覚えてなんかない
帰らねば。
「━━のだ?」
我が家へ。家族の元へ、帰らねば。
「おい、貴様!聞いているのか?!何者かと問うている!」
「ぐおっ?!」
右の腿に鋭い痛みが走る。それが気付け薬代わりとなったか、宙空を漂うようだった意識が頭蓋に収まりをみせた。あたかも今、初めて眼を開いたかのごとく、視界が明るく開く。目前では長身の女子が、長剣を油断なく構えておる。腿の痛みは、収まるどころか膨れつつある。女郎め!大女め!武士をよくも打ち据えおったな?あまりの怒りに、我が心身は備えを万全とした。
「もう一度だけ、機会をやろう!」
が、状況は依然、飲み込めぬ。その大女は闘志を隠そうともせずに、更にけんけんと吠える。この女は、ワシの巨体が恐ろしくはないのか?男勝りの堂々たる佇まいに呆気に取られるという不覚。ワシは再びぼんやりと、大女の顔を眺めることとなった。されど、此度のぼんやりは、ほんの瞬き程の間のみであった。
その女子の顔立ちは、
「貴様は」
「おゆき…?」
我が妻、ゆきと瓜二つであった。そうだ、ゆきではない。我々の声はぶつかりあって、しばしの沈黙がその間に落ちる。その女子が妻のゆきではなく、別の人物であると判別できたのには明白な理由があった。ゆきの髪色は真っ黒であり、どう見間違おうとも桔梗の花のような色をしてはおらなんだ。
「オユキ…?私はそのような珍妙な名ではないぞ」
大女は冷たく言い放った。髪色もそうだが、ゆきが甲冑を身に纏った姿など、ワシはこれまで一度たりとも見たことはない。
「…貴様は何者だ?ギルド証を見せよ」
大女の更なる追及。しかしワシは、それに応えるどころではなかったのだ。実を言えば髪色や甲冑などは、些細な問題であると言えた。ワシは、その間にあるべきものを探していた。無い。いくら見ようとも無い。ゆきの色っぽい涙ぼくろが、この女子の右目には無いのである。ゆえに目の前の大女は、断じて、ゆきでは有り得ぬ。ワシが惚れた女ではないのだ。
「…無くした、とでも言うつもりか?」
しばしの静寂の後、大女が続ける。ぎるどしょう?と言ったか?そんなものは知らん。と、ワシはまず、大きな鼻息で応えてやった。
「ぎるどしょう、とはなんだ?」
見せろと言われようとも、それが何であるかも判然とせん。ワシはそれを、素直に口にしてやっただけに過ぎんのだ。が、誰何されたものに答えぬ、というのは相当に悪手であったらしい。大女のすぐ後ろにいた四人の男共の目が、その手にある抜き身の剣と同様の尖りを見せた。
「ギルド証を持たないとなると、逃げ出した戦奴では?」
年嵩の男が一人、こちらに目と切っ先を向けたままに口を開いた。こちらから目を切ることなく、大女は小さく首を振る。
「いや、違うな。これほどまでに目立つ男は、私の記憶に無い」
「私の記憶にもございません」
また別の男がそれに応じた。ワシの問い掛けには誰も答えぬまま、その小柄な男が一歩、こちらに進み出た。
「おい、お前!ギルド証を知らぬなどとシラを切るなら、せめて職と名を明かすがいい」
「職とな?」
職。自らの生業、責務。あぁ、お懐かしい、爺殿。
「…おう。ワシは武士じゃ」
振り払ったようで、ワシの頭のぼんやりは消えてなどおらぬ様子。自らが何者であるのか、そのようなことでさえも沈考せねばならぬとは。まったくもって情けない。が、然もありなんと、傘屋の長兵衛ならば共に笑うてくれることであろう。世に葵が満ちて、百年は優に経つと聞く。武士と言えども名ばかりのもので、ワシは戦というものを知らぬ。
「ブシ?聞いたこともありませんが、職業のことを言っておるのでしょうか?」
「きっとそうだろう。この風体では、職については聞くだけ無駄かもしれん」
お前たちこそ何者だという言葉は、今は飲み込んだ。大女達の会話には、ワシの理解の及ばぬものが散在しておる。下手に口を開いては、状況を不利にするばかり。であれば、現状の把握に努めるが吉とみる。うむ。それこそが最善の策である。と、ワシが黙しておると、大女は今一度、構えた長剣に力を宿した。
「…名ぐらいはあるのだろう?答えよ」
名、か。あるに決まっておる。名を明かすぐらいは問題なかろう。此度は鼻息を抑え、ワシは口だけを大きく開いてやった。
「無論だ。ワシは有栖…」
しかししかし。大女にそこまで言ったきり、あるはずの続きが口から出ることはなかった。ワシは誰だ?いや、ワシは、オレは?
