3. 脱獄
その日、ライセンスはついに決行した。
ここ〝鉄壁の流刑城〟デスプリンスからの脱獄を。
荒野を劈く落雷の中、電子制御された見張塔が幾度か闇に包まれる。
職業訓練のための木工資材搬入のトラックが出て行く隙を、ライセンスは狙っていた。
扉が開き、およそ十秒の停電に二人の刑務官はうろたえる。
ライセンスは俺の手を引き、俺も一瞬にして覚悟を決めた。
ここを出て、クリシアを連れ、ノースフォレストへ逃げようと。
かつてジャックは言っていた。
「ブリウス、もしも追い詰められ、ひどく困ったり、行き場所がなくなったとしたら〝ダグラスさん〟を訪ねるんだ。ノースフォレストにいる。前にも言ったがその人は俺もお世話になってる地下組織のリーダーだ。俺の兄貴分で面倒見がいい。合言葉の『微笑む髑髏の指輪』と言えば、俺からの紹介だってわかってくれるはずだ。助けてくれる人はちゃんといる……と、いつかクリシアにもそう伝えてくれ」
俺の肩を掴み、ジャックはその住所と電話番号のメモを渡した。
今こそ国境を越え、そこへ行く時だ。
ウォルチタウアーに殺される前に逃げよう。
そう、やつに訊問され、挙げ句の果てに殺されてたまるか!
ライセンスはかねてからこの脱獄を計画し、時機をうかがっていたという。
大規模な停電から自家発電が作動するまでの約十秒を狙っていた。
ライセンスは言った。
「彼女のことも心配だろう。なんとかしなければ」
その巨躯をしなやかに、影から影へと俊敏に移動するライセンス。
兵士だったという彼の身のこなしは鋭角に進路を切り拓いていった。
俺は喘ぐ息を抑えながら必死でその後に続いた。
バラバラと稲光が渓谷を叩きつける。
突き刺すような雨の中を俺たちは懸命に走った。
岩場の苔に足を滑らせながら川を目指して下りて行った。
荒れ狂う強風。濁流に飛び込み、深く深く身を沈める。
やがてたどり着いたほとりに起き上がる。
見上げると、夕闇に明滅する、はるか遠くにそびえ立つ見張塔が。
俺たちはそうしてデスプリンス刑務所からの脱獄に見事成功した。
* * *
「こんなにうまくいくとはな」
獣道を歩きながら俺は言った。
「ああ。ここまでは計画通りな」
とライセンスは言い、俺に振り返る。
「ブリウスよ。ここからはおまえさんに任す。というのも実はこの辺りの地理に俺は疎くてね。それに行くあてもないんだ」
「そうか。……うん、とにかくまずはクリシアに連絡をとる。そして北上する。ノースフォレストへな」
「国境を越えるわけだな」
「……あんたも行くかい?」
「うむ。俺たちのような敗残者は、北へ向かうのだな」
雨があがって小さな村の、食料品店の前に足を踏み入れる。
およそ農夫が乗る一台のオンボロトラックがエンジンを回したまま停まっていた。
光る店内には持ち主らしき爺さまが店主とゲラゲラ喋っていた。
俺は運転席に乗り、ライセンスも隣りへ。
アクセルをじわり。ハンドルを切り、車道の暗がりに紛れさせた。
駅を目指した。ダッシュボードの硬貨を手に、公衆電話をさがす。
「詳しいなブリウス。土地勘があるな」
「いや、知らないが地理はだいたい。野生の感だよ。この国道13号は北へ伸びている。駅まで行って貨物列車に飛び乗ろう」
「服をどこかで調達しよう。……おい、あの民家に干したままの衣服がある。雨降りにそのままなのは留守だということだ」
「わかった。ちょっと入り込む」
俺は生成りのスウェットにジーンズ、ライセンスはデニムのシャツ。
袖の長さもズボンの丈も彼に合わないのは仕方がない。
囚人服はゴミ箱に捨て、ついでにくすねた干し大根を手に、二、三くち齧った。
そして駅の公衆電話から俺はクリシアを呼んだ。もちろん、ものすごく緊張している。
自信満々に踏ん反りかえって呼べるはずもない。
「や、やあ、クリシア。元気かい?」
《……ブリウス! え? どうして? なんで電話できてるの?》
「こ、これにはちょっと事情があってね。会ってから話すよ。今急ぐんだ」
《会ってからって? は? え、意味わかんないんだけど。これって……公衆電話? 踏切の警報音が聞こえる……そこ、駅なの?》
