(1)
バリーン。
ガラスが割れた音に驚き、店員がかけつける。どうやら試着室の方からだ。カーテンが開き、その試着室からひどいふくれ面な女の子が出てきた。あ〜あ、鏡は縦横に大きく亀裂が入り、下の方は粉々に割れて床まで散らばっている。
呆然とする店員の前をその女の子は憤然と通り過ぎた。怯えている店員は女の子に目もくれず、立ちつくしたままだ。
女の子はそのまま勢いよく店のドアを開いて出ていく。その反動で扉が勢いよく閉まり、急に入ってきた外からの風にあおられた店員は、今度は扉の方を向いて、キャー!と大きく叫んだ。
「ちくしょ~! あいつ嘘つきやがった!」
怒りのぶつけ所を探しているかのように、店を出たルブランは獰猛な獣のように吠えた。ルブラン。さっき試着室から出てきた女の子だ。本当は彼女に名前などない。でも呼び名をつけないと話を進めづらいので、彼女の外見からピッタリの名前を選ぶことにする。
ルブランーどこかの言語で「白い」という意味だったと思う。彼女の肌はそれは透き通るような白だ。少し病的にも見えるのは、華奢な体つきも手伝っているからだろうか。しかし対照的な黒髪のおかっぱ頭と、まん丸な大きな黒目、そしてちょうど大人とティーンの狭間にいる者が持っている不安定さがその瞳の中に見え、彼女はとても魅力的だ。
ルブランは何歳くらいなのか。私も検討がつかないが、彼女の外見は、彼女を「大人の女」と呼ぶのを妨げている気がする。
ルブランは腹立ち紛れに、通りに置いてあるゴミ箱を力いっぱい蹴った。その後、たまたま横切った散歩中の犬を、飼い主のリードを取り上げて放ち、停まっていた車のボンネットの上に飛び乗り、何度もジャンプしてはへこませた。よほど腹が立っているのだろう。ルブランの怒りはおさまる気配がなかった。
彼女の周りの人間は、理由もなくへこんでいくボンネットを唖然として見ているだけだった。やれやれと車から目を背ける人もいれば、恐ろしい形相で逃げていく人もいる。そう、みんなにはこれが怪奇現象にしか見えない。なぜなら、ルブランは誰にも見えないのだ。
なぜルブランがこれほど怒っているのか、それを知るためには時間を遡る必要がある。あの時までルブランは、ほら、あそこに見える、石垣の玄関を構える緑豊かな公園で、自分なりの楽しい日々を送っていた。それが三週間ほど前……。
<3週間前>
いつものように大きなあくびをしながらベッドから起き上がると、ルブランは寝癖のついた髪の毛を掻きむしり台所へ向かった。テーブルには三人分の食事がもうできている。スクランブルエッグにソーセージ、サラダ、そして牛乳とオレンジジュースが並べて置いてある。栄養満点の朝ご飯だ。でもルブランは、用意された健康的な朝食には目もくれず、戸棚を探って蜂蜜入りのシリアルを取り出した。そしてそのまま口いっぱいに放り込む。入りきらないシリアルが口から溢れるのも構わず、ほおばった両頬を満タンにさせている。味には十分満足しているのか、終始表情を緩めっぱなしだ。そのうちシリアルの箱を放りだして、そのままむしゃむしゃ口を動かしながら部屋を出ていった。
ルブランは最近、ずっと気持ちのよい朝を迎えていた。ここの奥さんが、彼女の大好きな蜂蜜入りのシリアルをきらさずにいるからだ。奥さんといっても、ルブランにとっては赤の他人。母親でもなければ、親戚のおばさんでもない。
このアパートの一室にはスミス一家が住んでいた。庭師の旦那さんと、厚化粧の奥さん、それにケヴィンという子どもの三人家族。もちろんルブランは居候でもない。だってルブランは誰にも見えないのだから。
要するに、ルブランは勝手にこの家に住みつき、勝手にケヴィンのベッドに寝て、勝手に食事をとっていた。五歳になるケヴィンは、いつも床の上で目を覚ました。寝ている間に自分がルブランによって追い出されているなんて、少しも気づいていない。
「ケヴィン!」
母親の怒声が響く。床に寝ていたケヴィンは母親の声で目を覚ますと、次にやってくる爆弾に身を縮こませた。
ケヴィンの母は台所に立ち、開けっ放しの戸棚と、汚く散らばった蜂蜜入りのシリアルを見て、顔を真っ赤にさせている。
「ケヴィン!!」
より大きな声がアパート中に響く。そう、決してケヴィンのせいではないのである。でもこれがいつものスミス家の朝だった。
今度は、裏の道に目を向けてほしい。ケヴィンの泣き声が響くアパートのちょうど真裏だ。
