夢なんかじゃないじゃない
この意識の冴えはなんだ。昨日は丸一日、眠っておったのか?夢の中にあったように現実感が無い。酒のせいでもない、はずだ。この見慣れぬ拳だけが、昨日と今が夢ではないことを告げておる。
俺は、確かに夢を視た。
「馬鹿め」
今は夜明け前か。夢を見たのではない。記憶を視たのだ。俺は、勇士の見たものを視たのだ。
目の前で牛の如き魔獣に突き飛ばされる我が子ら。抱き上げ、その手を真っ赤に染める。託す。走る。走る。走る。
そういった記憶の断片だ。焦燥が駆け巡る。
「さて、どうしたものか」
俺がやるべきは決まっておる。勇士の記憶を問い詰めるのだ。日の出の刻まで、あとどれ程残されておるのか。俺はなんとしても言霊を探し出し、記憶を呼び覚まさねばならぬ。
そしてだ、俺は、馬鹿な俺の尻拭いをせねばならん。昨日の俺は、一体なんだ。何をやっておったのだ。状況把握もままならぬ状態であれこれと喋り過ぎだ。不完全な記憶に当てられ、事を急ぎ過ぎたか。俺は身支度を手早く済ませ、宿を飛び出した。
空が色を取り戻した後、マハルらは約束通りに馬を引き連れて修練場に現れた。俺は勇士からの聞き取りを終え、相棒をぶん回しておるところであった。すぐさま相棒を地面に突き立て、俺はそれを前に座した。
「物々しいな。いつもこうなのか?」
マハルの手勢、と言うべきかは分からぬが、五人組は二十騎ばかりの一団に増えておった。
「いや、そうではない。今日は特別に多い。貴様を無事に、サトへと帰してやらねばならんからな」
マハルは馬上から建前を述べた。俺は落胆と共に、ひとつの覚悟を決めた。
「そうか。律儀な奴だな。これ程の人数を揃えられては、俺も改めて、筋を通さねばならん」
こやつらは初めから、俺に道案内をさせる腹積もりだったのだ。強かなことだ。己の迂闊さに腹が立つ。
「偽り無く話そう」
偽りは、残念ながら続く。死人が蘇ることなど無いのだ。だが俺は、新たに得た記憶を基に、まずは筋を通さねばならぬ。そのために相棒を前に、こうして正座しておるのだ。
「どうした?まさか、サトなどという村は無い、と?」
マハル以外の者は口を閉じ、それぞれ馬上で控えておった。その中でキユィルだけが馬から降り立ち、剣の柄に手を添えた。
「その話に嘘は無い。誇張があったのは、我が子らの怪我について、だ」
「誇張?」
「あぁ。冷静になって思い返すと、子らの怪我は致命傷ではないかもしれん、とな」
当然、これは勇士の記憶を探る過程で、新たに見知ったことである。頭の傷は酷いものだったが、深くはなかったのだ。勇士はあまりの出血に気が動転しておったか、はたまた獣傷であることを重く見たのか。周りの者の説得にも耳を貸さず、郷を飛び出した。
「傷は大きく、出血はひどいものだったが、その身体が冷える程ではなかった。それに、俺の子だ。俺は、ただ見ているだけに耐えきれず、救いを求めて郷を飛び出したが、きっと大事には至っていまい」
勇士はこれら全てが分かっておりながらも、郷を飛び出さずにはおれんかったのだ。そして死んだ。馬鹿だ。大馬鹿者だ。お前が死んでどうする。お前は愚かで、俺はその気持ちが、よう分かる。親だものなあ。父親ならば走るのだ。そうであろう、勇士よ。
「そう思うと、我が子の命だけを大切にし、お前達の命ばかりを危険に晒すというのは、人の道から外れていると思ってな。だから、こうして打ち明けることにした」
馬鹿なお前は、この世に未練を残したのであろう。であるから、化けて出おったか。何故、このような不完全な形かは分からぬが、お前の執念が蘇りを生んだのだ。こうなったからには、万事、俺に任せておけ。
マハルは押し黙り、キユィルは柄から手を離さずに、じっと力を溜めておる。
「俺は、それでも心底から助けを求めている…さぁ、俺は全てを偽ることなく話したぞ!」
だが、こちらに不利は無い。上体に気は満ち、下肢は備えが済んでおる。相棒は、半歩の間合いの内におる。
「お前達には、お前達の目的があるのだろう。それを隠し、今尚、建前を語ると言うなら、俺にも考えがある」
上体の気が周囲を侵すと、表情を殺したデニオル翁の手が槍に伸びる。
「さあ、言え!南の地に何を求める?まさか」
