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終日、最果てにて

作者: 千歳叶

 雲一つない青空、爽やかな風が草原を揺らす。少年は鞄を抱え直し、緑の大地を駆けた。

 空色と緑色ばかりの世界。ひたすら走っていると、突如として灰色の小屋が目に入る。蔦の這う古びた扉を、少年が躊躇なく開け放った。


「主様、ただいま戻りました」


 光の差さない地下室から、少年の主が姿を見せる。艶やかな黒髪は毛先へ近づくにつれて色素を失い、室内灯の光を受けて白銀に輝く。黒い睫毛に縁取られた瞳は濃厚な蜂蜜色。少年とは似ても似つかぬ姿形のその人は、これまた全く別物の声で彼を迎え入れた。


「おかえりなさい、(すすき)。今日は楽しめた?」

「いつも通りです。薬の売り上げはほぼ昨日と変わらず。……ただ足を痛めた方がいらして、痛み止めが多く売れました」


 もはや恒例となった質問に、少年――芒は表情一つ変えず返答する。彼がこう答えると、主は決まって困ったような顔をするのだ。


「主様?」

「……なんでもないの、気にしないで」


 このやり取りも、もはやお決まりのもの。主人に「気にするな」と言われてしまえばそれ以上追及するわけにもいかず、芒は毎回口を閉ざすのだ。

 そうだ、と主が話題を変える。今日の夕食を芒に決めさせるのも、普段と何ら変わりない。だから彼もいつものように答えた。


「主様がお好きなものを」

「たまにはリクエストしてくれてもいいと思うのだけど」


 肩をすくめて言われる言葉だって、毎日毎日変わらない。その不変を、芒は安堵と共に受け入れる。


 芒が主と出会ったとき――みすぼらしい子供が「芒みたいな髪ね」と言われ、同じ名をつけられたとき。彼女は確かにこう言ったのだ。


『あなたが楽しい日々を送れるようになるまで、私の世話をしてほしいの』


 主となった女性は、罪悪感を全面に押し出しながら笑う。ふざけるな――あのとき、芒は確かにそう思った。


 自分から今までの世界を奪っておきながら、ようやく掴みかけた絶命(すくい)を遠ざけておきながら、平然と「楽しい日々」などと口にするとはどういう了見だ。


『……承知、いたしました。主様』


 少年は決意した。残りの人生をこの主人に使おう。そしていつまでも消えない傷になってやろう、と。自分の閉ざされかけた人生をこじ開けてきたのだから、こちらが一つばかり傷をつけても構わないはずだ。


「――き、芒」


 はたと我に返った。過去に浸るあまり主の呼びかけを無視していたらしい。姿勢を正して謝罪する。


「申し訳ありません、無礼を……」

「それはいいの。ただ具合が悪いなら少し休みなさい? あなたは我慢しすぎるから心配よ」


 眉を下げた主は、くるりと芒に背を向けてキッチンへと向かう。時折耳に届く単語は夕飯の献立だろうか。聞き馴染みのないそれらは彼女の生まれ故郷の名物らしい。しばしば食卓に並ぶ料理を、芒は好きになれなかった。


 芒をぐちゃぐちゃにかき乱しておきながら、自分はあっさり故郷に戻るつもりではないのか。ひょいと拾い上げたのだから、最後まで責任を取ってもらわねば。


「……あなたに消えない傷を遺すまで、捨てさせやしませんよ」


 芒と主以外誰もいないこの小屋が、自分にとっての棺桶。そんな空想に、少年はふっと笑みをこぼした。


――――――


 食卓に料理が並べられていく。主好みの――芒からすると気に食わない――献立を一通り置き終え、芒は主人が席につくのを見届けてから椅子に座った。


「それじゃあ、食べましょうか」


 いただきます。食前に呟くこの言葉も、手を合わせる動作も、主が芒に教えたものだ。


 なるべく音を立てないようにカトラリーを動かしながら、芒は薬の在庫状況を主に報告する。食事の片手間に報告をするのは、ひとえに主の夜型人間っぷりが理由に他ならない。きっと今日も、芒が寝入った後でどうにかして薬を調合するのだろう。

