褪ぜ色の世界から想いを紡ぐ(パイロット版)
この世界を最初に観測したのは、近しくも遠い過去のことだっただろうか。色のある景色、命ある者たちが生ける場所。褪ぜ色の世界の住民である彼からしてみれば、まさに未知の領域であり、美し過ぎるぐらいに光溢れる世界だったのだ。
ここに来たのももう1ヶ月程前のことだったか。まるで外国の文化をひたすら学習するかのような手探りの受験勉強を経て、春路輝志はこの世界の高校に合格した。即ち、輝志は褪ぜ色の世界もとい黄泉の国から現世を生きる高校生となったのである。
現世は黄泉の国とは違い、気温の概念も痛覚や空腹感もあるため輝志にとっては文字通りの未知だった。生きている人間の感覚については、黄泉の国における義務教育の科目の中で学んだことがあるので知ってはいたが、実際に自分が当事者になってみるとちょっとしたカルチャーショックを受けた。
これが生きるということなのか、ありとあらゆる感覚を通して人々は生きているということを実感するのか。感情はあれど、感覚を知らなかった黄泉の国の元住民は、現世に降り立って初めて生を知った。
そして今日も輝志は、自らの好奇心が赴くがままに日常生活へと溶け込んでいく。自身等の学び舎へと続くアスファルトを歩き、周囲の同級生や上級生たちと同じ方向に向かっていた。
そんな中で輝志は、後方から迫り来る視線を感じてそちらを振り返ろうとするが、先に当人が彼の視界の中へ入り込む。
「…………………」
何かを言いたげなニヤついた表情で輝志を見詰めていたのは、彼が所属している軽音楽部の3年生の先輩である稲桷想果だった。入部してから彼女もメンバーに居るバンドに入れてもらい、そこからたちまち仲良くなっていった間柄である。
艶やかな黒髪のセミロングにゆるキャラのような可愛らしさを振り撒く小柄な女子の先輩は、輝志と視線が重なってから5秒以上も無言を決め込んでいる。なんとなく言いたいことは分かったような気はするが、輝志は自然な流れでその沈黙を破ることにした。
「想果さん、なんですか?」
「おはよ、ハルくん。いやー、気付くかなーって思ってさ」
朗らかに会話を進める想果に対し、輝志は彼女に調子を合わせるつもりではにかみながら答える。
「あんなにまじまじと見られたら嫌でも気付きますよ。てか視線を感じますよ」
「ええー? マジでぇー?」
「マジです。想果さんからの視線で僕の背中に穴が開くかと思いました」
「それはヤバいって! どんだけ私の目力が強いんよ!」
「あはは、下手すれば凶器に出来るかもですね」
ユーモアかギャグセンスか。他者との会話を重ねる楽しさは、現世も黄泉の国でも一緒だ。中学時代をともに過ごした輝志の同級生は、今頃黄泉の国で死者の魂を導く案内人の卵として勤しんでいることだろう。
だからこそ輝志は思う。本来の業務とは別の課題として、自分のやりたいこと、自分の望む進路へ送り出してくれた両親や現地での友人たち、はたまた世話になった黄泉の国の中学校の恩師へ感謝したいと。
「凶器って何なん……。それよりハルくん、いつもより顔が青いように見えるけど気のせいかな? 身体がだるいとか、吐き気がするとか、そーゆーのない?」
気を遣っての言葉だったが、想果は思わぬ地雷を踏んでいた。しかし、自分の身体的な特徴から由来して仕方が無いことだと分かっていたので、輝志は何でもないことのように受け答える。
「ないですね。寧ろ僕のコンディションは朝からメチャクチャ良いぐらいです。だんだん暖かくなってきているからっていうのもあるんでしょうか」
「あー、じゃあ、私の気のせいか。逆に調子が良いなら良かったよ」
「ええ」
いってしまえば、春路輝志は生まれつき地肌が生気を失った死人のように青い。それは美白を越えて、碧空の如き青さだといえよう。学校指定のカッターシャツも青み掛かっているので、遠目から見れば上半身裸にネクタイを締めているというなんともシュールな格好に見えるかも知れない。
また別でいえば、先刻のように顔色による体調の良し悪しの判断が難しいのは顕著だ。普段彼と関わっている人間が慣れれば話は変わってくるだろうが、基本的に体調が悪い時は本人が相応の対応を取るだろう。
程々の距離感で、互いに譲ることなく他愛もない会話を交わしているうちに輝志と想果は下駄箱の前に到着した。ここからは教室までの道のりが違うので、たちまち2人はここで解散となる。
「じゃあ、また部活で会おうねー!」
「はい、今日もよろしくお願いします」
次に想果と会うのは、放課後の予定だ。癒しを感じさせる愛らしい笑顔を浮かべて手を振る想果に、輝志も柔らかくかつ礼儀正しさを一貫して見送った。あとは輝志も自身の靴箱に通学用の黒いスニーカーを預け、上履きに履き替えてから教室に向かう。
朝のホームルームから始まり、10分の休憩を挟んでから午前中の授業に移行する。現世での授業も、慣れを覚えてきている感じがするが、輝志としては分からない。黄泉の国の住民であろうと現世を生きる人間だろうと、高校の授業とはこういうものだと割り切って目下の学習に臨む。
それぞれ50分ずつの4つの教科を終えると、昼休憩に入る。昼食を取る時間帯において輝志は、現世に来て初めて出来た同性の友人と食堂へ行く。
昼休憩に食堂へ行くのは、輝志の日課だ。そして、毎日メニューが変わる日替わり定食は、彼にとって密かな楽しみだったりする。割と午前中の授業は、その期待でモチベーションが保たれているといっても過言ではない。自分で何を食べようかと考えるよりも、ある程度受動的に構えておいても食事がマンネリ化しないのは有難いことである。
次いで、午後からの2時間の授業も終わると、放課後前のホームルームを経て音楽室へ向かう。同じ学年の部員とともに室内に入ると、想果たちと合流した。後方に控えている2人の3年生も、輝志たちに注目している。
「待ってたよー!」
「よーし! ハルちゃんらも来たことだし、早速始めようか!」
バンドのリーダーであるボーカル担当の3年生の号令のもと、各々配置に着き、練習を始めた。ギター、ベース、キーボード、ドラム、ボーカルによる歌唱。それぞれが奏でる音が重なるように、彼等の命も清らかな輝きを放つ。
そして、現世で蠢く影と、黄泉の国から派生した光がもたらす明日とは如何なるものか。