(5)
エルダはこの町に着いてから、ほぼ毎日のように公園に繋がれていくようになった。でもエルダはそれがダグの優しさだと知ってる。ダグについて交通量の多い町中を歩くよりよっぽどいい。しかし、一つ不満があるとすれば、いつも繋がれっぱなしということだ。
この公園は人間が見ていない間は犬をどこかに繋いでおく必要があるため、歩き回れる自由がないのが不満だった。自分は放されていても、人様に迷惑をかけるような犬じゃない。ちゃんと社会の常識は知っているのだ。もう少し自由にさせてくれてもいいじゃないかと、声を高々にし言いたいが、通じる相手もいない。
まあでも、一日同じ場所で日の移り変わりを見るのも乙なものだと、エルダはその日も池の表面で動くアメーバの作る水面や、体より大きい荷物をしょっているのに、歩みが少しも遅くならないアリたちを、のどかに見ていた。
ルブランはあれからほとんど姿を現さない。穏やかな日々がずっと続けばいいのになぁ、と思った矢先、エルダの鼻先がピクピクと動いた。
この幸せがまもなく消えてしまうことをエルダは知った。あぁ、短かった。エルダは萎んで消えていく幸せを、最後まで抱き守るように体を丸め、目を閉じた。
この公園で待たされるのが嫌な理由は、もう一つある。いつも繋がれるのが同じベンチだということだ。
「お前、俺のこと騙したなぁ~」
まだにおいは遠いが、聞きたくなかった声が聞こえてくる。犬が人間よりも耳がいいことを、エルダはこの時うらめしく思った。苛立った声はだんだんと近づいてくる。
さてどうしたものやら。
ルブランの怒りは尋常なものでないことはわかる。今度こそそんなルブランを抑えるのは至難の業だ。でも、ルブランになんと言われようとも、エルダが答える言葉は一つと決まっていた。それしかない、いや、それだけで充分、エルダはそう思っていた。
「願いが足りん」
怒りをぶちまけるルブランに、エルダは落ち着いた声で言った。
もちろんそんな言葉でルブランの怒りが収まるはずはない。だが、長い間聞こえ続けていた悪態はピタリと止んだ。ルブランはそれ以上何も言わず、ふくれっ面でベンチの端に腰掛けた。
ルブランは随分長い間黙り込んでいた。エルダはその間、ずっと側にいた。もちろん選択肢がないからだ。繋がれていないなら、とっととこんな雰囲気の悪い所から離れたかった。
しばらくすると、エルダの願いが届いたのか、ようやく、どんよりした嫌な雰囲気を吹き飛ばすような、爽やかな空気が近づいてくる気配を感じ、エルダは鼻を向けた。
女の子。スカートをひらひらさせた小さな女の子が近づいてきた。
「かわいい~」
女の子はエルダを見るなり、駆け寄る。ルブランからはこの間のような殺気は出ていない。今は大丈夫のようだ。
女の子は満面の笑みでエルダの頭を撫でている。エルダは子どもが大好きではないが、こんな風にされて悪い気はしない。
「お手」
エルダは手を差し出した。これも本当はしたくない。でも子供に常套の芸を強要された時は、こたえてあげるのが優しさだと知っている。それにこの子はニコニコ笑って結構かわいい。
女の子に触られるままになっていると、血相を変えた母親がやってきた。そして引きつった顔で女の子の手を取ると、突風のように女の子をさらっていった。
曰く付きのベンチか……。やれやれとエルダが体を伏せると、ルブランのにおいが目の前から漂ってくる。
嫌な予感がする、エルダは思った。
「お手」
「お手」
「お手っていってんだろ!」
見えなくても匂いだけで出された手の位置はわかる。でも、エルダは死んでもしてやるもんかと思った。ルブランから目を反らし知らんぷりを決め込む。
「お手しやがれってんだ!」
「おいおいどうしたんだ、かわいいお姉ちゃんに相手してもらってんのに」
聞こえたのはダグの声だ。今日は早めに迎えに来てくれたんだ。エルダは喜びで顔をあげた。
! エルダは目をぱちくりさせた。今目に映っているのは誰だ?