一台の小さなトラックが停まっている。荷台には段ボール箱や家具など引越の荷物が見えるよね。今荷台から段ボール箱を下ろしているのが、ジュリアン・トス。ひょろ長い体型に、少し馬面な面立ち。でも優しそうな雰囲気の青年である。
ジュリアンは、夜通し自分で車を運転し、今朝この町に引っ越してきたばかりだった。額の汗を手で拭い、段ボール箱を手にアパートの階段を上がる。新しい住まいは五階建ての五階。残念なことにエレベーターはなく、荷物を運ぶだけで一苦労だ。友人のデイブも手伝ってくれてはいるが、まだまだ時間がかかりそうだった。
「あとどれくらいある?」
上からかすれたデイブの声が降ってくる。見上げると、螺旋階段の真ん中からデイブが疲れた表情で下を覗き込んでいた。
ジュリアンとデイブは大学からの友人である。卒業後デイブは生まれ故郷のこの町に戻り、そして今回縁あってか、この町の大学にジュリアンが教授として赴任することに決まったのだ。
ジュリアンは、ひきつった笑い顔だけ見せた。
デイブはわかったと手を前に振り、大きなため息を吐き、突き出たお腹をさすった。
「毎日この階段上り降りすれば、ちょっとはエクササイズにはなるな。ま、住むのはお前だけど」
ジュリアンはずり落ちそうな段ボール箱を引き上げた。どこから聞こえるのだろうか、子どもが泣く声と母親がわめき散らす声がアパートの中まで聞こえてくる。同情した表情を見せ、ジュリアンはまた階段を上り始めた。
さて、ケヴィンが身に覚えのない罪で、母親にこっぴどく叱られている頃、ルブランはどこに行ったのか?
ルブランは行きつけのカフェにいた。最近のお気に入りの店。店自体は古めかしいが、それまで行ったどこのカフェよりもコーヒーが美味しいのだ。それに、もっと美味しく飲める飲み方を最近発見したばかりだった。
その美味しいコーヒーの作り方を、ルブランが今やってのけている。
紙カップにコーヒーを七分目ほど入れ、その上からソフトクリームのように生クリームをのせる。コーヒー上に高さのある生クリームを入れるのはなかなかの技術がいるものだ。でもルブランは難なく10センチ以上盛り上げると、満足そうな顔でそのコーヒーを一口飲んだ。美味しい、大きく開かれたルブランの目と鼻はそう言っている。
大事そうにコーヒーを抱え、ルブランはカウンターを出た。ちょうどレジの前にあった大きなポテトチップスの袋もつまみ上げ、出口へと向かう。
ちょうど開店前に店先の掃除をしていた店員がドアを開けて戻ってきた所だった。鼻の頭に生クリームをつけたルブランとすれ違うが、もちろん店員は素通りだ。でもすぐに店員は今入ってきたドアの方を振り向いた。ガシャーンと大きな音がしたからだ。ドアは開いたままで勢いよく反対側に置かれた鉢植えに激突しており、ドアのガラス部分が見事に割れていた。
急に突風が吹いたのか、それとも自分が無意識のうちに乱暴にドアを閉めたのだろうか。店員の頭にはそんな考えはいっさいなかった。突然わっと泣き出した店員は、店の奥へと消えてしまった。
ここまでは、主人公が登場するまでのお話。
この物語は、ある不思議な力を持った者が出会った、いや、これから出会う話である。
おっ、その主人公がようやく到着したようだ。
ルブランがコーヒーとポテトチップス片手に、大好きな公園のベンチに向かう途中に、バス停があったのを覚えているかな。そこにちょうど大型バスが一台停まったところだ。長距離バスだ。出てくる人はみなスーツケースやら大きな鞄を持っている。
列の最後に年期の入った大きなリュックを背負った男性が降り立った。ダグ・ハリス。無精髭でむさ苦しい、いかにもバックパッカー的な雰囲気を漂わせている体格のいい男性。そしてその主人の横で賢そうに寄り添う彼の犬、エルダ。代々由緒あるゴールデンレトルリバーの血筋で、金色の毛並みはきれいに流れ、その顔もどこかしら気品がある。
ダグは町を懐かしそうに見回し、エルダに話しかけた。
「この町には古い友人がいるんだ」
ダグはエルダのリードを引くと、公園とは反対方向に歩き始めた。
従順なエルダはもちろん、ご主人様に寄り添うようについて行くが、一度だけ足を止め、公園の方を振り返った。
「エルダ、どうした?」
エルダは何事もなく、また歩き始めた。
不思議な力を持つ主人公、エルダは、嗅ぎたくはないそのにおいを、もうかぎ取っていた。
(2話へ)