余力なんかない
誰が呼び集めたのか、枯れ山のようだった修練場には、いつしか兵が狂い咲いておる。となれば当然、一人稽古で終わるはずもなく。俺の鍛練は、すぐに試合へと移行した。デニオル翁は、試合の規則をあれこれと説明しておったが、俺にはよく分からぬ部分も多かった。
十数人と試合ったが、俺が負けることはなかった。慣らしには十分だと俺が満足したところで、デニオル翁は複数人を相手にしてみせろと宣った。デニオル翁め。俺の武を試そうと言うのだな?しかしだな、こういった展開には慣れている。実のところ、俺も嫌いではなかった。鍛練に参加したいという熱心な者達は列を成しておる。互いに手加減は無用。ならば。俺はいつも通りに、穂先を外すことを提案した。
二人を相手にしておる内は、まだこちらにも余力があった。それが三人に増えると余力は無くなり、四人となると不覚を取ることも、ままあった。
「明日は日の出の頃に、ここへ来い。必ずや、約束を果たそう…で、だな」
では、相手が五人となると、どうなるのか。
「何故、五人を相手にすると負け無しになるのだ?四人の時は手を抜いておったのか?」
途中何度か休憩を挟み、試合を延々と続ける内に、気付けば日暮れとなっておった。ようやっと修練場から抜け出すも、デニオル翁は俺を逃がそうとはせず、耳打ちするかの如き距離で詰問を始めたのだ。
「本気でかかってくる相手に、手を抜けるか」
「では何故だ」
詰め寄るとはこういう事態を指すのだと、俺は今日この時、初めて知るに至った。詰問は良いとしても、デニオル翁の髭が、腕組みした俺の肘に何度も当たるのだ。それは俺の疲労を幾重にも増大させ、真面目に問答する気を失せさせた。
「相手が俺一人だからと、油断してたんだろう。四人で勝てたなら、五人なら楽だろうと」
決して、ちょいと意地悪く弄んで疲労を共有させてやろう、という悪戯心が生まれたのではない。そんな思いの一抹でもあれば、仁義礼智信。そのどれにも反するではないか。
「ワシの目には、そうは映らんかったがな?」
俺の目にも同じであった。デニオル翁が言うように、あの時は誰もが、俺に一突き入れようと真剣そのもの。穂先は無くとも真剣ならぬ真槍だ、と冗談めかすのも無礼な勝負事であったと認識している。で、あるからして、デニオル翁に告げた言葉も冗談だ。冗談であって、意地悪にあらずだ。
「ふふ。それなら俺が、四人を相手に不覚を取ったのは、手を抜いたからだと、本当にそう思うのか?」
「思わん。だから、尚のこと不思議なのではないか…」
デニオル翁の髭が遠くへ退き、それで俺は、種明かしをする気分になったのだ。
「俺は、ずるをしたに過ぎん」
だが、全てを明かすつもりはない。
「ずる、だと?」
デニオル翁は眉間に皺を寄せるかと思いきや、深く息を飲んだ。その素っ頓狂な表情があまりにも可笑しくて。ついつい、笑みがふふっと漏れ出た。デニオル翁よ。
「どう足掻いても敵わぬと悟り、得意を使ったのだ。ただ、それだけだ」
悪意あってのものではないのだ、分かってくれ。
「なんだそれは?使う?スキルか?」
デニオル翁の眉は尚も、鰻の如く泳いだ。が、今度こそは俺も笑みを堪えた。
「決め事だからな。誓って、スキルは使っていない」
スキル、は使うなと試合前に説明を受けておった。勇士の記憶によれば、奇跡的な現象を起こすものであるらしいのだ。俺はそんなものは知らぬし、使えるわけもない。
「ははは。武術の極意を、おいそれと人に話せるか」
「む。極意か。それならば仕方あるまい」
まっこと、デニオル翁は人が良い。それに良き武人じゃ。こう言えば詰問は止むであろうと思ったが、ここまでぴたりと止むとは。いつか、最後の種明かしができると良い。この御仁とは、これきりの付き合いにならぬと良い。
しばらく静かに歩いた後。デニオル翁は俺を宿に案内すると、好きなだけ飲み食いをしろと告げ、一人、去って行ってしもうた。これまで騒がしい刻を過ごしていたせいか、慣れぬ風情漂う宿のせいか。俺は心寂しい思いをしながら、広すぎる食台を前に座した。
「食えと言われても、のう」
