空母「ペーター・シュトラッサー」改め「瑞龍」見参!
「ジャップの空母だ!」
「やっちまえ!」
空気を引き裂くように、けたたましい音を立てながら急降下する米艦爆SBD「ドーントレス」。
海上ではその攻撃から逃れようと、巨大な日の丸を飛行甲板に描いた空母が逃げ惑う。だが如何に機動力の高い高速空母であっても、航空機のスピードからは逃れられなかった。
次々と投下される爆弾。その中の数発が、空母の巨大な艦体に吸い込まれるように着弾した。
直後、3隻の空母は次々と巨大な火柱を噴き上げ、大炎上した。着弾した爆弾が爆発するとともに、米機動部隊への攻撃に向けて用意していた第二攻撃隊の航空機や、搭載弾薬に誘爆したのだ。
「やったぞ!」
「ざまあ見やがれ!」
「アメリカ合衆国バンザイ!」
だが、そんな彼らに艦隊防空を行う零戦が追い付き、攻撃を始めた。
「や、やられた!」
「ガッデム!脱出する!」
殊勲の艦爆隊であったが、爆撃後実に3分の2までもが撃墜されてしまった。雷撃機に釣られて艦爆の攻撃を許しはしたものの、その数が多いだけにSBDに次々と追いついたのだ。
「ゼロめ!」
「まだ無傷の空母がいるぞ!」
既に攻撃を終了したものの、海上には日本の無傷の空母が確認できた。その数3隻。
「母艦に戻って再出撃だ!」
米パイロットたちは再攻撃の意気に燃えるが、一方で彼らの編隊は出撃時の3分の1近くまで激減していた。
一方撤退する米機を見送る日本海軍将兵の中に、少将の階級章を付けた人物が一人いた。
「「赤城」「加賀」「蒼龍」が大破か。また手酷くやられたな」
「ですが司令、まだ本艦と「飛龍」「瑞鶴」は健在です」
「そうだね。まあ、一矢くらいは報いれるかな。少なくとも、フィンランド軍よりははるかに恵まれた状況だ」
少将が艦橋から飛行甲板を見降ろせば、米空母への反撃の矢となる攻撃機がプロペラを回し、搭乗員が搭乗前の打ち合わせをしている。
「攻撃隊発艦準備完了!」
「司令官、いえ長官。御命令を」
「まったく、山口君も人が悪い。指揮を執るなら自分で執ればいいのにね」
3隻の空母が被弾し、その中に第一航空艦隊旗艦「赤城」が含まれていたことで、司令長官である南雲の安否が一時不明となった。
そのため、その指揮を第七航空戦隊司令である大倉中将が執ることとなった。彼としては空母の指揮に通暁した第二航空戦隊司令の山口少将に執って欲しかったが、階級上は大倉が残された指揮官の中で最上位であり、加えてその山口から「第七航空戦隊司令は第一航空艦隊の指揮を継承されたし」と推挙されては、執らないわけにはいかない。
「攻撃隊発艦!」
大倉の命令一下、3隻の空母から攻撃隊が発進する。零戦19、99艦爆28、97艦攻22機からなる総計69機の編隊である。
彼らは一路、被弾大破した空母の仇を討つべく、米機動部隊へと向って行った。
さらに3隻の空母では第二次攻撃隊の準備が進められる。格納庫では第一次に間に合わなかった機体への補給や修理作業が行われている。それが終われば、総計50機余りの攻撃隊が発進するはずであった。
一方で、米機動部隊やミッドウェー島からの新たなる敵攻撃機への警戒も怠れない。上空には数は減ったものの援護の零戦が飛び、また護衛艦艇も今度は空母を守り切るとばかりに、対空火器を上空に向ける。
大倉たちの気が休まることは、当分なさそうであった。
「やれやれ。ヨーロッパから帰ったあとの初実戦がこれとはな」
大倉は空を睨みながら、自身や自身が乗り込む空母「瑞龍」の数奇な運命を反芻した。
空母「瑞龍」を見れば、おそらくほとんどの人は空母「飛龍」の艦橋を右舷側にしただけの艦と思うだろう。事実そうである。
空母「瑞龍」は「蒼龍」「飛龍」の流れを組む艦であり、現在建造中の「雲龍」の姉とも言うべき艦だ。
しかしながら、その艦生は数奇なものである。そもそもこの艦は、日本の軍艦として建造された艦ではなかったのである。
