そんな専門家なんかいないっす!
それぞれに身を隠しながら、前方の叢を探る。岩に限らず死角は多い。だがその中にあって、魔獣の巨体は威容を保っていた。数は三。俺達の前方五百歩ほど先を、猪の如き紫色の四足獣が闊歩している。それは絶景の中に空いた穴のようで気色が悪く、何より不吉だった。魔獣を回避するという選択肢は早々に排除された。復路の障害を減らすというよりも、後背を強襲されるといった不測の事態を避けるためだ。
「二体は我々五人が、確実に仕留める」
魔獣の討伐を決定すると、マハルは続けてそのように宣言した。フルルとリース、バラン、そして未だ名も知らぬ兵士の一人は、全員分のラバンと共に崖を上がりきる手前で待機している。つまり。
「残る一体は、俺とトレットで相手をすればいいんだな?」
「絶対に無理っす!!」
トレットはすかさず喚き立てたが、俺の方に不満は無い。勇士の記憶も任せろと囁いている。
「我々も三体同時となると、万が一があるからな。貴様等は、時間を稼ぐだけでいい」
二体程度では、万が一の心配すら無いのか?これが虚勢でないのなら、マハルは予想していた以上の豪傑である。
「そうか。それでは、その言葉に甘えるとしよう」
「貴様の手に余るようなら、いつでもこちらの陣に飛び込んでもらって構わんぞ」
と、集結した配下四人を背に、マハルは口元も涼やかに言ってみせた。なんと小癪な。闘志に火が付き、そこから火炎を吹いた。この挑発の真意など知るものか。武士が、武人がここまで言われて引き下がれるか。
「ならば初手はお任せ願おう。魔獣より向こう側は、索敵すら十分ではないだろう?お前達が組む陣とやらの所まで、俺が、魔獣共を連れてきてやる」
「連れてくる、だと?それなら呼び込めば良いだろうに」
マハルの奥、デニオル翁の眉がぴくりと動くのが見えた。先の約束通りに、マハルの指示に従った結果、こうなったのだ。従って、この提案は約束破りではない。
「未知の魔獣が現れた場合、全滅の恐れがある。それはなんとしても避けねばならん」
「ふむ。確かにその通りだ」
マハルは感心したように三度頷くと、僅かばかり頬を緩めた。
「俺があちらに向かって走りつつ、付近の捜索も済ませよう。魔獣の数が増えるようなら、俺が時間を稼ぐ。手に負えんとなれば遠慮無く切り捨てろ。お前達は迂回するなりして、南を目指してくれればいい」
「ほう。そんな役を任せて良いのか?」
俺は背にある二本から相棒だけを掴み取り、三歩後ろに下がった。穂先に気迫の全てを込める。
「あぁ。撃破可能な数ならば、そこから二体だけを引き付けろ」
力みは無用。相棒を手放さぬ程度に優しく持ち、ただ、横に振るうだけだ。さすれば、穂先は光る筋となって、岩の先端に真一文字を描いた。
「残りは俺達が面倒を見てやる」
「自信満々といったふうだな。大変結構。その案に乗るとしよう」
マハルが大きく頷いた時、ぼとりと岩の欠片が滑り落ちた。手頃な大きさとなったそれは、左手に備えておくこととする。
「準備に時間は必要か?俺の方は、これで準備が整った」
「いや。すぐにでも連れてきてもらって構わん」
そう言うマハルは、弓手に長剣、馬手に盾、とラバンから下りた時のままの武装である。長剣はまだしも、胴がぎりぎり隠れる程度の盾が魔獣討伐に役立つとは到底思えん。それだけに面白い。きっとあの盾には、何か仕掛けがあるのだろう。他の四人も闘志を滾らせている様子。あとは。
「トレットはここら辺りで、弓矢を構えておけ」
下手に付いてこられても、後が面倒だ。俺がそう言ってやると、トレットは露骨にほっとした顔を見せた。きっとこやつも、成り立ての武人なのだろう。俺は相棒を肩に担ぎ、岩影から飛び出した。
「では、行って参る」
「気を付けるのだぞ!」
そのデニオル翁の声は背中で聞いた。言われるまでもない。準備運動も兼ね、魔獣に向かって一直線にひた走る。加速はほんの一瞬のことだった。ここで俺は初めて、この肉体の全速を体感した。
「ははは!とんでもない速さだな」
