2. ALL ALONG THE WATCHTOWER
吐く息が白く熱いのは、ジャックの駆け抜けた青春。
しんしんと、しんしんと雪が降り積もる。
黒い空の下で横たわる、ジャックの背に降り積もる。
それまでの雄々しく胸を焦がし、言い知れぬ使命感さえ感じていた世界が一変した。
人の死を目の当たりにする度にまるで時が止まる。これが初めての感覚ではないが。
あれから三年経った。
逮捕されて俺は刑務所の中、塀の中にいる。
場所は砂塵渦巻くエルドランド南部のデスプリンス刑務所。
見上げると全高二百メートルのイビツな見張塔が雷鳴を纏う。
冷酷に権力を誇示するその塔の刑務所。
俺たちは朝から晩まで監視され、頭の天辺から足の爪先まで統制され、悲しくうずくまる。
その日、同じ監房仲間になったその男に俺はまた話しかけた。
「仕事さえありゃあな。学歴のない俺は世間でまともに扱われなかった」
「俺も同じだ。元をたどれば政治が悪い。真に有望な若者を育てる体制ができていない。選挙で票を勝ち取るばかりで本当に人を育てるほど、そいつらが育っちゃいないのさ」
「これは運命だと思ってるよ。生まれる場所を選べるなら、また違ったかも。なんてな」
「うむ。人は闇に産み落とされるものだ」
「闇……か」
「訊くが、何をしてここに?」
「俺かい? ……強盗。逃亡幇助。他にも脅迫、傷害、器物損壊、公務執行妨害。それに恐喝、詐欺、薬物使用なんかも付け加えられた。身に覚えの無い罪状までな」
と、俺はこれまでと自らの素性を語って聞かせた。
対するは岩山のような体格の中年男。
彼の名は『ライセンス』。本当の名前は精神を病んだ時に記憶から消し去ったと説明した。
「俺は殺人。失敗したことはなかった。ライセンスの異名はそこから来ている」
鉄骨造のビルディングか熊のような体躯の頑強な顎から発せられる声に、意外にも俺は癒やされていた。
穏やかで不思議に引きこまれる。
ライセンスは殺人者として病んでいたと言うが、今は治っているのか。
牢獄の赤茶けた煉瓦の壁にもたれ、古びた詩集と坊主頭をさすりながら語る彼とのひとときを、俺はいつしか楽しんでいた。
「ブリウスよ。誰も自ら望んで生まれはしない。世を恨んでも羨んでも仕方がない」
「そこまでは考えないさ。母親のことは好きだった」
「どの母親も苦しんで子を産む。そのことを知らされない俺たちは、つい粗末に扱ってしまう」
憂えた目で語るライセンスの人生観。
彼も自責を背負い、授かった命について自問しているようだ。そんな人間が骨の髄まで悪人だとは思えなかった。
彼の歩んだこれまでの暗がりを想像した。
話していて彼は俺のことを否定することはなかった。
そして俺は大切にしている思い出のひとつを語った。
「俺は母子家庭で母親は四六時中働いていた。ダイナーや運送会社の事務、ビル清掃もやってた。日曜こそ時給が高いから仕事に出て、カレンダー通りの休みなんてなかった。でもどれだけ疲れていても俺に冷たくしたり邪険に扱うことはなかったんだ。だから、働いて働いていつだって人を思いやれる……そういう人間こそかっこいいと思ってる。だから好きだった」
「おまえさんはちゃんとお母さんの姿を見て育ったんだな」