 求める客に売った分と、日数が経過して薬効が落ちてきた分。それぞれを報告し、芒は食事に集中した。


 味が嫌いなわけではないし、主の料理が下手なわけでもない。それでも、芒がこの料理を好むことはないだろう。こぼれそうになったため息を野菜と共に飲み込む。


 気づけば皿の上は空になっていて、正面の主は水を飲んでいた。真似をするようにグラスの水を喉へ流し込み、自分の使った皿を持って立ち上がる。後片付けは芒の仕事だ。


「一つお聞きしてもよろしいでしょうか」


 洗った皿についた水滴を拭いながら口を開く。無言ではあるものの主が耳を傾ける仕草を見せたので、そのまま言葉を紡いだ。


「主様は、(うつろ)、というものをご存知ですか」


 何かがあったわけではない。単純に、薬を売りに向かった先で耳にした言葉が気になっただけだ。しかし、芒がその単語を口にした瞬間――主の雰囲気が一変した。


「どこでそんなものを聞いたの」

「……え?」


 目を瞬かせる芒に、主は再び「どこで聞いたの」と追及の手を向ける。


「街の方々が話しているのを耳にして……すみません」


 何か、主の気分を害する話だったのだろうか。不安と共に主の言葉を待つ。


「――いいえ、知らないならいいの。気にしないで」


 しかし、主は緩く首を振って口を閉ざしてしまった。主が「気にするな」と言った以上、芒に何かを問う権利はない。少年は黙って食器の片付けに戻った。しかし思考は先ほどの話に囚われ続けている。


 何事にも態度を変えず、常に聖人じみた空気を纏う主が、唯一「虚」という言葉にだけ感情を顕にした。その感情がどういうものなのか、今の芒にはわからない。わからないなりに、どうしようもなく気になった。気になってしまった。


「……うつろ、か」


 主の耳に届かぬよう、芒は低く小さな声で呟く。あの女の本性を暴くにはまたとない機会かもしれない。少年はほくそ笑んだ。


 謎多き「聖人」の化けの皮を、この手で剥いでやる。そうして残った本性に、芒の存在はどれだけの影響を及ぼしているのだろうか。知りたいし、自分には知る権利がある――芒は内心で声を張り上げた。

 そうと決まれば策を練らねばならない。闇雲に首を突っ込んでも、主の不興を買うだけだろう。芒は家事を済ませ、自分に割り当てられた部屋へと戻った。


 ぼす、とベッドに横たわる。暗闇に包まれた天井を見上げるのも退屈で、すぐに目を閉じた。ゆらゆらと夢現をたゆたう意識の中で、街の人々に聞いてみるか、と思案し――暗転。


――――――


 目を覚ました芒は、さっそく街の者たちへ聞き込みをしようと支度を始めた。

 主手製の薬を街で売りさばくのは週に一度――今週はちょうど昨日――のみ。芒が連続で出かけることはめったにないため、黙って外出すれば勘のいい主に疑われる可能性もある。故に、芒は書き置きを残した。


『売上金を管理するための鞄が壊れかけているので、修理に行きます。夕方までには戻ります』


 鞄が壊れかけているのは本当のことだ。だが、既に予備の鞄を準備してある。今日急いで修理する理由はないが、きっと主は知らないだろう。

 かすれたインクで署名を残し――覚えていたらペンも買って帰ろう、と思いながら――立ち上がる。小ぶりの鞄を手にして、芒は草原を駆け抜けた。


 どこまでも続いていそうな青空と草原にも、終わりはある。しばらく走っていた芒は、その「終わり」を視界の端に捉えていた。――木製の、古びた大門。重々しく見えるそれが案外簡単に開け放たれることも、芒はとうに知っている。

 ギイ、と音を立てて門を開く。その向こうには石畳が敷かれ、家々や屋台が連なっている。主と芒の暮らす世界とは異なる、人々が活動する世界だ。


 一歩踏み出し、芒も雑踏の一員となった。ちらちらと向けられる視線は、彼を「部外者」だと勘ぐるものではない。そこに込められた真の意味など、芒には何の価値もないものだ。敵視されていないのであれば、それでいい。

