(5)
エルダが居間へ行くと、エリサはもうすでに出ていった後のようだった。
確か、早朝に出発するバスへ乗っていくとか行ってたな。
彼女の匂いはしないし、代わりに台所にいたのはダグだった。
エルダが来たのに気づき、ダグが朝食をくれた。ミルクに浸した食パン。ドッグフードが切れた時、ダグはいつもこれを作る。
大きなあくびをし、エルダは居間のカーペットの上に座った。
昨夜はあの奇妙な音はしなかったみたいで助かった。おとといだけのことだったのか。
午前中、チッサはまだ寝ていて、ダグは庭でずっと仕事をした。家にあったガタガタの椅子を修理したり、庭のベンチのペンキを塗り替えたり、おそらくエリサに頼まれてもいない仕事を見つけてきては取り組んでいるんだろう。
ゆっくりと本を読みながら時間を過ごすような、そんな時間の使い方を知らない男だから、しょうがない。
代わりに、その役割はエルダが十分に堪能した。庭を散歩したり、ダグの隣でうたた寝したり。一つした仕事といえば、2階のチッサの様子を見にいったくらいだ。
12時前にチッサが起きたので、ダグはお手製のスープをチッサに持ってあがり、一緒昼食を食べた。
事前にチッサが食べられるものを聞いてはいたが、チッサの口から「美味しい」の言葉がでた時、ダグは実にご満悦の表情を浮かべた。
チッサの昼食が終わると、ダグは食べ終わった食器を持って下へ降りた。美味しい茶を入れてくる!と張り切っている。体調がよければ昨日みたいにお茶をしないかとダグが誘うと、チッサは喜んでうなずいた。
ダグが階下にいる間、エルダはチッサと二人になった。
チッサの手がふいに空に伸びたのを見て、エルダはゆっくり近づく。お役目の時間だ。
手がふわっとエルダの背中に降り、チッサの表情が緩んだ。
撫でられるのは好きじゃないが、チッサの嬉しそうな顔を見ると、悪い気はしない。気がすむまで撫でさせてやろう、とう思った矢先だった。
急にエルダの耳がピンと立った。
エルダはすぐにドアの方へ意識を向けた。誰かが階段をのぼってくる。でも、この足音はダグじゃない。エリサでもない。
階段はもっと軽くきしんだ音を出している。
もしかして、また・・・「ミチ」か?
チッサがまだ撫でているので、エルダは動かないようにしていた。でもしっかり身構えてもいた。
人間なら、大声で叫んで飛びかかればいいが・・・。 「ミチ」なら、面倒なことになるかもしれん。
ドアが動いた。ドアの向こうに見えたのは、男の子だった。
人間なら5〜6歳ぐらいだろうか。
首の辺りできれいに切り揃えられた艶のあるストレートの髪。それに包まれたふっくらとした白い顔。白いシャツの上に黒いジャケットを羽織り、黒の短パンを履いている。パッとみれば、私立の学校へ通う小学生のようだ。
そこから細部に目を向けなければ、かわいい子供だ、で終わったのだろうが、そうはいかなかった。
エルダは恐怖を感じていた。
「ミチ」が見えるという普通でないことが起きているのも理由の一つだ。「ミチ」が見えるのはエルダにとって2回目だった。それに・・・。
さっきから男の子がエルダを見据える鋭い眼光が、エルダの恐怖心を煽っていく。エルダの心臓の音はどんどん大きくなっていった。
・・・こいつは誰だ?
なんとか自分を保とうと必死だった。今慌ててしまうと、チッサを危険にさらすことになりかねない。
どうしようかと考えていると、「やぁ!」とチッサが声をあげた。弾んだ声だった。
知り合いなのか?
じっと乾いた視線をエルダに送っていた男の子は、ようやくチッサに目を向けた。
「チッサ、お薬だよ」
男の子はティーカップが一つ載ったトレイを持っていた。湯気が立っている。中身はお茶のようだ。変な匂いは漂ってこない。
男の子は、ベッド脇のテーブルにトレイを置くと、片手でカップを持ち、もう片方でチッサの左手を優しくトントンと叩いた。チッサは躊躇うこともなく、左手の手のひらを上にすると、男の子がその上にカップを置いた。
苦い薬のようだ。チッサは顔を歪めた。
そして飲み終わると、またカップをもらった時の反対の動作が行われた。男の子はカップをトレイに戻した。
「ネイラン、この犬はエルダさん」
チッサがエルダを男の子に紹介した。チッサはにこやかに言ったが、それに比べ、相手はずっと冷たい表情を崩さなかった。
「え・る・・・だ」
自分の名前を呼ばれたエルダは、無意識にぶるっと体を震わせた。
「ネイラン、帰るね・・・」男の子は言った。
「あれ? 犬だめだった?」チッサは残念そうな顔をする。
「ううん。・・・今日。忙しいから」
「そっか。じゃあまた来てね」
「うん、またね」
ネイランと呼ばれた男の子は、ちらっとエルダを見てから、部屋を出ていった。
「彼ね、本当は名前を知らないんだ。教えてくれなくてさ。だから、勝手に好きな名前をつけたんだ」
予期せぬ訪問者に気を取られているエルダは、チッサに声をかけられ、ふっと我に帰った。
エルダは大きく息を吐いた。自分がかなり緊張していたことを知る。
「・・・ネイラン、犬がダメなの知らなかった」
チッサが寂しそうにぽつりと言った。
「実はね、昨日話した外の風景の話。あれ、ネイランが教えてくれたんだ。他の話もそう、湖畔に立つ木々の種類とか、今年の麦の収穫具合とか、隣村で風邪が流行ってるとか、全部彼が教えてくれる」
あの男の子が何者かはわかならいが、チッサとどういう関係なのか、エルダはすでに察していた。
薬と称した飲み物を扱う一連の動作。それを疑いもなく飲み干すチッサ。そして、自分の感情を、お互い素直に、言葉に、表情に出している。
彼らはもう長いこと知り合いなのだ。
「内緒ね。母さんは知らないの」
やはりな。
自分が誰かに話すことは不可能だから、心配無用だ。それに、あの子が何者であれ、自分が詮索する理由はないとエルダは思った。
チッサがまた手を伸ばすしぐさをしたので、エルダは撫でられにいった。
しばらく背に感じていたチッサの手が、ふっと止まった。
「ねえ、この毛がどうしていつもふかふかだと思う? 古いものが抜けて、新しいものが生えてくるからなんだ」
エルダは話の邪魔をしないように、じっとしていた。
「この世界はね、全てそうやって動いているから、美しいんだよ」
チッサが何を言おうとしているのか、エルダは何となくわかった。
「僕が旅立つ電車はいつ来るんだろうなぁ。もう準備万端なのに。僕は旅行カバンを、開けたり、閉じたりしてるばっかりだ」
少し笑いながら、チッサはそう言った。
ダグがようやくお茶を持ってあがってきた。
甘い匂いのお茶を運びながら笑顔を見せたダグは、さっきの男の子のことも、チッサの気持ちも知らないままでいるのだと思うと、エルダは少し羨ましく思った。