自らが鏃になったようだ。空を切り裂く音まで聞こえる。あまりに速いために、索敵する目も大変に忙しい。ほんの二十秒ほどで、魔獣までの距離は半分以下に縮まった。その速さにも驚いたのだが、それだけではない。全速で駆けているというのに、息が切れんのだ。一体どのような鍛練をすれば、こうなるのか。
「勇士よ!お前の肉体はどうなっている!」
不思議なことに、駆けるうちに様々な記憶が開示された。が、その思い出に触れるのは後回しだ。魔獣がこちらに気付いたらしく、どかどかと喧しく駆け出したのだ。俺は速度をそのままに、大回り気味に進路を反転した。
「追い付いてみろっ」
魔獣共を相手に駆けっこだ。身を晒したマハル達が、背の高い草を薙いでいるのが見える。魔獣の数を確認した後、そこに向かって足を駆らせる。最早俺は、この速度の虜になっていた。
「我こそがアルスだ!」
五人組が間近に迫り、その先頭に立つマハルが盾を掲げた時、勇士の口が声を漏らした。
「ご苦労!一旦、我々の背に回れ!」
「寝穴は無い!他に魔獣もおらん」
多少の騒ぎも問題あるまい。俺は元いた岩を蹴り割るようにして急停止した。その衝撃か、それとも全速で駆けたためか、手足の先の先まで神経が通ったように思った。相棒を掴む我の手は、ワシの手であり、最早俺の手である。この肉体全体に、今ようやく己がぴたりと嵌合したような心地だ。誠に良い準備運動であった。岩から足を離し、大地を踏み歩く。マハル達を横に見つつ前方を見渡すと、魔獣共の上げる土煙が彼方に確認できた。
「さて。どちらに来るか」
一人歩く俺と、五人一組のマハル達。弱そうな方から叩き潰していくのが戦いの基本だ。ただし、これは人間の考える戦術である。魔獣の考えは、それとは異なるらしい。
「やはり、あちらに向かうのか」
魔獣は、より多くの人間がいる方に襲い掛かる傾向がある、か。つい先程、勇士が語ったことである。こいつは再び引き寄せてやる必要がありそうだ。魔獣共が近付くと、そのおおよその大きさが分かった。なんたる体躯か。まともにぶち当たれば、無事では済まんということがよく分かる。どいつも体高は勇士の身体と同程度、体長は大人二人分といったところだ。これで魔獣としては小さな部類だというのだから恐れ入る。
「ほれ」
俺は左手を振りかぶり、最後尾の魔獣に狙いを定めた。
「こっちを、向け!」
そのまま左手を振り抜くと、手にあった礫は狙い通りに魔獣の頭部を直撃した。しかしその魔獣は、突進の向きを変えるどころか、みっつある目をこちらに向けることすらしなかった。
「トレット!射て!」
「…マハル様に任せれば大丈夫っすよぉ!」
咄嗟の指示にも、トレットは意気地の無いことを言うばかり。俺はただの槍に左手を添えつつ、ごうと息を吸った。
「魔獣の相手は俺がやる!四の五の言わずに射て!!」
俺が腹から気を発すると、背後から弦を弾く音だけが響いた。それとほぼ同時に、魔獣の左目に矢が生えた。
「見事!」
やればできるではないか。そいつは途端に転身し、残るふたつの目をこちらに向けた。
「だ、だ、旦那ァ~!ほんとに、何とかしてくれるんすよねっ?!」
いや、魔獣の狙いはトレットか。気付いた瞬間、その目が殺意に染まる。
「ひやあっ」
どぱんっという音とトレットの悲鳴に、つい注意と視線を奪われた。背後にあった岩は暗く変色し、地面には飛沫が散ったような跡がある。
「ぎゃあぎゃあ喚くなっ。それでも武人か!」
何かの攻撃を受けたのだ。直感で分かっても、その方法が不明だ。俺はトレットを怒鳴りつけ、すぐさま魔獣に向き直った。
「俺っちは…」
その背に声が降りかかった。
「俺っちは、武人じゃないっすよぉっ!」
「なにっ…?」
武人ではない?
「お前は、魔獣専門の狩人、ではないのか?」
そうであるから、この危険な旅路に付き合っているのだろう?微かな風の流れに俺が真横にすっ飛ぶと、やはり地面が爆ぜた。
「俺っち達は、ただの獣を狩るのが専門っすよ!」
「なんだと!」
トレットは、武人ではなかった。なんという勘違いをしていたのだ、俺は!それはどこか聞き覚えのある耳鳴りを伴って、俺自身を激しく責めた。