それでも後には引けぬ。俺は既に、マハルらに情報を与えてしまっておるのだ。
「郷を侵す、というつもりではあるまいな!」
郷に災いを持ち帰る訳にはいかぬ。子らを見捨てる訳にもいかぬ。ならば俺は、自分の不始末を始末する他あるまい。筋は通した。腹にも決めた。あとは、マハルらの真意を測るのみ。
はち切れんばかりの気を溜め込み、声に雷、目に炎、鼻には嵐、胴に岩。俺は有らん限りの気迫を、全身から発揮したはずであった。
「短慮?じゃない、短絡的?ううん、盲目的だった?」
ところが、マハルは気の抜けた声を発するばかりで、まるで動じておらん。鈍感、いや違う。豪胆と言うべきか。内にあった気は、僅かに乱された。
「私はな、楽しみにしていたのだ」
その隙を突くように、マハルは一歩、ゆるりとこちらに近付きおった。
「面白い男だ、とデニオルが盛んに褒めるのでな」
更に一歩、マハルは歩みを進める。気を整えたはずが、それは再び乱された。それは武人ならば、容易には踏み込めぬ一歩のはずであった。
「だが、どうだ」
そして、もう一歩。マハルが踏み入った場所は、俺の刀圏だ。俺が立ち上がり、相棒を手にすれば、マハルの命に届くのだ。何故、ここまで無防備に歩めるのか。武術の手解きさえ、未だ受けておらんのか?
「今日の貴様は、手負いの獣のようではないか。何があった?」
一歩、二歩、とマハルの歩みが止まることは無かった。殺気の欠片も感じさせず、悠々と。デニオル翁のものは、詰め寄る、ではなかった。詰め寄るとはこのことを指すのだ。今やマハルは、俺が見上げる位置におる。
「これでは詰まらん」
殺気があるのは俺ばかりで、マハルが相棒に手を伸ばしておるというのに、離の気配はまるで無い。
「私は貴様の子らを救いたい。他意は大いにある。害意は無い」
マハルは相棒を手にすると、口元の動きも静かに囁いた。そして、相棒の柄を俺に差し向けたのだ。
「言葉が足りんか?だが、これ以上は言えんぞ。また、司祭殿に叱られてしまうからな」
穂先はマハルを向いておる。最早、興味が先に立ち、俺は右手で相棒を握り締めた。予想の通りにマハルの瞳は微塵も揺るぎを見せず、俺の瞳を貫くのみである。
「そろそろ行くぞ。貴様が行かぬと言うなら、私は太陽に向かって走るだけだ」
マハルは相棒を手放すと、くるりと背を向けた。凄まじい女だ。俺には決してこなせぬ芸当だ。
「よくぞ堪えた、キユィル!私は嬉しいぞ」
それにしてもなんだ。己の不始末をどうにかするはずが、これでは俺は、一人芝居に興じる阿保ではないか。なんのことはない。今の俺もまた、新たに得た記憶に当てられ、道化になっておったのだ。俺という奴は、何時になったら目を覚ますのか。
「今後も頼りにしている」
いや、そもそも俺という男は、偉ぶるばかりが達者で、利口ではなかった?武士たらんと、立派に見せようと、着飾っておっただけであろうが。身体ばかりが大きゅうなって、偉くなったと勘違いしておったのだ。俺の素は勇士と同じく、阿保で、武道にのめり込む粗野な男に違いないのだ。うむ、阿保で結構。
よろりと立ち上がると、空を仰いだ。己を知ると、相棒をぶんと回し、この固い頭に打ち付けた。
思いの外、衝撃が強かった。今の相棒は、以前の物よりも重いということを失念していた。やはり俺は、アホだな。大地が揺りかごのようだ。
「何をしている?けじめのつもりか?」
右頬にへばりついた地面?違うな、地面から身体を引っ剥がすと、すぐそこにマハルの手があった。
「そうだ。疑って悪かったな」
「阿保。私達が本当に侵略者ならどうする。私達を疑い、見極めることが必要なのだろう?見極めは、まだ済んではいないはずだ」
「…そうだな」
俺などよりも、余程利口だ。一度、ここまで疑いを向けたならば、下手な和解はむしろ害悪になろう。納得がいくまで疑ってやろう。
「郷は遠い。それまでには見極めも済むだろう」
俺はマハルの手を借りた。確かめたいことがあったからだ。
「お前の判断次第では、私達は魔獣の巣窟で迷子になるという訳だな」
マハルの手は武人のものだった。こいつと試合ったならば、どうなるのか。勝敗は全く検討もつかないが、心踊るに違いない。
「そうだ。誰もが不幸になる。だからお前達は、懐柔に励むといい」