 歩き慣れた道を進んでいると、馴染みの商店が目に入った。昨日も訪れたそこが、今日の情報収集の場である。綺麗に整備された扉に手をかけ、芒は「すみません」と声を発す。途端、店内から豪快な男の声が聞こえてきた。


「おっ、薬師さんじゃねぇか! 今日も来てくれるなんてどうしたんだ?」

「驚かせてしまったのならすみません。お邪魔なようでしたら退散しますが」


 淡々と返すと、店主の男は大きな身振りで芒の言葉を否定する。薬師さんなら大歓迎だよ、と笑う彼に、芒も笑みを作った。


「まさか今日も薬売りかい? そんなに働いたら身体壊しちまうよ!」


 この男を始め、街の人間は芒が薬の製作者だと思い込んでいる。先ほどの「働きすぎ」というような評価もその思い込みから来ていた。芒は誤解を与えていることに気づきつつも、それを否定することはない。真の製作者――主の存在を知る人間がいないのは好都合なのだ。


 主と自分の関係性を、二人だけの棺桶(せかい)を知る者など不要だ――芒は本気で、心の奥底からそう信じていた。


 それはそうと、今日はこの店主に聞きたいことがある。世間話を軽くこなし、芒は本題に入った。


「つかぬことをお伺いしますが、店主さんは『虚』というものを耳にしたことがありますか?」

「ウツロ? ……いやぁ、聞いたことねぇな」


 男はガシガシと頭を掻きながら首を捻る。その様子からして「虚」を知らないのは本当のようだ。芒は「そうですか」と軽く頷いた。


「すみません、突然変なことをお伺いしてしまって」

「それはいいんだけどな、その『ウツロ』ってのは薬師さんにとって大切な何かかい?」


 どうせなら他の連中にも聞いてみるけどよ、と店主はこともなげに言う。芒は思案するも、すぐに「……いえ」と断りを入れた。


「自分もどこかで耳にしただけの言葉で、詳しいことは何もわからないのです。お気になさらず」


 嘘ではない。芒にとっては「聞いたことがある」程度の言葉だ。わざわざ街に出向いてまで尋ねようと思ったのは、ひとえに主が気にしていたから、ただそれだけ。


 収穫なしと断じ、芒は店を後にした。通りを歩きながらも、考えることは先ほどと同じく「虚」のこと。


 客の多い店の長でも知らない情報を得るには――書物をあたるか、どこかで噂話に耳をそばだてるか。前者は「虚」が何を指す言葉かもわからない状態では総当たり的に本を閲覧しなければならない。とはいえ後者も、誰かが噂をすることに賭けた不安定な策である。


「どうしたものかな……」


 思わず独り言を漏らしてしまう。芒一人の呟く声など喧騒に紛れて誰の耳にも届かないだろうが、どことなく気まずくなり、そそくさとその場を離れた。


――――――


 半日かけてあちこちを調べて回ったものの、手がかりとなりえそうな情報は皆無。全身にまとわりつく疲労感は、肉体の疲労よりも精神の疲労を強く訴えている。


 ここから一歩も動きたくないのが芒の本心だ。しかしもうすぐ夕方の鐘が鳴る時刻。主を心配――自分がいない間に姿を消しているのではないか、と――し、のろのろと足を動かす。

 家路につく人々の流れを遮るように進む。どこかから聞こえてくる子供の笑い声が、妙に突き刺さるような気がした。


 じわじわと明るさを失いつつある草原は、見慣れているはずなのにどこか冷え冷えとした不安感を運んでくる。芒は無意識に身を震わせた。


「ただいま戻りました」


 主の根城へ帰った芒を待ち受けていたのは、しんと静まり返り、人の気配の消えた部屋。芒の脳内を嫌な想像が駆け巡り、いてもたってもいられず「主様?」と声を上げる。発した声が部屋中に吸い込まれるように消えても、反応は何一つなかった。


