(6)
日に日に寒さが厳しくなる。だからこそ日が差す昼間の公園は余計に居心地がいい。ジュリアンは相も変わらず昼休みをルブランのベンチで過ごしていた。そして、ルブランも相も変わらず落ちつきなくジュリアンの周りをウロウロしている。今日はエルダの姿は見えない。
「前は見えたのになぁ~」
ルブランは諦めてないらしい。遠慮がちに、ルブランもベンチに座る。端と端に座る二人。ジュリアンを見つめるルブランの眼差しは切なすぎて、見ているこっちの心まで締め付けられそうだ。大きなため息をつくと、ルブランはジュリアンから視線を外し、意味なく投げかけた木陰に二匹の猫を見つけた。
黒猫と白猫、お互いをピッタリ寄り添わせ、寒さをしのいでいるように見える。ルブランは猫たちに近づき、前でかがみ込んだ。
「そうやってると、気持ちいいのか?」
もちろん返答がかえってくるわけもない。そのうち猫たちは目を閉じた。
ルブランはまたベンチに戻った。でも今度座った場所は端っこじゃない、真ん中だ。ルブランはゆっくりと体をぎこちなくスライドさせ、少しずつジュリアンの方へ近寄り始める。そして……ルブランの体がジュリアンにピッタリと寄り添った。
今度もジュリアンは本から顔を上げたが、すぐに視線を戻した。ルブランの頭がジュリアンの肩にのる。ルブランは、それは幸せそうに微笑んだ。ジュリアンの口元にも笑みが浮かぶ。二人ともなんだか心地よさそうだった。
池にまた新しい鳥が羽を休めに来た。今までルブランはそんな事に見向きもしなかった。でも今はその鳥が毛繕いする様子がかわいくてたまらない。キラキラ光る水面も池を取り囲む木立の色も、いつもより鮮やかに見えた。こんな風に自分の周りにあるものが、自分の心地良さと結びつくという感覚は、ルブランには初めてだった。
ジュリアンはまた本から視線を外した。いつものベンチは変わらず心地いいし、自分がここにいることがようやくこの街の住人に認められたのか、怪訝な顔をされることも少なくなった。公園の常連には挨拶すらされることもある。でも、前とは違った。
ジュリアンは辺りを見回した。何も変わらない光景だ。冬も本格的にその勢いを強め、手袋とマフラーは手放せないが、この公園の中は自然の力でなぜか街中より暖かく感じられる。一度本に目を戻したが、なぜかまた無意識に辺りを見回した。
あの時に見た女の子は誰だったのだろう。最近彼女のことばかり考える自分がいることにジュリアンは気づいていた。前より頻繁に公園に通うようになっているのもそのせいだろう。しかしあれから一度も会えないでいる。彼女はこの街の住人なのだろうか。それともあの日だけ街にいた旅行者だったのだろうか。
ジュリアンが大きく頭を振る。ダメだ、この本は今日中に読破すると決めている。今は集中しなくては。
「不思議な人」
落ち着いた声が聞こえ、ジュリアンは顔を上げた。
「本当に座ってるのね」
目の前にソフィーが立っていた。
「遅いお昼休みなの。お茶でも一緒にいかがかなと思ったんだけど……誰かと待ち合わせ中?」
「いや。喜んで」
ジュリアンが微笑んで立ち上がる。と、また無意識に辺りを見まわしていた。気づいたソフィーも訝しげに辺りを見回す。
「何かあるの?」
「いや、行きましょう」
ジュリアンはソフィーと並んで、ベンチを離れていった。
ずっと側で彼らを見ていたルブランは、どういう表情で二人の背中を見送っていたのだろう。欲しい物を取られてまた以前のように不機嫌になったのか、それとも悲しげな表情でジュリアンの背中を見送り続けたのだろうか。それはルブランの最近の変化を見て想像してもらいたい。一つ付け加えると、ベンチの近くのゴミ箱は、その日は一度も予期せぬ突風で倒れたりはしなかった。
夕日が丸い窓から見える。ルブランはこの時間にはもうスミス家へと引き上げ、ケヴィンのベッドに横たわっていた。最近はずっとそうだ。いつもは日が落ちて月の輪郭がくっきり見えても、なかなかベンチを動こうとしなかったのに。
あんなに楽しみにしていた公園での一日が、最近少しも楽しくない。彼をさらっていったあの金髪の女は、それから何度もやってきて、ルブランの邪魔をしていった。その後に一人でベンチに座ることが、たまらなく嫌だとルブランは感じるようになった。なぜ嫌なのか、それがどういう気持ちなのか、ルブランにはわからなかった。エルダも最近公園に姿を表さない。それをおもしろくないと感じている気持ちも嫌だった。
外は暗くなり、スミス家のみんなが夕飯を食べている頃、ルブランは外へ出た。