「瑞龍」建造の発端は、遠くドイツにおけるヒトラー率いるナチス党政権成立と、その後ナチス政権が実行したヴェルサイユ体制打破に伴う再軍備に遡る。
このドイツの再軍備を、結局のところ国際社会はなし崩しの上で承認したのだが、その中で「瑞龍」建造に繋がったのが、1935年に英独間に締結された海軍協定だった。この協定により、ドイツ海軍は大英帝国海軍の保有する艦艇の35%を保有できるという、お墨付きを得たのであった。
そしてその中には、ドイツがまだ保有していなかった航空母艦も含まれていた。
この保有枠で、ドイツ海軍は自国オリジナルの空母「グラーフ・ツェッペリン」の建造を開始した(建造計画はそれ以前からあった)のであるが、この時代航空母艦を保有している国家は日英米仏の4カ国しかなく、歴史的にみてもまだまだ技術的蓄積が不十分な兵器であった。それも、特に高度な技術が要求される軍艦の中でもでだ。
そうなると、ドイツ海軍は建造を開始したはいいが運用も建造のノウハウもない。となれば、それがある国から貰ってくることになるのは、自明の理であった。
しかし英仏は実質的に敵対国家となってしまい、中立の米国も少なくとも軍はイギリス寄りなので宛に出来ない。
となれば、残るは最近中国大陸の権益を巡って米英などとギクシャクし始め、ドイツと同じくソ連を目の敵にする日本くらいしかない。
そうして、ドイツ海軍関係者が日本海軍に空母に関する技術を提供するよう、まずは呼びかけた。しかしながら、日本海軍としても最新兵器の情報をおいそれと渡すはずもなく、この試みは失敗した。
そこでドイツ海軍関係者は作戦を変えた。直球がダメなら変化球である。
海軍に直に頼むのではなく、ドイツと関係の深い川崎などの民間企業、陸軍、さらには外務省などのルートからアプローチした。
この作戦は図に当たり、最終的に財界の大物や華族などの伝手によって、ドイツ海軍は日本海軍側から空母の乗艦見学や外部写真を得ることに成功した。
しかし、この成功はドイツ海軍関係者にとって逆に悩みを大きくする結果になった。なぜなら空母とそのシステム自体が、ドイツにとって未知の産物であり、ドイツ側がその高い技術で昇華するにしても、得られた写真やスケッチ、極わずかな書類で再現できるほど容易いものではなかったからだ。
いや、厳密に言えば「グラーフ・ツェッペリン」を空母として完成させることは、何とかできるだろう。だがその戦力化と運用ノウハウを確立するのに、途方もない時間を必要とするのだ。
これを解決する方法は一つ。空母の現物(それも使える艦)をとにかく早期に手に入れて、運用ノウハウを実地で手に入れること。
そこでまずドイツ海軍は、日本海軍に一番旧式の「鳳翔」の購入を打診した。既に空母としては小型過ぎ、性能も陳腐化している同艦の売却は当初うまく行くかにも見えたが、しかしながらこれは海軍の計画が外務省や陸空軍に漏れて、さらにはヒトラー総統の耳にまで達して失敗に終わった。
何故に東洋人から、それも時代遅れの艦を買わねばならないのかと。
こうなると、ドイツ海軍も「鳳翔」を買うわけにはいかない。そこで次に目を付けたのが、日本海軍が竣工させたばかりの「蒼龍」だった。同国初の本格的な新造正規空母で、スペックなども一流であった。
これならヒトラーも納得するはず。
ドイツ海軍は最高司令官のレーダー元帥直々にヒトラーだけでなく、空軍大臣のゲーリングや外務大臣リッペンドロップらを拝み倒して、ついに予定していた空母の2番艦「ペーター・シュトラッサー」の建造凍結と引き換えに、購入許可を得た。
逆に購入に難色を示したのが日本だった。旧式小型空母を厄介払いとばかりに売り払えると思いきや、自分たちにとっても最新の空母を売ってくれというのだから、当然と言えば当然だった。
もちろん、ドイツ側もそれくらいは心得ており、自分たちが金銭面以外で譲り渡せるものを等価としてつけた。
