行軍なんかじゃない
マチの南には長大な堀が走り、一団はそこに橋をかけて対岸へと降り立った。俺は、しばらく黙っていろとの司令官マハル殿の御命令を受け、少々の反省の意味も込めて、それに大人しく従っている。
「これより我々は、補給物資輸送の任に着く!夕刻までには、夏期臨時駐屯地へ到達せねばならん!各々、油断することなく、警戒に当たれっ!」
このような号令を発するマハルを除いては、誰一人とて口を開く者はいない。それはそれは静かで、統率の取れた行進であった。行軍、ではないはずだ。勇士の子らのためにも、これは行進でなくてはならない。この行進は、遥か南の地まで続くはずであり、輸送の任とやらは偽装の類いだろうと俺は認識している。
それにしてもマチを出てから随分経つというのに、魔獣の姿なんぞ、ひとつも見かけんではないか。勇士の記憶によれば、郷やマチの外というものは魔獣が跋扈しているはずなのだ。身を隠す物の無い平原を、これだけの大人数で移動していて、魔獣に襲われないということがあるのか。見れば、兵達の警戒の度合いも決して高くない。これは何かがおかしい。勇士め、何か隠しているだろう?む、返答が無い。知らないはずがなかろうに。また、言霊探しか。
それから勇士を問い詰めていると、夏、という言葉に何か猛烈な引っ掛かりを感じた。しかしそれだけでは不十分なのか、記憶が呼び覚まされることはない。そうして一人、警戒そっちのけで言霊探しに興じている間も、結局何事も起きないまま時は過ぎた。
「そろそろ良いだろう。少しは落ち着いたか?」
マチが視界の果てに消えた頃、マハルは平然と俺の隣に馬を並べた。前門には、しかめっ面のデニオル翁、後門には目を尖らせるキユィル。分かりきった反応だが、これは相当以上に分が悪い。
「貴様の疑念は分からんでもないが、騒ぐならば町の外でやってほしいものだな。サトの情報が他に漏れては、不利益が生まれるかもしれんぞ?」
然り。いや、誠にもってその通りだ。昨日は、よくもあれ程偉そうに叱りつけられたものだ。ぐうの音もでないとは、このことだ。
「さて、小言は聞くのも言うのも大嫌いだ」
むっつりと口を閉ざした俺と目を合わすと、マハルは口の端に笑みを乗せた。
「そんなことよりも、私の方には知りたいことが山程ある。貴様も同じであるというなら、ここは情報交換といこうではないか」
情報は欲しい。だが問題は、俺がマハルの質問に答えられるかどうかだ。俺は勇士が閉ざした口をなんとか抉じ開けようと、夏に関する言葉を片っ端から掘り起こす。掘り起こそうと目論むも、それはあまり捗りそうにもない。マハルは爛々とした目をこちらに向け、何かを待っている。
「…お前は何を知りたいんだ?」
「なんでもだ!」
俺が渋々口を開くと、マハルは寸分の間も無く声を張り上げる。デニオル翁とキユィルに乱された意識の枝は、マハルの大声で大きく揺さぶられた。揺さぶられて落ちた葉を、何か大きな動物がむしゃむしゃと貪った。
「貴様は平然と馬に乗っているが、サトにも馬はいるのか?」
不意を突くように尋ねられて初めて、俺が馬に乗れるのは、武士であったからだと気が付いた。幸い、言い訳に利用できそうな記憶の断片は、今朝に視た夢の中に存在した。先程も思考にちらついた生き物だ。
「いや、馬はいない。ラバンが飼われている」
「ラバン?」
勇士めは、ラバンという名前を伝えたきり、それ以上を語ることはない。なかなか口の固い男である。
「ラバンはラバンだが…そうだな、単純に山羊とも呼ばれる。俺が乗れるぐらいにデカい山羊だ。そいつに乗るのと、大した違いはない」
山羊とは俺の感想で、そう呼ばれてもいなければ、ラバンに乗った経験なども実際には無かった。だが今は、こう言い切る他無い。
「ほう!ラバンとは聞いたこともないが、そうか、巨大な山羊か!サトの周りには、そんな生き物がいるのだな」
マハルは疑うこともせず、それどころか噛み締めるように何度も頷いた。いや、サトの周りにいるのは魔獣ばかりのはずだ。ほれ、勇士よ。もう少しぐらい、何かないのか?
