(3)
ジュリアンは決して本に集中しすぎていたわけではない。彼の前を通る人通る人が、怪訝な顔でジュリアンを見ていくことに、彼はちゃんと気づいていた。だから、何度か読んでいた本から目を外し、脇を見たり振り返ったりした。でも注意を引くものなど何もなかった。
しいていえば、ベンチの後ろにある花壇が、野犬か何かに踏まれて花が弱っているくらいだが、ベンチが遮っていて通りからはそんなに見えないはずだ。
それが原因じゃないとするなら・・・。不思議に思いながらも、ジュリアンはそのまま座り続けた。とても心地が良かったからだ。少し寒くはなってきたが、視界を遮るものがなく池を一望できる景色も、後ろから温かく背中に当たる木漏れ日も、全てが快適だった。
心地良さのおかげで、ジュリアンの顔に笑みがさしている頃、それとは全く対照的な顔が、すぐそこまで戻ってきていた。
ルブランだ。
ルブランは結局蝶を捕まえ損ねたらしい。鬱憤晴らしに木を蹴ったり、枝を折ったりしている。そして自分のベンチに誰かが座っていることに気づくやいやな、そのイライラがマックスになり、それはもうすごい表情で叫びながら走ってきた。
「俺のベンチ!」
勢い込んで戻ってきたルブランは、ジュリアンの間近まで顔を寄せると、大きな目に鋭い光を走らせ思い切り睨んだ。こんな風にすると、いつもなら、いや、前にこんなことがあったのは数えるほどしかないが、ベンチに座っていた者は突然居心地が悪くなってそそくさと立ち去るか、感のいいものは、悲鳴をあげて逃げていったのだ。
……しかし、今回はそういかなかった。
睨んだのは睨んだが、ルブランはなぜかすぐに後ずさった。いつもなら相手がベンチから離れるまで睨み通すか、それでダメならベンチをひっくり返すこともしたのに。もちろん、そこまでルブランを怒らすほど頑張った勇者はほとんどいなかったが。
ルブランが睨んだ時、ジュリアンは何かを感じたのか、ふと視線を上げた。ルブランの目線がジュリアンと出会う。その瞬間、ルブランの表情が素に戻り、そしてそのまま数歩後退した。ルブランの目は挙動不審のようにキョロキョロと辺りを見始める。ジュリアンの方は何事もなかったかのように、また本に目を落とした。
しばらくそのまま立ち尽くしていたルブランは、もう一度、今度はゆっくりと近づき視線をジュリアンに合わせた。その目には明らかに戸惑う、落ち着かなさが表れている。
ジュリアンがまた気づいたのか目を上げた。視線がぶつかる。ルブランはまた後ずさりした。今度は池の柵にぶつかるほどに。
夕暮れが満ちて、リンゴの木の影が池の水面にまで伸びる頃、ルブランは隣のベンチに座っていた。最初はずっとジュリアンに視線を行きつ戻りつしていたルブランは、この時にはもうジュリアンの一点に注がれていた。
公園内の人もまばらになり、辺りがうす暗くなってジュリアンはようやく目を上げた。そして腕時計を見ると足早に立ち去っていった。ルブランはというと、置いていかれたペットの犬のように、ジュリアンの背中を見えなくなるまでずっと見送っていた。
それからというもの、ジュリアンの姿をリンゴの木の下のベンチに見ることが多くなった。大学が近いため、天気の良い日は昼休みを過ごすことが多かったし、帰りに公園内を散歩をして、ゆっくり池を眺めたりもした。最初に見つけた心地良いベンチにはいつも、誰も座っていなかった。通行人が怪訝そうに見ていくのも、ジュリアンはいつの間にか気にならなくなっていた。
その日も、ルブランのベンチに座っているのは、ルブランではなくジュリアンだった。ルブランはいつものように、本を読むジュリアンの周りをうろうろしている。ジュリアンが来るようになってから、ルブランは終始落ち着きがなかった。でももうそのベンチは俺のものだと、ジュリアンを追い出すこともしていない。
隣のベンチに座っていた老夫婦が立ち去り、代わりに若いカップルが腰を下ろす。カップルは座るやいなや、イチャイチャと抱擁したりキスしたりし始めた。
ルブランはしばらく不思議そうな顔でじっとカップルを見つめていた。すると何を思ったのか、一人頷きジュリアンの前に立ちはだかった。そしていきなりジュリアンの膝に乗ると、隣のカップルと同じように、首に手を回し、ギュッと抱きしめた。
急にそんなことをされたらどうなるか。当然、ジュリアンは目を見開き立ち上がる。幸せそうな顔でジュリアンにしがみついていたルブランは、地面に降り落とされた。
ごほっ、ごほっ、ジュリアンが首に手をあて咳込んだ。
「教授~!」
むせるジュリアンを呼ぶ声が、遠くから聞こえてきた。大学の学生たちだ。ジュリアンは息を整えると学生たちに手を振り、彼らの方へと向かっていった。
ルブランはジュリアンが去って行くのを見えなくなるまで見送った。その何とも言えない寂しげな表情を顔に覆わせる感情に、一番戸惑っていたのはルブラン自身だろう。その得たいのしれない気持ちがなんなのか、ルブランにはわからないのだから。
ジュリアンと入れ違いに、ダグに連れられエルダがやってきた。ダグはエルダをベンチに結びつけるとエルダの頭を撫で去っていく。ジュリアンと同様、エルダもルブランのベンチの常連になっていた。ダグはルブランのベンチがいつも空いているので、エルダを繋いで仕事に行く。