日本海軍では立ち遅れている魚雷艇に関する技術や、日本のものより優れた静粛性を持つ潜水艦技術等々。
もっとも、日本海軍が一番喜んだのは液冷発動機と急降下爆撃機に関する技術資料だった。これらは日本海軍が喉から手が出るほどに欲していたものだからだ。
本来こうした航空技術は空軍の管轄なのだが、これもレーダー元帥らが空軍を拝み倒し、ひたすらヒトラーを説得した成果であった。
もちろんそれだけでなく、日本側もドイツ側より進んでいた飛行艇や水上機、航空魚雷の技術を差し出してはいるのだが。
とにかく、こうした紆余曲折を経て、ドイツ海軍の航空母艦「ペーター・シュトラッサー」(建造延期となった「グラーフ・ツェッペリン」級2番艦の名前を流用)の建造は、日本の神戸川崎造船所でスタートした。
海軍工廠でなく民間造船所での建造となったのは、民間造船所に大型艦艇建造経験を積ませるとともに、機密保持の観点からであった。進捗状況を見に来るドイツ海軍軍人に、海軍工廠をうろちょろさせたくないということだ。
さて、このドイツ向け空母の建造もようやく始まったのであるが、その工事も前途多難であった。
原因はドイツ側が要求した工期であった。通常この手の大型艦の建造には3年程度、場合によっては4年程度の工期が必要となる。巨大軍艦の造るのには、手間暇掛かるのだ。
ところが、この空母の建造開始は1937年1月のことであったが、ドイツ側の要求はなんと1938年中の引き渡し、つまり2年以内に完成と言う無茶ぶりであった。
ただし、ドイツ側としては「艦の武装と格納庫内の航空機運用設備はドイツ本国で回航後施す。また居住設備も基本はドイツ回航後施すとし、回航要員が乗り込む最低限のものがあればよし」という付帯条件をつけていた。
確かにこれだと、基本日本側は艦体と航空機の発着艦設備、機関をふくめた航行設備と回航に必要な分だけの居住設備を整えればいいので、工期は大幅に短縮できる。
もっとも、それだけではまだ工事期間を削減するには不足と見た造船関係者たちは、思い切って艦内の艤装もトコトン切り詰める作戦に出た。
この努力が、後に戦時急造空母「雲龍」型の建造に活かされることとなるのだから、何がどう転ぶかわからないものである。
もちろん、造船所の工員たちも納期に間に合わせるべく、突貫工事を行った。
その結果、ドイツ側が要求した工期ギリギリの1938年(昭和13年)12月28日に「ペーター・シュトラッサー」は、一応の竣工となった。
一応なのは、言うまでもなく同艦が空母としてはほぼドンガラだけに近い状態で、戦闘に使うためには多くの残工事を残していたからだ。
その後回航のための要員が乗り込み、3カ月ほどの習熟訓練の後、いよいよドイツに向けて回航されることとなった。
回航にあたっては、要員の帰国のためと護衛を兼ねて重巡洋艦「摩耶」が、また補給のために補給艦「鶴見」が同行する。
回航される「ペーター・シュトラッサー」(仮称)の艦内にはドイツへと提供する航空機や戦車などが搭載された。
なお、一応ドイツ引き渡しまではあくまで建造した造船会社の持ち物なので、扱い上は民間船となる。このため、乗り込むのは所属上は全員民間人となり、軍人は搭載された航空機などの引き渡しに関わる数名のみとなった。
こうして1939年4月15日、3隻は神戸港を出港した。
回航航路はシナ海を南下し、印度洋、大西洋経由でヨーロッパを目指す。パナマ運河を通らないのは、対米関係悪化のために、通行は危険と判断されたためであった。
だが、そもそもドイツに軍艦を売却すること自体、かなり危険なこととなっていた。
この時期までに、ヴェルサイユ体制から強引に抜け出したナチス・ドイツは再軍備に留まらず、オーストリア併合やラインラント進駐をはじめ、既存の秩序に明確に挑戦し、英仏などの周辺諸国との緊張を高めていた。