「嬉しいだろ? 俺と話せて」
《嬉しいけど、どういうことかちゃんと説明して》
「今から列車に乗る。きみは必要なものを車に積み込んでポニーボーイズの前で待っててくれ。そこまでおよそ七時間はかかるだろう」
《ブリウス! ちょっと》
「だから話は後だクリシア。夜は冷えるから重ね着した方がいい。気をつけてな」
《待ってブリウス》
ガチャリ! 俺は受話器を置いた。
とにかく急ごう。ライセンスも周囲を気にしてる。
午後八時、俺たちは動き出した貨物列車に飛び乗り、空いたコンテナに身を潜めた。
* * *
「彼女さん。驚いてたろう」
とライセンスがしんみり言った。
「……ああ。脱獄だなんて、まず普通は怒るよな。しかし身の危険を感じてのことだ。みすみすウォルチタウアーに殺されたくはない」
「俺は……ただ自由が欲しかった」
「そりゃあ誰だって。あんなとこ出たがってるさ」
「俺は終身刑だ。おまえさんは?」
「刑期はあと一年だが、もう充分罪は償った。俺も……自由を掴みたい。ノースフォレストへ行って仕事を見つけて静かに暮らそうと思う」
「そう簡単に国境を越えられるか?」
「ある人に頼む。会ったことはないけどジャックがいた組織のリーダーだ。もう頼るしかない」
「ジャック・パインドは『魂の英雄』として世に知られたが、バックに組織がいたのか。おまえさんも?」
「……俺は違うよ、メンバーじゃない。ジャックの幼馴染で、その都度呼ばれてただ協力していただけだ」
「新聞で見ていたよ。彼は多くに好かれているようだった。記者にまで」
「ジャックとは、俺が十歳の頃に知り合った。彼は十三歳でレストランで働いていてね。注文訊いて料理を運んで一生懸命で。一発でかっこいい! って思ったんだ」
俺は辺りを警戒しながらコンテナの内壁に寄りかかる。
ライセンスも力を抜いて一息つき、流れる夜景を眺めた。
俺はジャックとのこれまでを昨日のことのように話した。
「俺が〝運転手〟だったのも、そもそも彼が無理矢理やらせたんだ。当時十四歳の俺に。もちろん無免許。『どうしても行かなきゃいけないとこがある、でも俺怖いからおまえ運転しろ、できるだろ?』って。運転は叔父さんに教えてもらってたから確かにできたんだけど、まぁジャックは強引だったよ。言うこと聞かなきゃ妹と別れさせるって脅されたし」
「はっはっは。そりゃあつらいな」
「妹ってのがクリシア。今から落ち合う彼女さ。……あの時の運転は夜だったし最初は怖かったけど走り出したら正直だんだん興奮してきてね。ただ子供だから大人に見せるためにマジックペンで髭なんか書いたりして。車内でわいわい騒いで、スリル満点の楽しい旅だった。……ただその車も親代わりの人のものだったから、その後こっぴどく叱られたけど」
「……ピクニックではなかったわけだな」
「それは、仕事。うん、というかあれが俺たちの出発点だった。俺とジャックはある大人たちの影響をものすごく受けた。『仕事』というのは彼らの手伝いだ。彼らは私利私欲に駆られたただの窃盗団ではない。貧困に喘ぐ人たちのために動いていた。そういう彼らに憧れていたんだ」
「ソウルズ。彼らはナピスという巨悪にも立ち向かったと、裏社会では噂になった」
「知ってたね。そう。ジャックは彼らの意志を継いだ。俺だって、不思議な使命感を感じてたよ」
「……ナピスに籠絡されていた警察もソウルズの捜索を打ち切った。警察の中には彼らソウルズを信じる者もいたかもしれん。悪政に歯向かう逆賊を、大衆は英雄視することもある」
「それも感じていたよ。逃げるジャックに農家や路上生活者が『頑張ってー』とか『腹減ってないか。このパン食いな』とか言ってくれたりね」
「〝悪漢〟も、時に愛されるものだ。奇妙な話だがな」
「……ライセンス、あんたは? 友と呼べる人は」
そう訊ねて目をやると、ライセンスはぽりぽりと頭を掻き、ポケットに仕舞った宝物の詩集を撫でて言った。
「一人いたさ。俺を理解してくれようとした大切な人が、一人な」
そこでちょうど列車が停まって俺たちは口を噤んだ。
また身を潜めて、駅の作業員のやりとりに警戒した。