エルダにちらっと冷たい視線をかけると、ルブランは空席になったベンチにどさっと腰を下ろした。
「お前さ、いいかげん違う所に繋いでもらえよ」
「しかたないだろ。ここしか空いてないんだから」
エルダは終始ルブランからそっぽを向いている。
「ここも空いてねえよ。俺のベンチだ」
「そうだな。お前がいるからいつも空いてるんだ」
エルダは後悔していた。最初ここに繋がれた時、声をかけるんじゃなかったと。ずっと無視しておけば、相手から関心を持たれることもなかったかもしれない。エルダはダグが早く迎えにくることだけを祈った。そしてできれば、この町の仕事が早く片付いて、さっさと次へと向かうことを。
ルブランとエルダはお互い背を向け合ったまま、長い間無言でいた。
池がキラキラと夕日で照らされ始めて随分経ってから、ようやく隣でいちゃついていたカップルが腰をあげた。ルブランは彼らを羨ましそうに見送りながら、ぽそっと口を開いた。
「……お前さ、見えんのか?」
気持ちよくまどろんでいたエルダは顔を歪めた。
「話相手は、俺か?」
「お前しかいないだろうが」
「なんだ?」
「……俺のこと、見えんのか?」
「見えない。臭いがするだけだ」
ルブランは大きなため息をついた。
「……そっか、やっぱ見えねえか。あいつもそんな事言ってたな」
「あいつ?」
「去年来た渡り鳥。もの珍しそうに、俺の周りをぎゃーぎゃーと飛びやがって」
「ふっ、余計な能力持ってるやつは、俺だけじゃないってことさ」
ふっと、エルダはもう一度聞いてみたくなった。最初に声をかけた時の質問を。
「……この町にはお前だけのか?」
「あ?」
「お前みたいなやつさ」
「あぁ、レイってやつな」
「レイ?」
「レイだろ。ほら、ユウ……レイとか何とか、みんな俺のことそう呼んでる」
エルダは大きな声で吠えた。というか、笑った。
「幽霊ねぇ~」
「なんだよ」
「別に」
太陽がほとんど地平線に身を落とそうとしている。エルダは迎えにきてくれるはずのダグを待ちきれず、公園の入り口の方へ視線を向けていた。
「……お前どこから来たんだ」
またルブランが口を開いた。
「主人が世界中を旅してる。この町にも長くはいないさ」
「俺みたいなやつ、他の町にいるのか?」
「まあな。いない事もないっていうくらいだ」
「……なぁ」
「あ?」
「……俺、なんで見えないんだろ」
エルダは驚いてルブランのいる方に首を向けた。
「なんで……見えないんだろ」
「お前が見えたら町中大混乱になるだろ。くだらん事考えんな」
「なんだと!」
エルダの言葉にルブランの表情はみるみる赤くなった。怒りは一秒も溜めないのがルブランのモットーだ。ルブランはじっとエルダを睨んでいたが、すぐに近くのゴミ箱に目を付けると、苛立たしげに力一杯蹴った。たっぷり一日分のゴミが辺りに散乱する。苛立ちはそれでもおさまらず、次は花壇の花を引っこ抜き始めた。この間ルブランに踏みつけられ、ようやく庭師が元通りにしたというのに。
エルダはため息をつき、ルブランから視線を逸らした。自分には関係ない。でもすぐにエルダは嫌な気配に、はっと頭を上げた。エルダの視線が杖をついた老人を捉えた。こっちへ近づいてくる。エルダは鼻をひくひくさせた。予感は的中し、ルブランのにおいは、老人の方へ近づいている。怒りでいっぱいの時は、他のことは何も考えられないらしい。
案の定ルブランは怒りにまかせて老人の杖を取ってやろうと手を伸ばした。急に杖を取られたら老人はどうなってしまうか、ルブランならともかく、エルダには容易に想像がつく。
「願えばいい」
エルダが吠えた。咄嗟のことで声を荒げてしまい、周りの人々もいっせいにエルダを見た。
エルダは老人の方がびっくりしないかと心配したが、老人は耳が悪かったらしい。
ルブランは手を止めエルダの方へ顔を向けた。老人はルブランの横を何事もなく通り過ぎる。エルダはほっとした。
「……願う?」
ルブランがエルダの方へ駆け寄ってくる。
「そうだ。真剣に願ってみろ」
「……願えば、叶うのか?」
「必死で願えば叶う。人間はいつもそう言う」
「……願えば、叶う……」
「ただひたすら願うんだ。他の事に少しでも気が向いたら、それだけでおしまいだ」
ルブランの表情がパッと明るくなった。
「よし、願う!」
「……少しおとなしくしてろ」
ポツリと出たエルダの呟きは、軽やかなステップで池の周りを歩き始めたルブランの耳には入っていないようだった。
これが試着室の鏡を割る前の出来事である。
「全然見えねえじゃねえかよ!」
試着室に入り、三面鏡に囲まれたルブランは、目を閉じ必死に願った。見えるようになりたい、見えるようになりたい。鏡があればひたすら同じ事を繰り返した。町のショーウィンドーやガラス窓、車のサイドミラー、はたまたスプーンにいたるまで、反射して何かが映っている所を見つけるとルブランは必死で願った。でも、成功しない。
ついに我慢の限界に達したルブランは、試着室の鏡を壊したのである。その後は最初の話の通り、ルブランの通った跡は、ひどいありさまとなり、人々はその怪奇現象に怯えた。
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