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諸々が千々に降下してくる夏々の日々  作者: triskaidecagon
第十六章 生きているのか死んでるか。そもそもそういう問題だ。
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8月2日(火) 15:10 車中・迷想:生命の兆候とは

諸々が千々に降下してくる夏々の日々

 第十六章 生きているのか死んでるか。そもそもそういう問題だ。

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8月2日(火)

     15:10

     車中・迷想

   生命の兆候とは

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 まず、私は幹侍郎ちゃんのどこを見て『生きていると判っていた』のか……。

 それはたぶん、動いて、話すことだ。

 ぱっと思い描く普通の動物、犬猫なんかは動いているし鳴き声を出す。鳴き声なんて普通の生活上は会話みたいなものだから、動いてるし話もする犬猫は生きていると考えやすい。

 話さない生き物――昆虫や爬虫類なんか――も生きているのが容易に判る。それらは少なくとも動くし、その様子を見て生きている事が判るんじゃないかと思う。

 こういうことが生死の判別の基準だとして、もし仮に幹侍郎ちゃんが動くだけで喋らなかったら、私はその時に幹侍郎ちゃんを生きているとまで思えていたかどうかは怪しいかもしれないと思っている。

 印刷機や掃除用ロボットのような自動行動と見分けがつく気がしない。もしかしたら、実際にその姿を見ることになったら意外と動いているだけで生きていると考えるのかもしれないけど、きっと生きていると思っただろうというところまでは確信が持てない。

 だから、私の『幹侍郎ちゃんが生きていると判る』にとって、喋ることは重要だったはず。

 では、逆に動かない生き物、代表的にはおそらく植物、もしくは寝ている人間なんかも動かない。私はこれらについて、なにをもって生きていると『判って』いるか。

 結局は動いているということだろう。

 厳密には眠っている人間も厳密には呼吸とか寝返りとかで動いてる。更に厳密に言えば植物も長い時間の経過の中では動いている、というか成長している。そういうのをいちいち見て生きているかどうかを見分けているかと言うと違うと思うので、なにかで学習したり経験したりでいまそうなってなくても「おそらくそうなる」ぐらいの確かさというのは『判る』やりかたとしてありなんだろう。

 ああつまり、『判る』は『理解』よりあやふやな根拠を元にしているのか。

 私はどうやら考えるのも下手くそで、今の私は「下手なりに間違えない考え方」と「幹侍郎ちゃんのこと」の両方を同時に考えないといけない。私の考え方なんて本当はどうでもいいけど間違えたら困ることだから、どっちもやらないといけない。

 でも、本題は幹侍郎ちゃんのことだから、そっちに注意を向け続ける必要がある。


 ええと。

 色々な動物が生きているのを『判る』ためには、『動く』というところに大きな特徴がありそうなわけだ。

 『動く』というのは時間の経過が関わっている。

 見ていない時に動くのは、その時間経過を私が推測しているんだろう。

 ……まぁ、あたり前のことか。

 逆に、一瞬だけを切り取っても、生きているかどうかを見分けることには使えない、ということでもあるかもしれない。

 例えば、生者と死者を写真で見分けることができるかというと……。

 できることもあるような気がするなぁ……。

 というか最初にハルカちゃんを見つけた時にそういうアプリ使ったよな。死亡してる確率が判るやつ。

 逆に、なんでもない写真を見て、死者かもしれないとはなかなか思わない。

 それどころか、よくできた人形とかCGとかなんかだと生きてないものでも生きていると思ってしまう。ところが一方で、死者の写真という断り書きがついているものを見ると、なんだか明らかに死んでいるのがわかるような気分になることも多い。なんかこう、顔色がおかしかったりとか。

 これはつまり……、写真を見ても生死が判るという話は『生死を見分ける話』じゃなくて、見て分かったような気分になるという話か。

 つまり『判る』は間違えることもあるという話だな。

 ……脇道だから、考えて見るだけ無駄だったかも。

 いや、生きてるか死んでるかを間違えたら大変なことだ。

 判断をするにしても間違えないように注意しなきゃいけないってことだな。最低限の教訓があったことにしよう。

 そういう教訓があった事にして、話を進めるために視点を変えて、少し戻そう。

 『生きていると判る』ことのひとつは、継続的な時間的の連続性に依拠している。

 前の瞬間生きているものは次の瞬間はたいてい生きているし、いま生きているものはその直前にはたいてい生きていた。

『生きていると判る』うちのいくらかは、この程度の簡単な判断だけで解決している。

 動かなくなってしまった幹侍郎ちゃんは、その連続性からの判断ができない状態になっているはずだ。つまり、幹侍郎ちゃんの生死の判断のためには、もっと違う見分け方が必要になるのだ。


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