まん丸目で耳の高さで切り揃った黒髪の、この寒いのにノースリーブとミニスカートを履いている色白の痩せたこの女の子は……。
「どうした、エルダ。お姉ちゃんにお手だ」
エルダの目に差し出された白い手が映る。
「ほら、お姉ちゃん待ってるぞ」
エルダがそろそろ差し出した手が、ルブランの手の上にのっかった。せっかくエルダが手を出したのに、この時のルブランはエルダなど全く見ていなかった。口をぽかんと開けたまま、横にいるダグを凝視している。ダグはルブランに優しい笑みを投げかけていた。
ちょうどその時、ジュリアンは公園の遊歩道を歩いていた。休憩がてら散歩しようと出てきたのだ。この間デイブやソフィーにベンチの事でからかわれたが、ジュリアンは気にすることもなく、リンゴの木の下のベンチに向かっていた。
恐いという気持ちもなくはなかったが、それ以上にあのベンチは心地いい。曰く付きのおかげで一番いい席が空いているのだ。それに最近友人もできた。いつも繋がれている一匹の犬。特にあやしたりすることはないが、しつけが行き届いているのか、いつも大人しく座っていて、まるで一つのベンチをお互い譲り合うようにシェアしている気がしてくる。
今日もいるかな、そんなことを考えながら、木立を通り、池へ出てきた時だった。
「あれ?」
ジュリアンの目はいつものベンチを捉えた。ベンチに人影がある。いつもの上品な犬もいるが、加えて男性と、女の子がいる。
ジュリアンはその女の子に視線を向けた瞬間、目が離せなくなった。もちろん、そこら中で木枯らしが吹いている最中、ノースリーブとミニスカートでいる女の子を見て驚くのは当たり前だ。でもジュリアンの表情は、そんな理由からではないことを物語っている。
「すみませ~ん」
どこからかサッカーボールが転がってきた。ジュリアンは我に返り、足下で停まったボールを拾おうと腰をかがめた。
ルブランはエルダの方を見た。そしてエルダの目玉をじっと見た。 映っているのは自分なのか?
ルブランは、エルダの目に手のひらを近づけた。ルブランは自分の顔を知らない。でも手や足ならいつも見てる。
映ってる、自分の手のひらが映ってる!
「見える!」
ルブランは雄叫びをあげ、喜びのあまり何度も飛びあがった。エルダは未だに呆然としている。
「へへっ、面白い姉ちゃんだなぁ」
ダグはエルダのリードをほどきながら言った。
「お姉ちゃん元気だね~、そんな格好で風邪引かないかい?」
リードがほどけ、ダグがルブランの方へ顔を向ける。
「あれ?」
ダグが振り向いた時、ルブランはいなかった。風にさらわれたか、神隠しにあったか、回りを見回してもルブランの姿はどこにもなかった。
ダグは首を傾げたが、大して気にもせずそのままエルダを連れて公園を出ていった。ダグに連れられながら、エルダの耳には喜びに沸くルブランの声がずっと聞こえていた。
ルブランはそこにいた。いなくなってなんかないのだ。ルブランは自分がまた見えなくなってしまったことにしばらく気づかなかった。いったい何が起こったのだろう。エルダの目に映ったのはこんな映像だった。
見えることを知ったルブランは喜んだ。走ったり跳ねたり、ルブランが知ってる限りの喜びを表現していた。そこに、ベビーカーを押した女性が通りかかった。公園内の売店で買ったのだろう、子どもはまだ一口くらいしか食べていないアイスクリームを手に握っていた。アイスクリームは季節を問わず子どもに大人気だ。そして、ルブランの大好物でもある。
ルブランはアイスクリームを見ると、目もくれず駆け寄ってそのアイスクリームをつかみ取った。アイスクリームが突然なくなって泣いた子どもを見て、落としたのかと母親は周りを見回した。もうその時にはルブランは見えなくなっていたというわけだ。
というわけで、ルブランの姿が現れたのは、ほんの短い時間だけだった。
さて、サッカーボールを取り、少年に投げ返したジュリアンがもう一度ベンチに視線を向けた時には、もう全て終わったあとだった。去っていくダグとエルダが見える。しかしあのノースリーブの女の子はいなかった。ベンチに近寄り辺りを何度も確認したが、もう誰もいなかった。
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