「主様……ッ」


 自分を置いてどこへ消えたのだ。許せない、認めるわけがない。怒りと焦燥と、自覚できない恐怖に支配され、普段の芒なら絶対にしない蛮行――主の部屋へ伺いを立てずに踏み込む――を決断させた。


 バン、と荒々しい音を立てて地下室の扉を開く。その先にあったのは、うずくまり頭を抱える主の姿だった。


「あるじ、さ……」


 慌てて呼びかけようとしてどうにか思いとどまる。世間には天候の変化で体調を崩す症状があり、ひどいときには微弱な刺激でも苦痛に感じることがあるのだと、芒は十二分に知っていたからだ。

 囁きよりもかすかな声で「主様」と空気を震わす。すると主は緩慢に頭を持ち上げた。


「……」


 しかしそれ以上の反応はなく、蜂蜜色の瞳が芒に向けられることもない。ぼんやりと宙を見つめる主の肩を、ほんのわずかな力で掴む。


「どこか痛みますか?」


 問いかけが空気に消えても、主は何も答えない。彼女にしかわからない苦しみを少しでも理解したい一心で、芒はじっとその場に佇むことを決める。

 どのくらいの時間が経過したのか――不意に、主と目が合った。掠れてほとんど吐息でしかない声が「すす、き」と紡ぐ。


「はい。何か薬をお持ちしましょうか」

「……いらない。早く出ていって」


 主の震える指が扉を指した。芒は気づかなかったフリをして、もう一度必要なものがないか問いかける。しかし黙ったまま首を左右に振られてしまい、どうすることもできない。


「ちゃんと、後で説明するから。……お願い」


 絞り出すような声でそう頼まれてしまえば、先ほどの選択肢は消える。どれだけ気になったとしても、芒には主が本気で望むことを拒むことはできないのだ。

 芒は小さく頭を下げ、少しでも彼女を刺激しないよう静かに部屋を辞した。


――――――


 チク、タク。秒針の音だけが室内を満たす。芒は何をするわけでもなく、ただ漫然と主が顔を見せるのを待っていた。すっかり窓の外が暗闇に包まれているものの、カーテンを閉めるために立ち上がることさえ億劫だ。

 ぐうと鳴いた腹の虫にさえ構うことなく主を待ち続けていると――とうとう地下室から主の足音が聞こえてきた。


「……手を煩わせてごめんなさい、芒」


 姿を現した主が発したのは、感情のない、ひどく冷め切った声。主は普段から感情豊かな人ではないものの、芒がここまで冷たい声を聞いたのは初めてのことだ。無意識に背筋が伸びて、ぎくりと一瞬硬直した。


「まさか芒に見つかってしまうなんて思わなかった」


 抑揚のない声が、表情の失せた顔が、芒に向けられる。それらは彼が人生で一度も――それこそ主に拾われる前でさえ――見たことがないものだった。

 今の状態の主に呼びかけることさえ躊躇われて、芒は彼女が説明を始めるのを黙って待つ。無表情の主が椅子にもたれた芒の正面に腰掛ける。


「……これが、あなたの知りたがっていた『虚』そのもの。どう、失望した?」


 主は歪な笑みを浮かべると、つらつらと言葉を並べ始めた。

 感情が消え失せ、何をするにも苦痛がつきまとう状態――それを、主の故郷では「虚」と呼ぶらしい。


「私の生まれ育った国だと『虚』を持つ人間は忌避される。だからこの国まで逃げてきたわけだけど……」


 ちらり、一瞬主が芒を見やる。そこには何の感情もない。プラスの感情はおろか、怒りや悲しみといったマイナスの感情さえ何一つ見えない――まさに「無」そのものだ。


「まさか、逃げた先で拾いものをするとは。考えてもみなかったわ」

「……なぜ、自分を拾ったのですか。名前をつけた上に『楽しい日々を送れるように』と外での仕事まで任せて」


 芒の問いかけに、主は小さく首を傾げる。まるで「考えたこともなかった」と言いたげな所作を見せ、しばし沈黙して口を開いた。


「そこに落ちてたから……? もしかしたら、誰かに手を差し伸べることで自分を肯定したかったのかも」


 あなたにはいい迷惑だったかもしれないわね。主は自嘲する。確かに芒は「気まぐれで拾って何のつもりだ」と思っていたが、今の主にどうこう考えてほしいわけではない。むしろ今は、なぜ芒を遠ざけるのか――それが知りたいのだ。


