第0話「前編」
私立燈原学園。
広大な土地を活用し、小・中・高のエスカレーター方式を採用している。
それぞれの校舎に加えて別棟や体育館、学食専用の建物、果ては敷地内に神社まで存在するマンモス校である。
校庭を縁取るように植えられた桜が青々とした葉を湛え、吹き抜ける春風に揺れる。
普段と変わらない鳥たちの囀りも、麗らかな陽気に喜びの声を上げるかのように響く。
今日という日はきっと、疑いようもなく穏やかに過ぎていくだろう。
「あーんーたーたーちぃぃぃ!!」
「「うおぉおおおおおお!!」」
ーー響き渡る怒号と雄叫びがその全てを台無しにしていなければ、だが。
「待ちなさいコラァあ!!
私のお饅頭返しなさい!!」
「食べちゃったんだから返せないよ!」
「なに開き直ってんのよー!!」
般若の形相で追う女子生徒と、全力疾走する男子生徒が二人。
始業時間が近いながらも人通りのある廊下で、鬼気迫る鬼ごっこが繰り広げられていた。
全力で走るその様は暴走とも言えるものだが、他生徒に驚いた様子はない。
「おいなんで俺まで追われてんだっ?
つまみ食いしたの陽介だけだろぉ!?」
「ちょっと待って!
明宏だって食べただろ!?」
「お前が食いかけをねじ込んできたんだろうが!!」
もはや見慣れた光景なのか、素早く教室や廊下端など安全地帯に移動して3人の校則違反者を見送っている。
四月一日陽介と常街明宏。
なにやら食べ物の恨みを買ったらしき2人組は、言い争いをしながら廊下を駆け抜ける。
「どっちにしろ食べたんだから同罪に決まってんでしょ!」
「理不尽!!」
追いかける女生徒に一喝され、明宏は悲壮な声をあげて逃げ続ける。
「くそっ、なんて威圧感だ!
まるでかのコペンハーゲンが迫ってくるかのようだよ!」
「誰が世界一の壁ですってーー!!!」
「バカ煽るな!
けど、むしろよく分かったな。
自覚あり過ぎじゃね?」
「ぶっ殺してやるぅ!!」
「「ひいィイ!!」」
不要な発言により勢い込んだ殺意から逃れるべく更に速度を上げる2人。
それでも怒りに燃える彼女の方がより速く、徐々に距離を詰められていく。
「くそ、このままじゃいつか捕まっちまう…
一体どんな痛い目を見せられるか分かったもんじゃないぞ!?」
「だよね、僕もそう思う。
その時は一緒だよ相棒♪」
「もう黙って走れお前!!
…はっ!?」
いい笑顔で親指を立てる陽介を怒鳴りつけながらも、逃げ切るための糸口を探す明宏の目に人影が映る。
教師と思しきその背中は、行く先の廊下の真ん中あたりを歩いていた。
「しめた…!」
不幸中の幸いか、背後に迫り来る鬼は食べ物の恨みと煽りにより我を忘れている。
前方の人物をギリギリで避ければ気づくのが遅れ、自らも避けるために速度を落とさざるを得ないはず。
その隙をつけば、逃げ切れる!
「おい陽介!」
「分かってる!合わせるよ!」
「…へへっ」
通じ合うかのような相棒の反応に、不敵な笑みが溢れる。
互いにタイミングを測り、ついにその時が訪れたーーー!
「「今だぁ!!」」
「何がだド阿呆」
「「おぶぉぁあ!!」」
人影を避けるべく左右に分かれた2人の顔面に同時に教材の角がめり込む。
全力で走っていた分勢いこんでひっくり返り、あまりの痛みにのたうち回る事になった。
「うわっととぉ!?」
追ってきていた女生徒もあわや激突するところ、すんでのところでなんとか踏みとどまる。
「あ、明石先生?」
「おー家入。
朝も早よから全力疾走とは随分元気だな?」
「あ、あはは…」
担任教師、明石奏多のにっこりと笑いつつも冷え切った視線に、女生徒ーー近守裡子は先ほどまでの怒りも忘れて冷や汗をかく。
「や、やっば…
あ、私この後日直の仕事があるんだった。じゃね!!」
「おいコラ…ったく、走るなってのに」
そそくさと逃げ出す裡子に声をかけるも、あっという間に角を曲がり見えなくなる。
逃げ足まで早いその様にため息をつきつつ、転げ回る馬鹿どもに意識を向けた。
「ったく…おらバカ2人、さっさと起きろ」
その言葉に2人が顔面を抑えながらよろよろと立ち上がる。
「何があったか知らんが、廊下を全力で走るんじゃねえ」
「あか先相変わらず容赦なさ過ぎ…」
「いつつ、あんた俺らじゃ無かったら訴えられてるからな!」
恨みがましい視線を向けられ、明石はフッと微笑んで言った。
「バカ言え、こんなバカな対応するのお前らみたいなバカ共だけだよ。」
「えっ…先生…」トゥンク…
「騙されるな陽介!めっちゃバカって言われてるぞ!!」
「はは、おもしれー」
「ほら見ろ遊んでやがる!!」
「ほれ、いつまでもバカやってないで教室戻れ。
近守にも後でちゃんと謝っとけよ?」
「「「はーい」」」
顔の痛みもどこへやら、平然と教室に向かい歩き出す2人組。
そうして曲がり角に差し掛かったところで、
「うりゃあああ!!」
「「おっぶぁはぁ!?」」
飛び出してきた影による渾身のドロップキックに受け、まとめて吹き飛び壁に叩きつけられた。
「ぃよし!粛清完了!」
華麗に着地を決めてガッツポーズを取ったのは、先ほど走り去ったと思われた裡子であった。
どうやら逃げたと見せかけて曲がり角に潜み、とどめを刺す機会を伺っていたらしい。
「えぇ…」
「ふぅ、ごめんね先生
食べ物の恨みは晴らしとかないと後を引くからさ」
「うん、まぁ…とりあえずさっきの経緯だけは分かったわ」
唖然とする明石に、晴れ晴れとした表情で言うりこ。
廊下を爆走するところを教師に見られたとは思えない、いっそ清々しいほど開き直ったその態度に、明石は注意する気もなくし額に手をやりため息をついた。
「はぁ、まあいいや。
廊下走ってたのは不問にしとくから、責任もってそいつら連れてけよ」
明石の言葉に理子が「えー」とあからさまに不満気な声を上げる。
「えーじゃないの。
転がしといたら邪魔だろ?
ちゃんと教室に持ってきなさい。」
まだ口を尖らせながらも伸びている2人を眺めると、裡子は観念したように肩をすくめた。
「んー…まあ確かに。
仕方ない、ほ〜ら行くよ。
じゃね先生、また後でー」
「おー、今度は走らん程度に急げよー」
軽々と2人を引き摺っていく後ろ姿を見送ると、明石は窓に目をやる。
ようやく静けさを取り戻した事に安心したかのように、柔らかな日差しの中を小鳥たちが戯れていた。
そうして一言。
「平和だねぇ…」
先ほどまでの騒ぎを目の当たりにしたとは思えない、気の抜けた独り言を呟くのだった。
〈後編へ続く〉