくしはその“信仰”を、水面下で続けた。


 けれど、お母様には気づかれていたようで──

 お母様は、決してそれを咎めることなく、止めることもなかった。

 ただ、ある日、そっとこう言ったのだった。


「ホーソン家の忠誠は、王家に捧げられるべきです」


 その言葉に、わたくしはぎくりとし、思わず息をのんだ。

 ──否定される。そう思った。けれど。


 お母様は、微笑んでいた。とても穏やかに、わたくしの顔を見つめて。


「ですが──心に決めた“主”が、王家の者でなかった場合、どうするべきかしら?」


 そう言って、お母様は一枚の絵をわたくしの前に差し出した。


 そこに描かれていたのは──

 若き日の王太子殿下と、妃殿下の姿。おそらく、学園時代のものだろう。


 お二人は、王国建国の伝説劇「エルデンローゼの誓い」に登場する、初代国王エルヴィン様と、初代王妃ローゼリア様の衣装をお召しになっていた。


「これは──?」

「学園祭での姿絵です。王太子殿下と妃殿下が、劇を演じられたときのものです」


 わたくしは顔を上げた。

 お母様は、その絵を見つめながら、誇らしげに微笑んでいた。


「お二人は婚約者同士でありながら、衝突することが多く……周囲からは、婚約解消も時間の問題だと囁かれておりました」


 確かに──お母様は王太子殿下と妃殿下のご学友だったはず。

 そして、ホーソン家の直系であり、舞台芸術にも深く通じておられる方。


「……まさか、お母様……」


 わたくしが震える声でそう尋ねると、お母様はさらに穏やかに笑っておっしゃった。


「わたくしは──なかなか素直になれないお二人を、ほんの少し、後押ししただけですよ」


 お母様の指先が、そっと絵の中の妃殿下の輪郭をなぞる。


 その仕草は、まるで祈るようで。

 慈しむようで。

 そして、敬愛を捧げる信者のようでもあった。


「──“主”が王家の者でないのなら。その方を、王家の座へお連れすればよいのです」


 わたくしは、その言葉に──雷に打たれたような衝撃を受けた。


 お母様の奥に秘めていた情熱に圧倒される一方で、

 自分もまた、それができるかもしれないという高揚感に包まれていた。




 わたくしの“信仰”は、ここで芽吹いた。


 ──五歳の、あのとき。あの場所で。




 一の月が巡ったころ──


 クラリス様は、現王太子殿下のご子息、アレクシス様の婚約者に選ばれた。


 その報せを聞いたとき、わたくしの胸は静かに震えた。


 ──これは奇跡ではない。わたくしの“主”は、当然のように王妃の座へ近づいているのだ。


 とはいえ、まだ確定ではない。だからこそ、わたくしにはそれを確かなものにする責務がある。

 わたくしの信仰は、主を王冠へと導くことで初めて完成するのだから。


 ──いずれ、あなたがこの国の王妃となる日まで。

 わたくしは、ずっとお傍で見守っておりますわ、クラリス様──


 わたくしの太陽にして、永遠の主よ。


こんにちは。

今回は『完全無欠の悪役令嬢はポンコツヒロインをほうっておけない』のスピンオフ短編です。


本編でサブキャラのレティシアが、主人公クラリスとどのように出会い、なぜ“こじらせて”しまったのか──その始まりを描きました。

本編既読の方には補完エピソードとして、未読の方にも単独で楽しんでいただけます。


楽しんでいただけたら嬉しいです。

※本編『完全無欠の悪役令嬢はポンコツヒロインをほうっておけない』は〈火・金〉19:00更新です(ページ欄外の「本編はこちら」から飛べます)。

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