一見して、見知らぬ食材ばかりが目に付き、一嗅ぎしては、慣れぬ香りに眉をしかめる。周りの客は、それぞれの好みに合うものを食っておるらしい。宿に立ち入る前から居酒屋の如しと思ったものだが、これは居酒屋そのものではないのか。今は選択の余地があることを喜ぶべきか?味も何も予想がつかぬでは、それを果たして選択と言い得るのか?ただの当て寸法ではないのか。選択できるというのも困りものである。店の者に尋ねようにも、こう繁盛しておってはその隙が無い。
「どうした?ずいぶん悩んでいるようじゃないか」
俺が周りの客の食う物をただ眺め回していると、声を掛けてくる者があった。俺はこの巨体が給仕の邪魔になるだろうと、わざわざ隅の一角を陣取っておったのだが、その男は断りもせず、俺の隣にどさりと腰を下ろした。
「悩んでいるわけじゃない。何を食うべきか分からず、様子を見ていただけだ」
真実を言えば、周りの酔客共が、なんと手掴みで料理を食らっておる事実に気付き、悩むどころか戦慄しておったところだ。
「悩んでいるじゃないか」
男は薄く笑うと、慣れた様子で給仕に注文を並べ立てた。その男の髪は全体的に長く、眉や耳どころか衣服の襟元にまでかかっておる。こちらでは、どうと言うことも無いのかもしれぬが、俺の目にはどうにも野暮ったく映った。
「何を食べるか決められないなら、飲むだけだな」
その野暮ったい男は給仕から、木椀にしては縦に長く、取っ手の付いた花差しのような物をふたつ受け取ると、片方を俺に差し出した。その細長い器を覗き込むと白い泡が見え、酒の匂いが鼻腔を襲った。
「酒は…」
俺は酒は好まぬ、はずであった。しかし今、勇士の鼻を通して嗅いでみると、これが悪くないのだ。いや、良い。こいつは?ふわりと柑橘の香りまで放っておる!飲まずにおれようか。俺は盃を右手に、ぐいと喉に流し込んだ。
「おお。実に良い飲みっぷりだなぁ」
これだ。間違いない。俺が第一に選択すべきは、こいつだったのだ!一息に飲み干してから、俺は喉の渇きを思い出した。うむ、分かったぞ。勇士は相当の酒好きである、と。この酒が特別に俺の好みなのかもしれぬが、恐らくそれだけではない。肉体が、酒を欲しておるのだ。
「これなら、いくらでも飲めそうだ」
「ははは!こいつが駄目なら、人生はつまらんものだからな」
野暮ったい男は、俺が聞き飽きた文句を垂れながら、自らも盃を大きく傾けた。酒飲みというものは、何故、口を揃えて同じようなことを宣うのか。まさかとは思うが、酒が飲めるようになった俺も、いつしか同じことを口走ってしまうのであろうか。
「そんなことはない。さっき、お前が言ったことの逆だ。飲めんなら、食い道楽に走るだけだ」
喉が潤うと滑りまで良くなり、俺は、今日は、のように手近な給仕に声を掛け、今晩は、のように同じ酒を注文した。給仕の手間を減らしてやろうと、2杯一度にだ。
「飲兵衛のくせに、下戸のような理屈を言うやつだなあ」
野暮ったい男は前髪を掻き上げると、そのままの勢いで盃を干した。
「飲める者は、食うのも楽しめる。だろう?ふたつあるからこそ、ひとつずつには無い幸福も生まれる。あぁ、飲兵衛のなんと幸せなことか」
酔いの回りの早い男だ。
「ふん。酒以外にも、幸福はごまんとある」
給仕が盃を両手にいくつも持ち、寄り道しながらもこちらの食台へと近付いて来おる。そんなものをじくりと眺めるぐらいには、俺も飲兵衛に近付きつつあるのかもしれん。こちらの食台に満杯の盃がふたつ届くと、野暮ったい男は当然のように、ひとつを掻っ攫った。
「あ!おい、こら!お前のために頼んだんじゃない」
「なんだ、そうなのかい?気の利く奴だと思って損をした」
野暮ったい男は憎まれ口を叩くと、しかししかし、盃を返すこともなく、あろうことか無断で口をつけた。なんという奴だ。
「なんて奴だ」
そこへ別の給仕が、料理の盛られた皿をふたつ、俺達の前に並べた。すかさず酒を3杯ばかり頼むと、俺はもう、一欠片の躊躇もなく、素材も味の予想もつかん食い物に手を伸ばし、大口で齧りついた。
「他人の料理に先に手をつけるとは。とんでもない悪党だなあ」
「お前の言えたことかっ」
最早、野暮ったい男への気遣いなどは消え失せた。これが周囲に対しても作用し、給仕を呼びつけるのにも抵抗は失せた。そしてつまりは、デニオル翁に対しても、だ。俺は翁の言った通り、腹がはち切れるまで飲み食いすることを腹に決めた。