馬鹿な男の「馬鹿」について
無能とか、馬鹿とか、できない奴、とか。会社で時々耳にする。
その度に、心がサワワ...とする。自分のことを言われている訳では無いけれど、自分のことのように居心地が悪くなる。だから僕は自分から、おどけている状況で無い限りは、他人のことを絶対に上記のように表しない。
ただ、僕は僕自身のことを馬鹿だと思っている。不器用な馬鹿。人生を生きるのがヘタクソな馬鹿。自ら不幸に進んでいく馬鹿。
これまで多くの選択を誤ってきた。いや、誤ってきたとは言い訳じみている。誤らせているのはまた自分自身なのだから。巷でよく聞く大言には、「選択自体には正解も間違いもない。大事なのは選択した後だ」というありがたいお言葉があるが……いや、別にこれを否定している訳では無い。全くその通りだと思う。その通り過ぎるからこそ、毎度、選択後の行動があまりにも不甲斐ないので、この言葉が耳に痛いだけだ。それはもう憎いほどに。
僕が他人を馬鹿などと、とても言う気にならないのは、自分を差し置いて相手の方が劣っているなんて、全くそんな気になれないからである。
これから少しずつ、気の向くままに、自分の愚かさを記していこうと思っている。
「恥の多い生涯を送ってきました。」から始まる有名な手記があるが、彼は当時、それでも27歳だった。私から見れば、まだまだ取り返しがきく。あえて自分の年齢は語らないが、子供や学生時期によく書かされ、また語らされた「将来は〜」の”将来”などとっくに過ぎた僕が、取り返せないものに少しでも手を伸ばすため、深夜にキーボードを叩いている。