……8月2日(火) 15:20 車中・迷想 :生死を見分ける方法
諸々が千々に降下してくる夏々の日々
第十六章 生きているのか死んでるか。そもそもそういう問題だ。
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心臓というか首のあたりの脈動なのかもしれないけど、なんとなく分かる気がする。大丈夫大丈夫。上手く測れなかっただけで脈はある脈はある。
脈があるなら生きてるよ私。
いやぁ、思考実験とはいえ、不測の事態で危うく概念的に死ぬところだった。危ない危ない。
下手な指標を設定したせいで概念的には生きていないことになるところだったけど、指標外の測定では感知できるから、こういう時は基準と手段を疑う方向で行こう。
『判る』って適当だし間違うこともあるけどやっぱり大事だ。
今回の失敗は、定めた指標を疑うということの実例ができたことで、ポジティブに捉えることにしよう。
とはいえ、死亡を回避するのに使ったなんとなく感じられるこの脈拍というのが……、正しいものを感知しているかどうかはわからんのだけれども……。
脈は失敗したけど、次は呼吸で行ってみよう。
そもそも脈を調べてみるにしても、手首の動脈を上手く探し出せていたのかどうかもわからない。
でも、鼻の穴ならさすがの私でもどこにあるのか分かる。いくら粗忽な私でも、鼻の穴の位置までは間違えっこない。それでももし仮に万一不明な理由で自分の鼻の穴の位置が仮に分からなくなったとしても、いざとなったら触れば判るもんな。
分かるよな? と思ったので念の為、自分の鼻を触ってみると確かに間違いなく鼻の位置は分かるし、手を動かせば鼻の穴に指を突っ込むまでしなくてもどこに鼻の穴があるのかも分かる。
実に頼りになる確実性。
やっぱり実証実験は確実性こそが全てですよ! 確実性最高!
脈の時の反省を踏まえて鼻の穴の確実性に感謝して、実際に調べてみる。
鼻の下に指を置いて……。
あれ? 私、呼吸してるか? 空気が動いている感じ、特にしないけど……。
いやまさか呼吸してないわけ無いだろと思ったので、あえて息を吸って吐いてをすると、その時には確かに鼻の前で空気が動いているのがわかるけど、わざわざやらないときは……空気が出入りしてるかどうかがわからない。
もしかして、私はあんまり鼻で呼吸をしないタイプとか? 口でも呼吸はできるわけだし……。自分が鼻で呼吸をしているか確かめるために、鼻を摘んで鼻の穴塞いでみるか。
……。……ぷはっ!
……息苦しくて口が空いてしまった。
これは、確かに私も鼻で呼吸はしてるんだろう。でも、自分の鼻の呼吸を上手く観測できない……。
危ないなぁ……。
不器用だと、自分の生死の判定も危うくなるのか……。
こうなってみると、『理解』の方を正確だということにしてなにかを計測して生きてるか死んでいるかの判断をすること自体が怪しい。
一般的には、というか積み重ねがあったり熟練の手腕で測定したりすると、計測して判断するほうがより正確な方法なんだろうけど、指標に積み重ねがなくて信頼性が不足していたり、計測を私がやるとなったら話は別だ。
指標が正しくないと即座に間違うし、私が計測すると不器用すぎて測定が上手く行かない見込みが高い。いくら私でもあるいは訓練次第では測定の方もできるようになるのかもしれないけど、幹侍郎ちゃんは一人しか居ないから事前に訓練することもできない。
幹侍郎ちゃんについてなにかを計測して生死を判断するという考えは捨てよう。
私には無理だ。
そもそも、脈や呼吸の測定というのを、他人が生きているかどうかなんとなく見分ける時――つまり『判る』時――には使っていないはずだ。
なにしろ兆候が僅かすぎる。
確かに日常を思い出せばそんな気もする。
道端ですれ違う人の生き死になんてぜんぶ簡単に判ってるけど、これまでに一度だって脈とか呼吸とかを参考にしたことは一度だって無いはずだ。
誰かが生きてるかなんて、遠くから見てもわかる。
ここまで考えてきて、ひとまずの結論はこうなるだろう。
(1)生きてるかどうかの判別は、普通なら見ればわかる。
(2)細かい確認をするときは設定された指標と測定方法を疑え。
(3)判断を間違えてしまわないように慎重に。
(4)私には無理。
……まぁ、別にわざわざ考えたりしなくても、何事もそんな感じじゃないかと思いますが、急に思いついて車の中で考え事をしてみたってこれぐらいだろう。
手早く結論に飛びつくのは危険だ、ということを身を以て感じたぐらいが収穫か。
良い教訓であった。




