馬鹿な男の「離婚」について
この駄文は、特に続きものという訳では無い。気の向くまま、筆者の(もしくはどこかの誰かの)後悔を垂れ流す場所である。
”場所”などという言い方は素気ないかもしれない。私にとっては精神の保安のための告解部屋という趣だが(そんな部屋入ったこと無いが)、読者にとっては、そんなもの己で勝手に処理してくれと払いたいタイプのものだろう。
わかっている。大丈夫、聞かなくてもいい。だから、言葉をここ置かせて欲しい。それだけで良い。持たざるエセ表現者が、それでも自身の不器用な人生を切り売りしたいという時は、必死なのです。端から見れば大変滑稽なことだと思う。自分で稚拙だとも思う。でも、切実なのです。それは、このように述懐さえ出来ぬ場合はもっとつらい。だから、通り過ぎていいから、蔑んで良いから、ここの片隅に埃を積ませてほしい。そしてもし、一抹の温情を賜れるならば、憐れみの眼差しを向けて頂ければと思う。
さて、以下に記すのは、私が離婚をして1年ほどたった、今の話だ。私の先輩──それは離婚の先輩でもある人だが──自嘲気味に笑いながらこう呟いていたのを思い出す。
「寂しくなくなってからが本当の孤独」
逆説的だが、今はなんとなくその意味がわかる。もしかしたら、読者の中にも何らか覚えがある人もいるかもしれない。
私の場合、先にあげたように1年ほどたってからこの言葉が響いている。離婚という事実を相対化し、距離をとって眺め、何が悪かったか、自分で反省も納得も出来ている状態であるのに、「次にどう動こうか」そうして回れ右をしようとした時に下げた足が、地面につかない。肘を置こうとして肘掛けが無かった時のあの落差のように、下り切ったと思っていた階段にもう一段あった時のあの落差のように、私の右足は空を切ったのだ。
どうやら離れていったのは私ではない。妻が歩んでいったのだ。それを私は、自分が距離をとったと錯覚していた。
また悪いことに、離れゆく彼女を視界から外れないように躍起になっていたのかもしれない。まるで望遠レンズで月を捉えた写真のように、離れれば離れるほど、それは日常の景色と比較して異様に大きく映っていたのだ。
つまり私は、1年前のあの日から一歩も外に出ていなかった。
悲しいことに、上記の精神的状況は、私の置かれる物理的状況にも大いに連関している。先に荷物をまとめて家を出たのは妻の方だった。二人で4年近く過ごした貸アパートを、私もすぐに出れば良かったのだが、私はそこに、1年後の今の今まで、身を置いた。
「広く使えるようになって快適だから」などと、周囲に最もらしく語っていたとは、赤面するに余りある。私は、かつて妻と共に暮らした環境に精神的安寧を委ねていたのだ。ぬるま湯に半身浸かり、もう片方で「客観視できた」などと愚かにも宣っていた。見ていたのはゼロ距離で反射する己であるのに。
では今、このようにひとりごちているからには回れ右できたのかというと、白状するがそうではない。妻の背中を、やはり未練がましく視界に捉えたまま、後ろ歩きで一歩下がっただけだ。それは物理的には、引っ越しをきっかけにしている。
冒頭の先輩の言葉に戻ろう。
「寂しくなくなってからが本当の孤独」
私の言葉で解釈するなら、これは置いて行かれたことに気づかなかった愚か者の末路だ。確かに物理的に一人でいることには慣れてしまった。だから、私は恐らく引っ越しが出来た。でも、そこで初めて、私は自分の立ち位置を知ったのだ。
当然、離婚を超克したと錯覚している馬鹿な男の選んだ引っ越し先は、間違いだらけである。だが、それはまた別の機会に。