「主様は、自分を肯定するために手を差し伸べる、と。それなら……」


 言葉を止める。これから紡ぐ言葉は、主の気に障るものかもしれない。今すぐにここを出て行けと言われるかもしれない不安が、暗雲のように芒の心を覆う。


 それでも口を動かすことを決めた。それは主に対する信頼故のものではなく――自分が同じことするのは何ら間違ったことではないだろう、という無意識の傲慢にも近い感情によるもの。


「――おれがおれ自身を肯定するために、あなたへ手を差し伸べても構いませんよね?」


 芒は歌うように告げながら、主へ手を差し出す。呆気にとられた様子の彼女がこの手を取らないことはわかっていた。それでも手を引っ込めることはしない。


 故郷からも遠ざかり、誰にも知られぬよう苦痛を耐え忍んでいたこの人を、自分が救ったって構わないはずだ。身勝手で傲慢な感情をぶつけ合い、二人で生きて、死んでいきたい。


 さまざまな思惑を薄い笑みの裏に隠し、芒は主の反応を待った。


――――――


 芒が手を差し出してから数分。いまだ主からの反応は何一つない。

 この数分間で主がどんな反応をするのかを想像してみたものの、どの反応もありうるようにも思えるし、どの反応も当てはまらないようにも思える。固唾を飲んで動向を見守っていると、とうとう主が動きを見せた。


「……私なんかに手を貸したら、後悔すると思うのだけど」


 震え掠れた声が吐き出す。だが、芒が聞きたいのはそんな言葉ではない。


「おれが聞きたいのは、あなたがこの手を取るか否か。それ以外の言葉は不要です」


 冷たく突き放しながらも、芒は手を差し伸べた姿勢を保ったままでいる。それでも返ってこない応えに、やや声音を和らげて「どうしますか?」と問いかけるように催促した。


「……私がその手を取ることで、あなたが満足するのであれば」


 ようやく返ってきた答えは満点とは言いがたい。しかし及第点ではあるだろう、と芒は大きく頷いた。


「いいでしょう、今はそれを答えとして受け取ります」

「でも、どうしてこんなことを……」


 主が躊躇いがちに言葉を紡ぐ。不安そうなわからず屋のために、芒は緩く首を振りながら口を開いた。


「主様は自分のためにおれを拾い、おれは自分のために主様に手を差し伸べるのです。平等でしょう?」


 目の前で震えるひとがいつも浮かべているような優しげな笑みを、芒は作ったことがない。それでもできる限り柔らかい表情を意識して、感情が抜け落ちたような主に笑いかけた。


「あなたが『虚』に苦しむなら、その苦しみを和らげたい。……本当は『虚』を消すことが最善ですが、今のおれには知識が足りないから」


 一緒に探しましょう、と提案する。これが、芒が主に差し出す「救い」だ。

 得体の知れない、ヒトですらない「虚」などに自分たちの楽園(せかい)を壊されてたまるか。怒りにも似た感情が芒の内側を満たして、今にも溢れそうになっていた。


 しかし、今の主を刺激するわけにはいかない。その一心で表面上の笑顔を保つ。――そして、とうとう待ち望んでいた瞬間がやってきた。


「……たすけて」


 主の無表情が崩れ、くしゃりと歪む。今にも泣き出しそうな声で呟きながら、彼女は芒の手を取った。

 大義名分をようやく手に入れた芒は、うっかり笑い出しそうになってしまう。もちろんそんな愚行に走るわけもなく、触れ合った手をしっかりと握りしめる。


「えぇ。あなたはおれが助けます。……おれの、おれだけの主様」


 自分は、主を救うための存在だ。少なくとも、芒自身はそう思う。たとえ他の誰かが何を言おうと、主が何を考えようとも、芒がこの手を離すことはない。


 冷たい手をした彼女が、芒に「虚」のことを隠し通そうとした彼女が、いつか全てを打ち明けてくれる日を待っている。今は「主」でしかないこのひとを、大切な名前で呼ぶ。そんな瞬間を夢想した。