「アリス?女のような名に聞こえるが?」
いや。そうだ。我は。
「我はアルスだ…?」
「…アルスというのか。ふむ」
浮かんだその名は様々な声音となって、耳の奥でいくつも響いた。ワシはワシではない?引き寄せられるように手を見ると、両の手のひらに剣ダコはなく、くるりと手のひらを返せば、あるのは拳ダコだ。
「では、アルスよ。貴様は酔っ払いか?そうでなければ、怪しい薬でも服用したのではあるまいな?」
薬。その言葉を耳にしただけで、なにやら走り出さねばならないような、奇妙な焦燥感に囚われた。
「馬鹿を言うな。我が、酒や毒薬なんぞに負けるものか」
もちろん我は、そんなものに酔わされる程、やわではない。そう、我は郷のアルスなのだ。それを自覚すると、噛み合わない記憶が喧嘩を始めて頭がずきずきと痛んだ。
「お嬢に向かって馬鹿とは、なんっと無礼な!叩き斬ってしまいましょう」
「…お嬢って言わないで」
記憶の混乱は収まりそうもない。今はそれどころではないというのに。威勢のいいオヤジの構えには、殺気が混じっておる。大女はそれを諫め、ワシに鋭い目を向けた。
「それでは貴様は、どこから来て、教会で何をしていた?…いや、この町で何をしている、と聞いた方が良いか?」
何をしているか、だと?いや、そうだ。我は何か、大切な用事の最中ではなかったか。
「我は」
誰かが怪我をした。そうだ。そうだったのだ。そして、我は薬か治癒師を探して、マチまで来たのだ。
「…いかん!こうしてはおれん!早く薬を持って帰らねばっ!」
ところが。いくら懐を探ろうと、大切にしまい込んだはずの軟膏や煎薬は、どこにも無かった。我が呆けている内に、何者かに奪われてしまったのだろうか。
「なんだ?病人か、怪我人でもいるのか?」
「そうだ!ひどい傷を、頭に…だから我はっ、マチまで来たのだ」
その傷を負ったのは誰か。年嵩の男と大女が、一歩こちらに歩み寄るも、我の肉体はそれに反応することもできなかった。
「なんと…それが本当なら、教会から出てきたのも頷ける」
「…それは、貴様の肉親か?」
何故、これほど大事な記憶を今の今まで忘れていたのか。思い出せなかったのか。
「そうだ」
そう。それも、二人だ。幼い、愛しい、かけがえのない。
「我の娘と息子だ」
我がその答えに辿り着いた頃には、場にあった殺気は消え失せていた。
「この辺りで治癒師がいない村となると、ハイセか、それともラムドの住民か?」
大女が問い掛けた。
「どちらでもない。我は、郷から来た」
ただ、殺気は無くとも、大女の手にある剣は鞘に収まってはいない。しかし、こちらの警戒は、どうしようもなく完全に解けてしまっていた。我が子の命が危ういという時に、その存在すらも忘れていただと?我は底抜けの阿呆だ!この人でなしめ!
「サトだと?知らん名だな」
「まさかとは思いますが、国境を越えて来たのでは…?おい、その村はどこにある?」
打ちのめされている場合か。コッキョウとは何か知らんが、我が何処から来たか。それは、先程思い出したことのひとつだ。
「南だ。ひたすら走って、ここまで7日ばかりかかった」
「南!?」「南だと?!」「この砦より南に、人里が…?」「有り得ん。嘘も大概にしておけ」
嘘も何も、我は間違いなく南からやって来たのだ。ひたすら太陽を背にして走れ、との長老の言葉を信じて。冷ややかな言葉の数々が、既に冷えきった心を突き刺した。尚も男共が口々に疑いの声を上げる中、大女は、しかし静かに納刀した。
「信じ難い…が、ただの嘘や言い逃れとも思えん。そして何より、だ。この男の言うことが本当ならば、我々には大きな希望にもなる」
「嘘じゃない。早く解放してくれ。急いでいるのは分かるだろう?」
自慢の健脚を披露してやろうかと思って、止めた。薬を手に入れるには、対価が必要なはずだった。対価として持ってきた毛皮や宝石は、既に使い果たしている。ならば、この偉そうな大女に懇願すれば聞き入れてもらえるだろうか。黙り込む大女の口元は、不敵な歪みを持っている。甘い期待は捨てるべきか?どう足掻いても願い叶わぬというなら。今の我には、畜生に身を落とす覚悟すら存在する。
「…この町を守る者として、まだ解放するわけにはいかんな。貴様の言が真であるにせよ、領内に侵入した不審者であるという事実に変わりはない」
大女の脅しに屈することなく、さっと周りを見渡せば、この場が高い塀に囲まれていることが分かった。脱出口は、こやつらの後ろにある門扉ひとつきり。
「頼む。これ以上、時間を無駄にはできん」
