(7)
公園と違い、屋内の『カンパリネノ』は、その時間、各テーブルの小さなグラスに入ったロウソクが店内を明るくしていた。ロウソクにある程度の役割をと、店の照明も少し暗くしてあるため、地上の星のように輝いている。
ジュリアンとソフィーは、ロウソクを挟んで座っていた。
「そういえば、この間あなたが公園で読んでいた本、興味深かったわ」
「読んでた本?」
「『植物に宿る妖精たち』」
「よく覚えてるね」
「もしかして、今度は妖精の研究を始めたとか?」
ジュリアンは首をふった。
「タイトルはとても魅力的なんだけどね。残念ながらあの本の内容は、植物による自然治癒機能の記録と考察についてなんだ。例えば、台風で吹き飛んだ屋根を修復する持ち主と同じで、宿っている妖精が中から出てきて傷口を治すような、そんな記録についてなんだ」
「なんだ」
ソフィーがことのほかがっくりしたような気がしたので、ジュリアンは何気に聞いてみた。
「君は、妖精に興味あるの?」
「……祖母が、小さい頃に見たことがあるって言ってたわ」
「ほんと?」
「さあ。私のためにしてくれた夢物語かもしれない」
「そっか」
「でも祖母が言ってた。妖精はね、こっちが見たいと思い、あっちも見せたいって思わないと見えないんだって」
「両方が同じ気持ちになるってことか……難しいね」
「でも、あなたみたいに踏ん張ってたら、向こうも諦めて姿を現すかも」
「踏ん張るって?」
「ベンチ」
ジュリアンはぷっと吹き出した。
「霊スポットじゃなかったっけ?」
ソフィーが首を振る。
「あなたが、妖精かもって言ってから、私もそんな気がしてきた。・・・ねえ、今から行ってみない?」
「え? 公園に?」
「そう。もしかしたら誰もいない暗い場所なら、気を許して姿を見せるかも」
ソフィーの本当の目的は違うのだが、ジュリアンもまた、他のことを考えていた。あの女の子のことだ。居るはずがないと思いながら、ベンチのことを考えると、「もしかしたら」と思うくせがついてしまっていた。
ジュリアンとソフィーは席をたった。向かう場所は、ルブランのベンチである。今行くのはタイミングがよくない、だろう。エルダが去り、ジュリアンがソフィーと一緒に姿を現す。ルブランがどんなことになるのか、想像がつかない。
人影もない遊歩道を外灯に頼って、ジュリアンとソフィーは歩いた。時には木立が暗闇の仮面を被り、お化けに変身することがあるかもしれないということを、子どもの時なら考えただろう。でも二人はもう、街灯に反射した池のきらめきや、暗闇で見上げる星空が、幻想的でロマンチックな雰囲気を作ることを知っている年齢である。
ジュリアンは気にすることなく、ほの暗い闇に包まれたいつものベンチへ腰を下ろした。ソフィーは怖々とベンチを触り、ルブランの壊した外灯に気づいて、肩をすくめた。
「やっぱり絶えず何かあるのね」
ジュリアンが辺りを見渡した。女の子は、もちろんいない。
「残念ながら、やっぱり君のおばあさんの言うように、お互いの心を通わす必要があるみたいだ」
「そうね」
しばらくソフィーは居心地悪そうに辺りを見回していたが、ついに勇気を出してジュリアンの隣に座った。
「……座っちゃった」
ソフィーの口から安堵のため息と笑みが同時にこぼれる。
「ほら、大丈夫だ」
「ほんと。……でも……」
ソフィーがはにかむ。
「あなたが横に座ってるから」
「え?」
「こんな勇気……あなたと一緒じゃなきゃでないもの」
ソフィーはゆっくりジュリアンの首に手を伸ばすと、自分の唇をジュリアンの唇に重ねた。
ジュリアンの驚く表情がほの暗い中でも見えていた。ルブランは、そこにいた。ずっと前からそこにいた。木立から現れるカップルに気づき、それがジュリアンだとわかると、顔に笑みが浮かんだ。でもそれも一瞬、ソフィーの姿に気づくとすぐ、笑みはみるみる消えていった。