――――――


「――すき」


 がばり、音がつきそうな勢いで跳ね起きる。人工的な光が柔らかく照らす地下室に設置された勉強用の机。どうやら芒はそこで居眠りをしてしまったらしい。

 それにしても、無視できない言葉が聞こえた気がする。いきなり動いたことだけではない動悸を感じながら、芒はゆっくりと周囲を見回した。


「突然動いたら危険よ。ほら、お茶を淹れてきたから少し落ち着きなさい?」


 コトン。主によって、カップが机に置かれる。ゆったりと揺れる水面は白く和らいだ琥珀色。ミルクティーは、彼女が特に好むものだ。


「ずいぶんと静かだから心配したのだけど、そんなに元気なら大丈夫そうね」

「……お恥ずかしいところを……」


 芒はくすくす笑う主から視線を逸らし、紅茶に口をつける。特有の渋みがミルクで緩和されて飲みやすい。

 ほっと一息ついて、机に広げたままの紙束をまとめた。休憩にはまだ早い時間だが、主そっちのけで作業に没頭するような無礼をするわけにはいかない。


「もうやめるの? 別に私がいたって続けていいのに」

「仮にも主に対してそんな無礼はできませんよ」


 あの日――主が「虚」を明かした日から半年、芒たちの関係は少しずつ変化してきていた。

 例を挙げるならばお互いの態度だ。芒は時折「失礼」とも捉えられる発言をするようになったし、主は自分の感情を隠さなくなった。そして何より――二人は「虚」の究明・解決のために外の世界と関わることを決めたのである。


 先ほどまで芒が広げていた紙束も、外の世界との関わりで手に入れたもの。主の薬を通じて親しくなったとある学園の関係者が、芒の勉学を見てくれることになったのだ。


「進み具合はどう?」

「まぁ、そこそこ。いくつか解き方がわからない問題があったので、今度先生に教わってきます」

「それがいいわね。……でも、思っていた以上にあなたは賢い子だったわ」


 もっと早く気づいてあげればよかった、と主は自嘲する。芒ははっきりと否定した。


「過去に勉学を勧められたとしても、きっと拒んでいたでしょう。今でこそ目的がありますが、当時のおれには何もなかったのですから」

「……あなたのことだから本心でしょうね。でも、私の育った環境では子供に勉強させることは常識だったから」


 主が懐かしそうに目を細める。そういえば、こういう表情を見ることも増えたように思う。以前の主は過去のことを何一つ明かさない人間だったが、それもあの日以降だんだんと打ち明けてくれている、ような。


 未だ芒は「虚」の解決策を見出せていない。だが、この調子でいけばそう遠くないうちに何かわかりそうな、そんな予感がする。


「主様だって、おれにたくさん教えてくれたじゃないですか。金勘定とか」

「仕事で使うための知識しか与えられなかった、って話よ」


 謝罪するような声色で言葉を紡ぎながらも、主の表情はさほど暗くない。それは芒の本心がわかっているから――当時の芒自身が教育を求めていなかったことも、今更過去には戻れないことも、十二分に理解しているからだろう。それでいい、それがいい。


「主様」


 芒の呼びかけに反応して、主が顔を向けた。しばし逡巡して、少年は口を開く。


「ここは、おれにとっての楽園ですよ」


 微笑みながら告げた途端、主は目を大きく見開いた。蜂蜜色の瞳が照明に照らされ、きらきらと甘く輝く。


「それは何より。……他の楽園よりもいい場所だと、私も思うわ」


 二人揃って冗談めかして笑い合う。

 最果てでのこんな日々が、ずっと続けばいい。二人の淡い願望が重なった。

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