「いや、先祖が郷を住処とした時に、たまたま連れていた生き物だ。ラバンの乳はな、大人も飲むが、赤子が飲んでも腹を壊さんのだ。だから、郷では大事にされている」
「ふむ。ラバンというのは、何を食べるんだ?あぁ、それと貴様らの主食も知りたいな」
なんとか得られた情報を吐き出すと、矢継ぎ早に問われた。マハルに言いたいことはあったものの、それどころではなくなった。主食という単語が切欠となったか、とある言霊が姿を表したのだ。
「オーリン、か」
途端に舌の奥がすぼまり、堰を切ったように唾と記憶が溢れた。
「オーリン、というのが主食か?どちらのだ?」
記憶の獲得にマハルとの問答にと、忙しくなった俺は警戒を完全に放棄した。隣のマハルもまた、周囲を見渡すことすら止めてしまっている。
「どちらにとっても、だな。島を覆う木、オーリンの葉はラバンの、そして果実は、俺達の主食とも呼べる大事な食糧だ」
部下を信頼してのことかもしれんが、俺の目には、警戒など忘れてしまっているようにしか見えない。と、マハルの手から今、手綱がするりと抜け落ちた。警戒どころか、歩くのすら馬に任せきりといった有り様だ。流石にそれは、危険ではないのか。
「そうか!なるほど。それで、オー、リン、か!」
「何が、なるほどなんだ?知っている木か?」
マハルは鞍にぺたりと手をついて、桔梗色の髪を左右に振る。マハルの口調こそ乱れてはいないものの、仕草に素が現れだしているのか、どうにもちぐはぐな印象だ。あまり見てやるのも可哀想かと思い、俺は周囲に視線を戻した。
「いや、オーリンという言葉の響きと、その役割から、古語由来の名付けなんだろうと察しただけだ」
こご。古語か。これは言霊ではないようだ。
「オーは、恵み深き、だとか、偉大な、といった意味がある。リンは母や木、といった意味を持つ」
古語についてはさっぱりだが、マハルの言うことは理解できた。正に、ぴたりとくる名だ。
「恵みの木か。確かにその通りだ。偉大な母でもあるせいか、子供の頃から、オーリンを傷付けるなと厳しく教えられたな」
禁を破った勇士がどうなったか。俺が知りたいことは秘密にするくせに、勇士は、そんなことばかりを雄弁に語り始めた。
「ははは。人の話を聞かん貴様のことだ。オーリンを傷付けた回数は、一度や二度ではないのだろう?」
と、マハルが大笑するために、俺は警告を込めてマハルに視線を送った。それが通じたのかは定かではないが、マハルは笑い声だけは引っ込めた。
「ふん。さっきからお前が質問してばかりだ。少しは俺にも質問させたらどうだ?」
デニオル翁はと見ると、一瞬目が合ったようにも思えたが、一団の後方に顔を向けている。
「私が悪いように言うな。貴様が尋ねてこないだけではないか」
俺に尋ねる間も与えずに何を言うのか。俺は、マハルの向こうに広がる草原に目を向け、形ばかりの警戒に戻った。
「では聞こう。この辺りはまさか、いつもこんな調子なのか?」
「魔獣がいないのか、ということか?無論、今だけのことだ」
今だけ。夏。記憶がちりちりと熱を放つ。あと一歩の所に、言霊が見え隠れしている。
「毎年、夏至の前後はこうなる。貴様が無事に町に来られたということは、南の地でもこれは同じのようだな」
そうだ。夏至、だ。視界は真夏の太陽に照らされて明々としていたのに、それは尚一層、眩しく輝いた。先程とは比べ物にならない量の記憶が、どっと溢れた。
夏至が近付くと、ほとんどの魔獣共は眠るのだ。一月近くも眠りっ放しになり、我らにとっては、束の間の平穏な時が訪れる。
「あぁ。だから、子らも…俺までもが、油断してしまった」
上の子は、水場で遊ぶことを、ずっと楽しみにしていたのだ。いつもは危険な水場で、夏の一時だけは遊ぶことが許される。あの子らは、我らの目を盗み、二人だけで水場へ向かってしまったのだ。
そこに、眠りを知らぬ魔獣がいるとも知らずに。