このため「ペーター・シュトラッサー」の建造に関しては、建造開始後英仏から懸念の声が寄せられていた。
もっとも、日本も英仏などと中国大陸を巡って関係が悪化しており、加えて「ペーター・シュトラッサー」の建造自体は、何ら法的に問題ないビジネスと言ってしまえば、それでお終いであった。
とは言え、特に英国としてはこの艦をドイツに渡されると「困る」ので、日本を出港した直後から、公海に出た時点から巡洋艦による執拗な追跡が開始された。
さすがにこの時点では、露骨な航行妨害こそしてこないが、付かず離れずの位置をキープされる。
さらに、日本の領土から遠ざかり、逆に米英仏蘭の勢力圏内に入ると、追跡する艦艇の数が急速に増え、いよいよ露骨な航行妨害が始まった。
異常接近に進路妨害、通信妨害などをやってくる。
「ペーター・シュトラッサー」に乗り込んだ回航責任者の大倉少将は、この状況に舌打ちした。
「これじゃあ、マラッカ海峡の通過は危険だな」
そこで、彼は大胆な手を打った。
折しも突入したスコールの下で、まず給油艦「鶴見」を分離し、単独でマラッカ海峡に向かわせた。
対する「摩耶」と「ペーター・シュトラッサー」は、速度を30ノットに上げて、シンガポール沖を高速通過、さらにはスンダ海峡を突破するコースを選んだ。
この作戦は図に当たり、燃料を無駄に消費したものの、連合軍艦艇を振り切ってインド洋へと出ることに成功した。
その後「鶴見」と合流した2隻はインド洋で給油し、再び「鶴見」と分離、大西洋へと入って待ち構えていたドイツ船籍のタンカーから再び給油を受け、欧州へと向かった。
ところが、赤道を越えたあたりから再び英仏、さらには米艦艇から執拗な追跡と妨害を受けることとなった。
こうなると、当初目論んだ最短の航路を走ることは難しい。加えて燃料の消費も激しくなった。
このため2隻は、予定になかった南米やスペインの港などへの寄港を余儀なくされ、当初だったら5月中に到着するはずが、7月に入ってようやくアゾレス諸島に入港と言うありさまだった。
その後英国の手前、ドーバー海峡を通るわけにもいかず、やむなくデンマーク海峡経由で迂回し、何とかノルウェー沖にまでは到達した。しかし、ベルゲン港に投錨したものの、そこから先の北海を突破する目途が完全に立たなくなってしまった。
英海軍が網を張っており、とても進める状況にはなかったからだ。
そうこうしている間に、1939年9月3日の第二次世界大戦開戦を迎えた。この時点で「ペーター・シュトラッサー」の売却は不可能となった。
ドイツまであと一歩というところで、同艦は引き返すしかなくなってしまった。
そうして失意のまま日本へと帰港するため準備を始めた元「ペーター・シュトラッサー」であったが、そこへ隣国のスウェーデン大使館付き武官が、さらにその隣国のフィンランド軍関係者を連れて乗り込んできた。
「貴艦搭載の航空機をフィンランドに売却することとなりました。つきましては、載せ替えをお願いいたします」
なんと、ドイツに譲渡するために載せてきた機体をフィンランドに売るという。
フィンランドが日本の機体を買い込むことになったのは、日本とフィンランド間で絶妙なタイミングで互いの希望がマッチしたことにあった。
と言うのも、ちょうどこの時フィンランドは後の時代で言うところの冬戦争(第一次ソ・フィン戦争)直前の時期にあり、ソ連の脅威にさらされていた。そのため、例え数は少なくとも使える武器を彼らは欲していた。
一方日本海軍側としても、本来であればドイツ側に支払ってもらう筈だった金を少しでも回収したい。加えて、フィンランドに兵器を供与し、ソ連への牽制となるならば、ソ連を仮想敵国とする陸軍にも恩を売れる。
こうして「ペーター・シュトラッサー」(仮)に搭載されていた航空機と一部の武器はフィンランドに売却されることとなり、同国籍の貨物船に移し替えられて運ばれていった。そしてそれらは、間もなくはじまる冬戦争で大活躍することとなる。
