……8月2日(火) 15:40 車中・迷想:ダイモーンの生命
諸々が千々に降下してくる夏々の日々
第十六章 生きているのか死んでるか。そもそもそういう問題だ。
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心のこと。
つまり、ここまでの自分の考えに引き寄せるなら、『喋る』と『動く』の『喋る』の方だけを切り取ってきた話。
究極的には、体の生死に関わらず喋る人間についての話になっていく話だ。魂とか生霊とかそういうの。
そんなもの存在するのかと言えば見たことないから知らないけど、見た時に『判る』かどうかで言えば『判る』もの。見えるかどうかは知らんけど、見えちゃったら判っちゃう気もするし、そういうのを見たという人の話では、見たら判るみたいではある。
正直そういう人の話って単純に間違いなんじゃないかと思ってるけど、それが本当か間違いか、厳密には態度を保留中だ。ただまぁ、本当っぽい話というのはあまりにも少ないから、基本的には多くのそれらが単純に間違いなんだろうとは思ってるんだけど、一件一件については本当はすべて保留だ。逆に言えば物理的にありそうなことというのも、本当は同じように保留だ。なにかを疑う時、すべてを平等に疑うならこうなる。
そこまではやってられないなぁというのが本音だから、出会った時にそれぞれにやっていこうというのが、見たら判るという態度ってことなんだろう。たぶんだけど、こういうすべてに関する判断を一時停止して、それが故に場当たり的な判断をそれぞれの場で行うというこういう展開はめちゃくちゃ普通のことだと思う。
正直なところ、一般規則を跨ぎ越して明示されていない暫定基準で各現場での場当たり判断をすることに私は居心地の悪さを感じるし、明示されていないだけで何故か私以外の人たちの間では上手に共有されているその暫定基準を知るために私は毎回苦労している。
だからこういう諦め方をしなきゃいけなくなると、私はいつもちょっと苛立つ。苛立つけど、本当にいつでも、他人と関わるすべての時に起こることなので相対的に波立ちは小さくなり一回づつは小さな波紋にもならない。
そういうやり方が世の中では普通なのだ。
道端で偶然すれ違う人と認識の摺り合わせをする必要はなくて、それでもそこで幽霊を見たら同じ幽霊を見たことになる。普通はそうなる。
やっぱり、私は奇抜なことなんて考えてなくて、ごく普通のことしか考えてないんだよなぁ。世間一般、私以外の人たちが考えずに身に着けている普通なるものを相手に意思疎通するために考えてるんだから。
単独の心、つまりは『魂』が存在するというのは世間一般の考え、つまり『普通なるもの』としては極一般的な感覚のはずだ。人間の姿をしているんだから、ハルカちゃんだってそこは同じという話なのかと思っていたんだけど……。
「体と心が別かどうかは考え方次第。とはいえ、わたし達とあなた達では心と身体の関わりは違う」
「……え? え?」
これまで、ハルカちゃんのことは体が銀沙でできているからそのせいで特別な能力があるってぐらいでだいたい人間だと思って接してきたけど、そんなに根っ子から違うんだ、という変な実感が湧いて来てしまった。なんだか急に遠い存在になった気がする。
私が「ハルカちゃんの生死はどうやって判別するか」という特別な部分、つまり人間らしくない部分をピックアップして問いかけた方なのに、ハルカちゃんの方から『わたし達』と『あなた達』で明確に区切ってきたから驚いてるんだから世話はない。
元はと言えば自分のせいなのに、こんなことでショックを受けるなんて私はひどい奴なのかも。
でも、もう感じちゃってるんだから仕方ないんだよ。
「わたし達とあなた達って?」
「あなた達は生物人間で、わたし達はあなた達をモデルにして発生したダイモーンという種族。ダイモーンを日本語訳すると星霊」