我は本心から告げた。が、こちらの視線か、漏れ出た覇気から察したのか、小男が再び剣を構えた。それには反応を見せずに、大女はまたも、ニヤリと歯を見せた。
「いいや、それでも待ってもらおう」
我にはこの拳がある。五人だろうと、十人だろうと倒してのける自信がある。だが、その後はどうするのか。
「貴様の言い分が真実であるかは、いずれ分かることだ。事実だけを話せば、捕らえはせんと約束しよう」
大女の言うことは理解できても、それを丸飲みになどできようか。運良く無傷で逃げおおせたとしても、薬もなく郷に逃げ帰っては、マチまで来た意味が無いではないか。
「見返りも用意するが、どうだ?」
甘い誘惑。この大女を信用して良いのか?判断できる材料が少な過ぎる。迷っている刻も無い。が、ここに至って大女自身が口にした、希望という言葉が気にかかった。我の話す内容が何らかの対価となるなら、そこに賭けるのは分の悪い賭けではない。きっとそうだ。
「見返りだと?」
「薬が必要なのだろう?貴様の持つ情報が、我々にとって価値の無い物だったとしても、身柄の解放と薬だけは確約してやる」
向こうから切り出してくれたのは好都合だ。が、ここまで我に譲歩する理由はなんだ?疑念はあれど、どこまでも刻が惜しい。
「…分かった。ただし、この場でだ。手短に頼む」
ええい、理由など知るものか!見返りを反故にするというのなら、今度こそ獣になるまで。我は腹を括ると、土の上にどすんと胡座をかいた。
「お前達もいい加減、剣を収めよ。話の邪魔になる」
大女がぴしりと告げると、男共四人は大人しくそれに従った。やはりこの五人組の頭目は、この大女で間違いないようだ。いざ、となれば大女を盾にするが良いだろう。そう考えた所で、火箸を押し付けられたように頭が痛んだ。
吐き気が込み上げ、自分が座っているのか、それとも地面をのたうち回っているのか。身体の感覚を完全に失った。その刹那、ふたつの死が身体と精神を駆け抜ける。刀で、肩から背を一筋に。身の丈を大きく超す鱗の化け物に、たったの一噛みで。
そうだ、ワシは。我は。あの時、確かに死んだはずだった。
「ねえ!ちょっと、あんた!怪我でも隠してたの?!」「おやめ下さい!近付いては危険です!」
身体の感覚が戻ると、嘘のように頭の痛みは消えておった。
「ここは、地獄か?」
右頬に張り付いた地面を。いや、地面から身体を引き剥がそうとし、断念した。未だ視界が定まらん。激痛の名残りであろうか。どうやら今度は、とんでもない目眩の最中にあるらしい。
「いいえ、ここは地獄ではありませんよ。神の代弁者を気取るつもりは毛頭ございませんが、その神に誓って、私が保証致しましょう」
五人組の誰でもない男の声が、はっきりと否定した。爺殿に似た静かな声だと、ワシの記憶が囁いた。
「司祭殿…とんでもない騒ぎを。申し訳ない」
「いえいえ、事情があることは察しておりますよ。どうでしょう?体調の悪そうな方もいるようですし、中にお入りになられては?幸いにして、まだ朝も早く、礼拝堂には誰の姿もありませんから」
シサイドノとやらの提案は、到底承知できるものではなかった。気遣われておるのだろうが、これ以上状況を悪くするのは勘弁願いたい。目眩の残る頭を叩き起こして、俺は再び胡座をかいた。
「いや、その必要は無い。ここで結構だ」
腹に力を込めて発すると、ようやく五体に気が満ちた。
「お前が言えたことか!」
小男がいち速く吠えた。実際、その通りだ。俺には分からないことだらけなのだ。しかし、この世界は、地獄ではなくアルスが生きていた世界なのだというのは理解した。アルスとは、硬い拳ダコのある、この屈強な肉体の持ち主であった。そのアルスの子らが、郷で治療を待っておるのだ。ならばその肉体を授けられた俺が、代わりにその子らを救ってやる義理があるはずだ。
仁義礼智信。結局、俺は爺殿の仰った通り、そのどれもが最後まで未熟なままであった。なればこそ爺殿は、勇を持て、と遺されたのだ。ワシはそれに従い生きて、死んだのだ。そして今、爺殿に頂いた言葉は、どれも俺の中に生きておる。
「先程は醜態を晒し、面目ない。しかし、急ぎ、救わねばならん命があるのだ。問答なら今、この場で。何なりと訊くがいい」
ワシの、武士としての心根は、死しても朽ちるものではなかった。俺が何者であるのか。武士か、勇士か。どちらか分からぬのであれば、俺はその両方であれば良い。差し当たり今は、首尾よくこの場を抜け出すことが先決であろう。