プロローグ オグマの手記1
右の小指に指輪をはめれば、水色の宝石だけが光って見えた。小一時間程前に父上から頂いたばかりのもので、俺は頬をつねる代わりにそれを何度も撫でては、この夢のような現実を確かめた。うむ、夢ではない。悪夢でもない、らしい。椅子四脚に、灯りがひとつ、外を眺める窓は無し。たったひとつある小さな扉は薄く開かれている。だが俺は今、その先にある執務室に出入りすることはおろか、扉に触れることすら禁止されていた。俺は何か、粗相をしたのだろうか。
「先に昼飯を食っておけばよかったな…」
腹の虫は限界が近い。俺が三度目になる一人言を吐いた時、執務室と廊下とを繋ぐ、あの豪奢な扉が開かれる重い音がした。それに続くのは足音と。
「さて、仕事も済んだ」
父上の一人言だった。俺は、この奇妙な軟禁も終わりかと安堵したものだが、こちら側の扉が大きく開かれる気配は無い。足音が途切れると、お次はガチャガチャと騒々しい。何の音かは不明だが、家捜しするような物音に胸騒ぎを覚える。
「誰もいない、な?」
その声は、意外にも近い。
「よし。久しぶりに、オグマ様の手記でも読むとするか。いや。オグマ様の手記とされているもの、であったか。ごほんごほん!」
と、続く不審な一人言に、俺はようやく合点がいった。これは一人言などではない!俺は急ぎ、扉の前まで忍び寄り、番犬の如く座した。オグマ様といえば、二代目当主であらせられる、あのオグマ様か?いやいや、違う。確か御本人は、当主代理と名乗っておられたはずだ。
「この手記を読む者へ。これは私、ノレウス=アルスダムが、四代目の当主となったその翌日に、書棚の奥より発掘した遺物である。この著者名すら不記載の書を、しかしながら私は、オグマ様の手記であると断ずる。オグマ様を知る最後の世代として、この書が永く伝わることを願う」
やはり、父上は俺に語り聞かせているのだ。どういう訳だか、扉越しに。俺が固唾を呑んで扉を睨むようにしていたところ、その隙間からころころと赤い物が。そいつは俺の膝小僧に当たり、動きを止める。赤い、大きな林檎だ。俺は腹まで騒ぎ立てないようにと、そこを強く押さえつけた。
「私は、あの男が大嫌いだ。無礼で、粗忽で、野蛮な男。あの男に対する私の第一印象がこれだ。その後、不本意ながらあの男と行動を共にするうちに、その印象は変化した。極めて無礼で、粗忽粗暴に過ぎ、虚言癖を持つ野蛮な助平男。これこそが、あの男の本性である。私では、あの男の下劣な品性を矯正し得なかった。至極残念だ」
散々な言い様だ、と笑い混じりに父上は呟いた。俺も同じような具合だ。どんな秘密が記してあるのかと思えば、なんなのだ、この手記は?他人の悪口ばかり書き連ねるなど、なんと陰湿な。不健康だ。俺が思い描いていた偉人の姿は、たちまちのうちに瓦解した。ここまで滅茶苦茶に罵倒される、あの男、とは一体誰のことだろうか?
「後世、あの男は埋めた歴史から掘り起こされ、英雄として語り継がれるのだろう」
英雄?英雄と言われて、俺が即座に思い浮かべるのは一人きり、ではない。しかし男の英雄と限定すればどうだ?まさかと俺は、扉ににじり寄った。
「奴は英雄的だった。それを否定するほど、私は狭量ではない。認めよう、奴は正しく英雄だ。しかし、人格者ではない。これが問題なのだ。あの低俗な英雄を!偉人とは斯くあるべしと祭り上げ、その人格をも美々しく偶像化するというのは悪夢に他ならない。それは恐るべき盲信だ。私はその盲目に警鐘を鳴らす、一本の撞木となろう。英雄も、所詮はただの人間に過ぎない。この一点においてのみ、私と奴の意見は完全に一致した。だからこそ、友情など微塵も介在せずとも、我々の間に盟約は結ばれたのだ」
父上はここで、林檎を大きく食い齧ったらしい。その音は俺の耳を震わせ、食欲をも刺激したはずだった。しかし俺は、それどころではなかった。父上が、これから俺に何を聞かせようとしているのか、その見当がついたからだ。
「さて、前置きは終わりにしよう。盟約を果たす時が来た。私が心底、奴を嫌っていることは理解して頂けただろう。このインクに滲む我が憎しみが、余りに目障りであったのなら、適宜引き算しながら流し読むか、私を嘘つきだと断じて憎むが良いだろう。私は奴の盲信者ではない。私はただの、マハル様の僕だ。この部屋を去る前に、私の知る真実を、今ここに記そう」
俺はひとつも聞き漏らすまいと、目を閉じ、全身を耳にした。
私だけの真実
アルスと名乗る男は、突如マハル様の前に立った。
ジュラ様が建国される以前、辺境最南端とはナモカカであった。現在で言えばパランに位置するこの町は、対魔獣のみに特化した要塞都市である。ここより南は未知未開、無限に湧き出る魔獣共が跋扈する危険地帯。人間が生き延びるなど到底不可能な不毛の地、のはずだった。アルスが現れるまでは、それがこの世の常識だったのだ。
しかしアルスは、その南の果てより来訪したと語る。子ども二人が酷い怪我を負い、命が危うい。どうにか救ってくれ、とアルスはマハル様に懇願したのだ。この時、奴は!確かにそう言ったのだ。
南の果てから来たなどと、当時としては信じ難い話であっても、マハル様はアルスの話を概ね信用なされた。事実、我々はその翌日にはナモカカを発ち、アルスが郷と呼ぶ地を目指した。
話が横道に逸れるのを許されたい。建国史では、郷に向かった隊の人数を、切りよく十人としているはずだが、それは全く正確ではない。ナモカカ進発時は、偽装のために二十一名の隊であったはずだ。そこから本隊が抽出されたのだ。マハル様、マスバラン(当時)司祭様、狩人のリースとトレット、それに配下の我々五人。そこにラバンの民(こちらが正式名称。神獣パラン、に始まりパランの名称は誤ったまま定着してしまったもの)であるフルルを加えれば、建国史に名を連ねる十人ということになる。建国史上、アルスの存在は、その役割も含めてフルルに統合されている。更に言えば、兵士のユニクルは、馬番として途中離脱したためか、それともナモカカ帰還後に行方知れずとなったためか、こちらも存在が削除されている。
郷を目指す旅は、過酷、ではなかった。マハル様は、予てより温めておられた、少数での強行偵察作戦案を応用なさったのだが、これが抜群の効果を発揮したのだ。結果、魔獣との戦闘はおろか、遭遇すら稀。あの一時だけを切り取って、そこにいるお嬢様の姿を垣間見たならば、一体何人が、彼女をマハルジオン様だと識別できようか。荒れ果てた野にあって、マハル様は、湖で羽を伸ばす水鳥の如く自由で、どこまでも可憐であった。
アルスはといえば、案内役らしいことを言ったこともあったが、やけにのんびりとしたものだった。今思えば、アルスはこの時、分厚い皮を被り、鋭い牙をも隠しておったのだ。
子を救うため、町まで来た?アルスが語ったあれらの言葉を、私は今なお疑っている。