16. 燻される血
* * *
俺の名はジャック。ジャック・パインド。
思い出す――あれは晩秋の長い夜だった。
俺たち二人は逃げるところだった。
つきまとう向かい風に歯ぎしりしながら俺はシートにもたれていた。
軋む車体と熱い息。最高の相棒ブリウスの視線と息遣い。
「くっそ! 行け! ブリウス、思いっきりアクセル踏め! 」
「手当てしなきゃ!」
「こんなのかすり傷だ! すぐ治る、裏通りをすり抜けて川沿いへ出ろ!」
あいつはどこまでも俺を運んでくれた。
吠える車はどこまでも走り続けた。
俺は聖者じゃない。
金の亡者をねじ伏せる蛮族だ。
悪党、盗賊、お尋ね者。
悪戯好きの宿なし、そう根なし草さ。
右足から血を流した俺は、やがて警官隊に包囲され、潜んでいたウォルチタウアーに胸を撃たれた。
つきまとっていた風が一瞬にして身体を冷たく吹き抜けた。
心臓に穴が空き、呼吸が止まり、意識を失い……俺は一度、死んだ。
* * *
俺は暗く狭い土の中で何日も過ごした。
硬く冷たい棺桶の中で何年も。
目蓋の向こうで報われない情念が行ったり来たりする。
眠らない悲痛な叫びを聞いた。
語りかける老婆の悲しみを、
悔しがる青年と笑顔を忘れた女のすすり泣きを、
無念に貫かれた命と短い人生を呪う声を、
それでも願い続ける母親と、乳房に吸いつく赤ん坊の不安を、
出生さえわからない孤独な女の寂しさを聞いた。
腹を空かした犬と烏が通り過ぎ、次の者また次の者が踏み散らかし、また次の者が埋められてゆく。
はるか耳を澄ませば、車が勢いを増し、家が所狭しと建ち、ビルが権力を誇示し、夜も眠らない。
争い事もなくならない。
どれだけ嘆いても悲しんでもなくならない。
互いの正義を振るい、互いの民族を認めない。
どれだけ泣いても。
どれだけ土の中から呼び止めても。
弱者は淘汰される。その疑念さえ、愚かなのか……。
何年か経って、夜明けに足音が近づいてきた。
それは聞き慣れた妹のものでも、ブリウスのものでもない。
棺桶の、土の向こうから聞こえる足運びには覚えがあった。
その男は周囲を徘徊し、墓石を確かめるとフッと息を漏らす。
俺にはわかっていた。
もう充分に癒えた心臓をまさぐり、待ちかねた俺は棺桶の蓋を拳でぶち抜いた。
彼のスコップも俺を掘り起こす。
蛆虫と泥土がザクザクがなだれ込む中、彼は俺の手を掴み、引き上げてくれた。
光が、朝の光が途切れ途切れに射し込んだ。
「よぉ船長! 我らがキャプテン、ジャックよ!」
「……はは。相変わらず」
約束通り、来てくれた男はダグラス。
地下組織のリーダー、ダグラス・ステイヤーだ。
しばらく並んで座り、俺たちは海を見つめた。
冷たく厳しい夜明けに身が引き締まる。
太陽が海と岩と地肌を照らしてゆく。
大気は清々しく燻され、身体をかけ巡る。
俺の中に流れる二つ、海賊キャプテン・キーティングと爬虫人類の血は脈々と、俺を〝再生〟させた。
「やはり最強だなキャプテンは」
そう言ってダグラスさんは煙草に火を点けた。
座ったまま俺は背伸びをし、首を揉んだ。
「……うん。フリージン・ブルーの弾丸にはちょいと痺れていったん死んじゃったけどね。なんとか生き返った」
「迎えが遅くなってすまなかった。あちこち飛んでてな。仲間も随分とやられ……先週やっと帰国できた」
ペコリと謝るダグラスさんに俺は首を横に振る。
「来てくれてありがとう」
「……ジャックよ。今の今まで寝てたのか?」
「いや。しばらく起きてたよ」
「何考えてた?」
「……皆の唸り声を。むせび泣く、死人の声を。報われなかった魂の叫びを、俺は聞いてた。彼らのことを忘れ、誇りを踏み散らかす足音も聞いた。この国を建てるために死んでいった者の嘆きを聞いた。死ぬまでにやりたいことを果たせなかった後悔の念を、この土の中で聴いていた。……そのことを考えてた」
ダグラスさんは煙を燻らせ、俺を見つめて言う。
「ああ。我々は生かされてる」
「俺は復讐に生きた。でも苦しいだけだった。救われたいと願い、自らのルーツを辿ったんだ」
「血の呪縛はどうあっても消せない。しかし温もりだってあったはずだ」
立ち上がり、俺は気持ちをあらためる。
「ダグラスさん。まだ戦いは終わらないの?」
「だからおまえを迎えに来たんだ。その熱き魂を、皆求めてる。寄り添って欲しいんだ。おまえは皆を突き動かす英雄なんだよ」
「……そう。でもブリウスのこと、巻き込んで今でも申し訳なく思ってる。ごめんなさい。でもどうしても俺にはあいつしかいなかったんだ。あいつはルカさんに似て最高の運転手。運転技術の高さはもちろん、一度通った道は全部頭に入ってるし迷うこともない。勘がいいんだ」
「おう。俺もタクシードライバーやってたしな」
「そして最高の友達だから。つい甘えてしまった」
「おまえたちの仲もわかってるつもりだ」
ダグラスさんはうなずいて笑った。
俺は勇気を出して訊いてみた。
「……ブリウスには、やっぱり黙ってるの? あんたが父親だって」
「……ああ。今さら、何も言えんよ。俺はシェリルを遠ざけた。俺が危険だったから。今でもそうだ」
「でも気にしてる。いつか……言えたらいいね」
「……うむ。陰で見守るさ。少なくとも俺にできることはあると思ってる」
* * *
一九七一年、ヘヴンズフィールドの緑の丘。
俺は朝の光を纏い、蘇った。
炎を手に運び、ともに立ち上がる。
肩を寄せ合い、戦いの口火を切る。
最後にこの肉体が裏切ろうとも、
燻る魂が俺を突き動かす。
黒く恐ろしい列車が過ぎ、やがて時の終わりを告げるかもしれない。
乗り合わせた人たちが一瞬にして消え去るかもしれない。
それでも俺たちは今を見つめ、今だけを見つめて明日を目指す。
俺たちは手と手を合わせてひとつになり、真の、心の自由を勝ち取るんだ。
【END】