ルブランは全てを見ていた。
ソフィーがジュリアンから唇を離す。そして恥ずかしげに何か言おうとしたその瞬間、ソフィーは勢いよく地面に倒れた。
「きゃっ」
ルブランはソフィーの背中をめいいっぱい押していた。全ての感情がソフィーへの嫌悪感に変わる。
何が起こったのか、一瞬のことでソフィーは唖然としている。
「だ、大丈夫?」
ジュリアンが手を差し出した。しかしその手を取る間もなく、またソフィーは地面に突っ伏した。何回立ち上がろうとしても、何かがそれを阻むように転んでしまう。ソフィーは見えない恐怖に完全に怯えきっていた。
その頃エルダはダグと一緒にバス停に向かっていた。
「次は海の見える町だぞ」
いつも長くても一、二ヶ月で新しい場所に移動する。だからどんな土地にも未練はない。ここも思い出の一つとなるだけだ。エルダは自分に言い聞かせるように、海のイメージを頭に浮かべた。
バス停には夜行バスに乗るための列がもうできていた。遠くからバスだとわかるヘッドランプが近づいて来ている。ダグがリード引いた。
「急ごう、バスがもうすぐ来る」
その時だった。エルダが急に立ち止まった。ダグが何度リードを引いても、エルダは動かず何かに集中している。
と、エルダは急に走りだした。
「やめて!」
ソフィーは力の入らない足で一生懸命に逃げていた。彼女の顔は、ただ恐怖に凍りついていた。
ジュリアンは、何が起こっているのか全くわからなかった。押し倒されるソフィーを何度もかばおうとした。何度も彼女を抱きかかえる。でもあらぬ方から力が入り引き離された。
ルブランは、自分でもどうしていいかわからなかった。怒りがおさまらない。何度押しても押したりなかった。こんなに激しく体が熱くなったのは初めてだ。いったいどうすればこの感情がおさまるのか。ルブランはただただ逃げるソフィーを追いかけた。
その時、乾いた犬の声が聞こえた。ルブランがはっと顔をあげる。エルダだ。エルダの声だ。
エルダの声に気を取られていたすきに、ルブランはソフィーを見失った。周りを見回す。そしてふと視線を落とすと、ソフィーは数歩先で横たわっていた。頭からは血が流れている。恐怖で転んだ拍子に、石にぶつけたようだった。ソフィーの意識はなかった。
「ソフィー!」
ジュリアンが駆け寄る。その後からエルダを追ってきたダグが駆けつけた。
「救急車を! 救急車を呼んでください」
ジュリアンに言われ慌てて携帯電話をかけるダグの隣に、放心状態のルブランが立っていた。
救急車がかけつけ、近くの野次馬も見物にやってくる。多くの人の中心にルブランは佇んでいた。でもその存在を知るものは、そして彼女の胸の中の虚無感に気づいてものは、エルダだけだった。
救急車が去り、警察が現場検証した後、公園はまた元の静けさに戻った。ルブランはベンチに座っていた。ひざを抱え、俯いて。でも、いつものりんごの木の下のベンチではない。ルブランの足元にはエルダが座っていた。
「お前のおかげで、夜行バスに乗りそこねたぞ」
「……」
「主人が病院から戻ってくるまで、俺は時間を潰さなきゃならない」
「……」
ルブランは長い沈黙の後、ため息を吐いて夜空を見上げた。
「お前の言う通りにする」
エルダも空を見上げた。
「……それがいい」
星は何事もなかったかのように、美しく瞬いている。遠すぎて届かないものがあるのは、みんな知ってる。届いたと思っても、それは長い間見ていたことによる光の残像だったりする。
翌早朝、ダグとエルダは始発のバスに乗って町を出て行った。顔を覗かせ始めた太陽がバスの車体を照らしていた。
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