一方とりあえず搭載物を捌いた「ペーター・シュトラッサー」(仮)は、再び大西洋とインド洋を経由して日本本土への航海の途についた。
帰りは米英仏蘭などの追跡こそあったが、交戦状態にはないために往路のような航行妨害はなかった。ただし、予想外の長期航海、それも居住設備が最低限のものしかない艦内での生活は、乗員に大きな苦痛を伴うもので、体調不良者が続出するというアクシデントに見舞われた。
これは結局、インド洋上で急遽派遣された交代要員が乗り込むことで、何とかしのぐくこととなった。
同艦が日本の神戸に帰りついたのは1939年12月のことであった。
さて、こうして日本に戻ってきた「ペーター・シュトラッサー」(仮)であったが、ドイツへの売却話が流れたために、結局日本海軍が買い取り残工事を施工の上、空母「瑞龍」として就役させることとなった。
軍縮条約時代であれば「瑞龍」の保有は制限超過となるところであったが、この時点で日本は軍縮条約から脱退しており、そうした制限には囚われない。
また本来は最大の敵となるであろう予算に関しても、1937年7月に始まった支那事変(日中戦争)による軍事費の拡大により、問題ないものとなっていた。
とは言え「瑞龍」を使える空母にするためには、内部の居住設備の整備に、武装の搭載など、多くの残工事が待ち構えていた。
また本来日本海軍で使用する予定のなかった艦であるのだから、新たに乗員や搭載する航空隊の手当てもしなければならない。
支那事変の泥沼化に加えて、米英など欧米諸国との外国関係が日増しに切迫する中で、空母戦力の増勢は急務であったが「瑞龍」の戦力化には困難が付きまとった。
結局、こうした現実を前に「瑞龍」が空母としての工事を終えたのは1941年10月末で、公試が始まったのはその翌月にまでずれ込んだ。
そうこうしている間に、12月8日には対連合国開戦の日を迎えてしまい「瑞龍」は、第一航空艦隊に属する姉妹の「飛龍」「蒼龍」、妹分の「瑞鶴」「翔鶴」が華々しい戦果を挙げた真珠湾攻撃、さらにはその後のインド洋作戦にも参加できなかった。
さらに、搭載する航空隊の編成も開戦による前線への戦力投入が優先されたため、人員と機材が揃ったのは年明けの3月となった。
こうして実戦に出られる状態となった「瑞龍」は、新たに編成された第七航空戦隊の一員となり、司令官としてかつての欧州回航の責任者であった大倉少将が着任した。
しかしながら、この時点ではペアを組む艦(準同型艦の「雲龍」の竣工予定は1944年前半)がないため「瑞龍」のみの寂しい編成であった。
このため、せっかく実戦配備されたもののしばらくは出番がなく、4月18日の本土初空襲の際も瀬戸内海にいたため、出撃の機会を逸してしまった。
第一航空戦隊、第二航空戦隊、第五航空戦隊など、他の航空戦隊の活躍が届く中で「瑞龍」は忸怩たる日々を過ごした。
しかしながら5月に発生した珊瑚海海戦で、第五航空戦隊の空母「翔鶴」が被弾し大破、また無傷の「瑞鶴」も搭載航空機に多大な被害を出してしまった。
この時点で連合艦隊司令部では、ミッドウェー攻略作戦の発動を決定しており、これまで同様第一航空艦隊が主力を担うこととなっていたが、その一角が崩れてしまった。
そこで、急遽「瑞鶴」を第七航空戦隊に編入して「瑞龍」とともに行動させることとなった。
「瑞龍」を第五航空戦隊に編入と言う形にしなかったのは、同艦の戦闘能力、すなわち航空戦力が低下したためであった。
艦載機を消耗したために、損傷で戦線離脱した「翔鶴」の航空隊を加えたものの、なお定数には達していなかった。そのため急遽パイロットを搔き集めたために、「瑞鶴」航空隊は質の面で多いに低下した。
対して「瑞龍」の第七航空戦隊は開戦以来出撃が無く、2カ月程みっちりと訓練を行っており、航空機の定数も質もいい塩梅になっていた。