「うん。……あれは小学生の頃だった。俺は勉強できなくてね。算数なんか特に苦手。足し算引き算もやっと、掛け算ともなるとまったく。ある日曜参観の日。仕事で忙しい母が来てくれるなんていつも期待はしなかった。でもその時は来てくれた。なんとか休みをとってくれたんだろう。たくさんの母親の中に紛れて、普段とは違うお化粧をして髪は綺麗で他の誰よりも輝いてて、ポツンと笑って俺に手を振った。俺は照れて手を小さく振り返した後、前を向くがやっぱり授業の内容はわからない。先生に当てられみんながシャキシャキ答える中、俺一人だけわからず頭を塞いでいた。そのうちどの章を教えられてるのかもわからなくなって、やがて俺の横にそびえ立つ人影。ヤバいと思って頭を掻きむしるとそれは俺の母親だった。彼女は俺の机のとこに来てスッと屈んで横からあれこれ教えてくれたんだ。分数や筆算のやり方を小声で優しく丁寧に。『がんばろうねブリウス』って声をかけながらね」
「素晴らしいお母さんじゃないか」
「うん。でも、ひとつ。そのとき許せないことがあった」
「ん? 何だ、それは」
「そんな母のことを、後ろに並ぶ他の母親どもが笑ったんだ。クスクスと、上から見下ろすように笑っていた」
「それは……よくないな」
「だろう? 一生懸命俺に勉強を教えてくれる母を何故笑ったんだ? バカな俺のことを笑ったのか? バカ親子だと笑ったのか? 俺はその光景が絶対に許せなかった。悔しくてそいつらを睨みつけてやったよ。母はただ笑顔で俺だけを見てたがな。……んん。でも後になって反省したよ。そもそも俺がバカだったからいけなかったんだ。俺が勉強嫌いだったから。ははは」
「いや。きっとお母さんも大変で、家で勉強教える時間も作れなかったんだろう。……しかし、その話。おまえさんの正義感を感じたぞ。人のことを笑うヤツらを絶対に許せないとな」
「だろう? 母は生活に苦しんでたとは思うが、俺を産んだことを誇りに思っていた」
そう。あの時の母の姿はよく思い出す。
笑われても気にもしない、凛と教室を歩く姿を。
美しく勇ましい母のことが、俺は好きだった。
* * *
次にライセンスはぼそりと訊いてきた。
「ところでブリウスよ。ウォルチタウアーにやられた傷、まだ痛むか?」
「ああ。無防備にやられたんだ。あいつはついに動き出した」
「やつはこの刑務所所長に就任して二か月。おまえのことが目的だと言うのか?」
「そう。やつはジャックのことを訊いてきた。俺はわかってる。ジャックを殺したのもやつだと」
「何だと?」
「やつの香水だよ。ウォルチタウアーはあの時警官に紛れていた。ジャックに銃を向けた警官だ。同じキツさの異様な臭いが漂っていた。あの時のことは絶対忘れない。俺の嗅覚五感すべてが研ぎ澄まされていたんだ」
七日前、俺はウォルチタウアー刑務所所長に呼ばれ、尋問された。
「ジャックが盗んだ俺の金を返せ」と。
たしかにジャックは強盗を繰り返したが、すべて恵まれない施設やスラム街、貧困に喘ぐ人たちにばら撒いたはずだ。自分の私利私欲のためや贅沢、豪遊のために使いまくったわけじゃない。〝活動〟の軍資金も、ぶっちゃけマフィア(サンダース・ファミリー)の支えがあった。……しかし、隠した金もあったかもしれない。
「俺は何も知らない。俺はただ、彼の運転手として逃げ道を作っただけだ」
「しかしウォルチタウアーは疑っている」
「うむ。しかし自白剤を飲まされたとしても、俺からは何も出ないぜ」
「では何故やつはジャックを殺した」
「誤算だった、ということになる。やつはずっとジャックを追っていた。そして、俺のことも」
あまりにも混み入り、息つく間もないが、きっと抜け出す道があるはずだ。
この世界では手にしたものは暴君や商人や泥棒に容易くむしり取られ、そこで生きる価値を見失う。
そう興奮することはないさ。俺たちは喋りすぎたんだ。
この人生はペテンだと影で笑われる前に、夜に塗りつぶされてしまう前に……、ライセンスはそう言った。
「さあ、ここを出ようか」と。