いろいろ考えて、わけもわからない気持ちに支配されている状態がたまらなくなっていた。結局、他に行くあてなどなく、ルブランはいつもの場所にいた。夏ならば暗くなっても公園にくる人もいるが、冬の夜の公園は寂しいくらいに静まりかえっている。外灯が池の水面に映って幻想的ではあるが、ルブランのベンチ付近は暗い。
よく見ると、ベンチ近くの街灯が割られて壊れている。あんなに悪さを控えていたルブランだったのに、ここへ来て我慢できず、さっきとうとう、石を投げて街灯を割ってしまった。
何をするわけでもなく、ベンチに横たわっていると、足音が聞こえてきた。振り向くと、暗闇の中ぼ〜っと輪郭が現れた。犬のシルエット。エルダだ。なぜかエルダはリードをつけていない。
「なんだよ」
言葉とは裏腹に、久々にエルダを見たルブランの頬は緩んだ。それを見られたくなくて、ルブランは背を向ける。
エルダの落ち着いた声が聞こえた。
「今夜の深夜バスで新しい町へ出発する。主人が気をきかせて、最後の挨拶に来させてくれた」
突然ルブランの心が何かに詰まったような感覚になった。それが大きくなってだんだん息苦しくなる。でもそんな感情をどう操っていいのかわからず、ルブランは無関心を装った。
「わざわざ言いに来る必要ないだろ」
エルダは真剣な顔をしていた。ぶっきらぼうなルブランの態度にも動じない。
「旅立つ前に忠告をしに来たんだ」
「忠告?」
「前にも言ったが、くだらん考えは捨てろ。お前は今のまま好き勝手に生きればいい」
「は? 何言ってんだよ」
「お前の考えてることはわかる。だがお前はお前の世界で生きろ」
「ふざけんな! 俺は見えるようになった。なんで元に戻ったかわからないけど、でもまた願えば……」
「嘘だ」
エルダがルブランの言葉を遮った。
「あ?」
「願えば叶うなんて、嘘だ」
「なっ……じゃあ何でこの間見えたんだよ!」
「知らん。でも、もしまた見えても、お前はまた消える」
「そんな事ねえよ!」
「間違いなく消える。なぜなら、お前が見えない理由は、俺たちのいるこっちの世界からお前が拒絶されてるからだ」
「……拒絶?」
エルダは短い息を吐いた。
そして、これが一番重要なことだといわんばかりに、しばらく間を置いた。
「この世界は自分勝手じゃ許されない。共に生きていく力を必要とする」
「共に生きていく……何だよそれ」
「相手の事を思う心、自分よりも相手を大切にする気持ちだ」
「相手を大切にする気持ち?」
「そう言われてもお前にはわからんだろ? だからこの世界では生きられない」
ルブランの顔が苦しそうに歪んだ。それを見たエルダの心がキュウッと痛くなる。エルダは嘘をついていた。でもその嘘は必要な嘘だ。
「この世界の最低限のマナーだ。だが、今度はそれを学ぼうなんてするな。お前には必要ない。今のまま生きればいいんだ」
「何だよ。俺が見えちゃ困るってわけか?」
「そうだ。言ったろ、お前が見えたら町がめちゃくちゃになる」
「知ったことか!」
エルダは沈黙した。そしてまたゆっくりと言葉を出す。
「……めちゃくちゃになるのは町だけじゃない。一度誰かと関わったら、関わらない生き方にはもう戻れないんだ。もう一度言う、壊れてしまうのは町だけじゃない。気ままにこのまま生きろ」
ルブランは、それから一言も口を聞かなくなった。エルダは静かにベンチを去った。
短い間だけだったが、エルダはこの街が好きになった。だから、この街が壊れていくのを見たくなかった。
エルダはわかっていた。そう、ルブランはこの街にはなくてはならない存在、この街の自然を司っている何かなのだ。もし守り神がこっちの世界へ来た時としたら・・・。
ルブランは、公園を出ていくエルダを一ミリも振り返らなかった。じっとベンチで両足を抱え座っていた。怒っているわけではなかった。エルダの言った意味を、ルブランの頭は、あまり深く理解していなかった。
でもルブランの体は違った。深く動揺していた。なんだか体が震えている気がした。体がひんやりする気がした。だからぎゅっと体を抱いた。
エルダはもういない。ルブランには、その事実が一番大きく堪えていた、
「このベンチはもう一生俺のもんだ!」
ルブランは自分の中に芽生えた暗い気持ちを吹き飛ばそうと、夜空に輝く星まで聞こえるような大声を放った。
でも、体を抱いた手はいつまでも離せなかった。
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