こうして「瑞龍」「瑞鶴」からなる第七航空戦隊はミッドウェー海戦に参加することとなったが、米機動部隊の先制攻撃によって、第一航空艦隊は空母の半数を一挙に喪ってしまった。
しかし、裏を返せばまだ半数の空母が残っていることとなる。
そして、日本側の反撃が始まった。
「敵「ヨークタウン」型空母轟沈!」
第一の矢として放った攻撃隊が、まず手負いの「ヨークタウン」を仕留めた。
だが偵察機からは。
「敵「ヨークタウン」型空母さらに2隻見ゆ!」
「敵空母は攻撃隊を発艦中!」
さらなる敵の存在が知らされる。もちろん、大倉はさらなる攻撃を命じた。
「ここが踏ん張りどころだ!頼むぞ!」
彼を含む艦隊将兵全員の期待を背に、零戦11、99艦爆15、97艦攻16機からなる第三次攻撃隊が出撃した。
だがアメリカ側も黙っていない。第一次攻撃で多数の未帰還を出し、空母「ヨークタウン」を喪いながらも、ヤンキー魂を発揮して日本側に空襲を仕掛ける。
しかし、機数が不十分なことに加えて、残存する3空母全てに攻撃機を振り向けたことが、結果的に彼らを敗北へと誘うこととなった。
この攻撃で空母「飛龍」が前部甲板に1発被弾したものの、幸いなことに致命傷には至らなかった。
攻撃機が3空母にバラケて攻撃を行ってしまったために、命中率の低下と、上空で待ち構えていた零戦による各個撃破の餌食となったのが原因だった。
対して日本側の第三次攻撃隊は6割の攻撃機を喪いながらも、2隻の空母の内で「エンタープライズ」にのみ攻撃を集中し、ついにこれを撃沈へと追い込んだ。致命傷となったのは、片舷に集中して3本が命中した航空魚雷だった。
ここに至り、米機動艦隊はハワイ方面へと退避をはじめた。3対1では勝ち目がないと見たようだ。
「山口少将より入電。さらなる攻撃の要を認む!」
第三次攻撃隊の戦果がもたらされた直後「飛龍」の山口提督から、さらなる攻撃を求める意見具申が、大倉のもとに届いた。
その報に大倉は苦笑しつつも。
「さすがにもう無理だろう」
この時点で残存稼働機は3空母合わせても60機余りにまで減少しており、しかも断続的に空襲が続いている以上、その全てを敵艦隊攻撃に出すわけにはいかなかった。
加えて朝から出撃の連続で搭乗員の疲労もピークに達しており、それでもって次の攻撃は帰還が確実に夜間となる。
これ以上の攻撃は、流石に無理と判断せずにはいられなかった。
「だが、3隻全て沈めて仇をとらんと、多聞丸は収まらんだろうな」
この時点で先に被弾した三空母のうち、山口多聞も以前は旗艦としていた「蒼龍」と「加賀」の2隻は火災がひどすぎ、終に復旧の見込みなしとなって総員退艦した後沈没した。
生き残った「赤城」も上部構造物は丸焼け状態で、大破であった。
対して米空母はまだ「ホーネット」が生き残っている。戦闘精神旺盛な山口提督ならまだやりかねないというのが、大倉の見立てであった。
しかし、結局のところそうはならなかった。
山本五十六連合艦隊司令長官直々にミッドウェー攻略援護のため、米機動部隊追跡を中止するよう命令が出たため、そして翌日潜水艦「伊168」が敵空母を撃沈したという報告を受けたためであった。
こうして米空母は全滅。制空権と制海権を得た日本側は、圧倒的な兵力でミッドウェーに襲い掛かり、易々と占領した。
ここにミッドウェー海戦は作戦目的を達成し、辛くも日本側の辛勝となった。
「何とか勝てたな」
数奇な運命を辿った「瑞龍」であったが、帝国海軍が挑んだ最大の決戦に間に合ったことで、同艦は大敗北を喫したかもしれない海戦を、なんとか勝利に持ち込む原動力となった。
戦闘が終わり、飛行甲板に降りた大倉は「瑞龍」を見回した後、こう口にした。
「やったな「瑞龍」」
今日この日まで、苦労を分かち合った戦友への労わりの言葉を。
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