恐怖から一時の解放
静かな海──。
波音が、癒しの音色を奏でている。
人間の精神、心といったものには、癒されるための感受性、受容体のようなものがあるように思われる。もちろん同じ音でも、人によって聞こえ方は違ってくる。
だが誰にも共通するような、普遍的な癒しの音──強弱はあれ──はあるのではなかろうか。
すなわち人間の精神の癒しの受容体は、皆ほぼ共通の形をしているのではないか。そしてその受容体の形は、静かな波音の波形と組み合わせると、ちょうど合致する形をしているのではないか・・・。
そう思われる程、波打ち際を歩いている梶田は静かな波の音色に癒されていた。これ程波の音が癒しを与えてくれるものだとは思わなかったと・・・。
梶田は何度も死を覚悟させられ、この世のものとも思えぬ恐怖に苛まされた。それだけにその反動で、癒しの波を体全体に染み渡らせるという恍惚を味わっていた。
あの恐怖から、まだ12時間も経っていないということがまだ信じられないでいた。特にどこか大きなケガをしていたというわけでもなかったので、午前中ベッドに横になっただけで、午後から散歩に出かけたのだ。
曇り空ではあったが、強い日差しが照り付けるよりは良い。心地好い、爽やかな波風も吹いているのもより一層効果的だった。
そんな恍惚を、横で想像しながら歩いている理保がいる。
梶田の顔をチラッと見て、どれだけ安らぎを得ているだろうかと思っている所に、唐突な言葉が降りかかって来た。
「僕たちは付き合ってることになってしまったらしい」
言葉の意味が全く理解出来ず、疑問符をいくつも頭の周りに浮かべた理保は戸惑いの言葉を発した。
「えっ? えっ?」
「まぁそれはどうでも良いんですが」
次に梶田から発せられた言葉は、更に理保を戸惑わせた。
「えっ?」
どうでも良いってどういうこと?
理保は怒りたい気持ちもありながら、何言ってるのかよく分からず、戸惑いが増幅され、どう対応して良いか分からなかった。
まさしく戸惑いの波が理保に押し寄せていた。
「協力して欲しいことがあるんです」
「ちょっと待って。その前に、さっき付き合ってるがどうのこうのって言ってたけど、どういうこと?」
「いやそのことは忘れてください。ちょっとぼーっとしてました。それより協力して欲しいことが・・・」
「忘れろ? 嫌だ忘れない」
「実は調べて欲しいことがあって・・・」
「人の話聞いてる?」
「聞いてないかも知れません・・・ちょっと最近いろいろあったもので」
「聞いて!」
「あの院長のことなんですが」
「付き合ってくれるんなら調べてあげる」
「分かりました。付き合います」
「えっ?」
「あの院長のことを調べて欲しいんです」
「今適当に言ったよね?」
「いや適当じゃない。僕は真剣です」
「えっ?」
理保は少し照れたが、次に発せられた梶田の言葉は、完全に理保に芽生えかけた嬉しい気持ちを刈り取った。
「僕は真剣に、あなたに協力して欲しいと思ってるんです」
「いや、そのことじゃなくて、私と付き合うってこと。適当に心にもないこと言ったよね?」
「そんなことはない。付き合うから協力して欲しい」
「協力して欲しいから、しょうがないから付き合うってことだよね?」
「僕を困らせないでください」
「いやいや私の方が困らせられてない?」
「呪いの女と呪いの男の子、この二人の霊があの病院に現れるのは、あの院長が原因だと思うんだ」
「まぁね。だけどどうしようもないから」
「だから僕の調査に付き合って欲しいんです」
「その付き合う!?」
「えっ? 他にどの付き合うが?」
「もういいよ。さっぱり訳分かんなくなって来た」
「僕も呪われてしまってるのか、頭がぼーっとしてしまって・・・」
「それとちょいちょいタメ語になってない?」
「あっ、ぼーっとしてたもので、すみません」
「いいよいいよ私達付き合ってるんだから」
「そうですよね。じゃあ今度からタメ語で良いですか?」
「思いっきし敬語だよね? それと今私達が付き合ってるって認めなかった?」
「・・・すみません。やはりぼーっとしてしまって」
「まぁ私はこの病院創立当初からいるから、あの院長は同期みたいなもんだし、ちょっとしたツテもあるから任しといて!」
「それは助かる。頼むよ。理保」
「えっ? り・・・ほ?」
理保は照れて下を向く。
「あっ。すみません。つい嬉しくて・・・」
「はぁ・・・」
理保はため息をつき、もう何がなんだか分からなくなっていた。
理保は稲村病院に、創立当初からいる。
創立当初は華々しく、業界からも期待され、創立メンバーはそんな病院に創立から関われることを誇りに思い、光栄に思っていた。そんな創立メンバー、看護師や医師、職員なども含め十数名、今でも働いている。そういう経緯もあり、辞めるのを躊躇したり、創立メンバーという漫然としたプライド・・・諸々のしがらみもあり、今でもこの病院で働いているのである。
その中には稲村院長に近い立場の者もいる。
そういったことから、何とかなるのではないか?
理保はそう思ったのだ。
何やら怪しげな、権力を欲しいままにし、不可能なことなど何もない、怪現象も一切意に介さない、不気味な存在の稲村院長とは一体何者なのか?
その正体──。
創立から10年間、何人の心臓病患者が手術を受け、そして死んでいったか・・・
そういった諸々のことを調べて欲しいと、梶田は頼んだ。
波打ち際を歩いている二人。
やがて沈黙が支配し、癒しの波をただただ存分に味わっていた。
が、眼前にその良い雰囲気を一切かき消す、異様な光景が現れた。
「ん? 何か行き止まり?」
「まだぼーっとしてんの? 海に行き止まりなんかあるわけないでしょ」
二人の歩いている先、はるか前方に、二人の行く手を阻むかのように、何か黒い線が見えているのだ。
ぼやけていたその黒い線の正体が、近付くにつれはっきりしてくる。
梶田の心には未だ恐怖の残像があるのか、徐々に震え出す。
梶田の異常を察した理保は心配そうな表情でたずねる。
「どうしたの?」
「大蛇だ・・・大蛇がいる・・・」
梶田の目には、巨大な大蛇が横たわり、二人の行く手を遮っているように見えていた。
理保の目には、何か巨大な黒い線としか見えておらず、梶田の様子が異様に思えるものの、何とかその恐怖を取り除いてあげたいという想いが沸いていた。
梶田はその場にひざまずいてしまった。
「ちょっと待って」
そう言うと理保は駆け出した。
理保の眼前に、巨大な黒い線が横たわっていた。
いや、よく見ると、それは何かの集合体だった。
その一つを理保はつまみ上げる。
それは・・・海藻だった。
海藻が砂浜に打ち上げられていることは稀にある。だが、これ程大量に、しかも巨大な黒い線に見える程規則正しく配列されているなど、通常では考えられない。
理保は少しほっとした。異様な光景には変わりないが、海藻の集合体ということであれば、まだ納得は行く。
理保は梶田を呼び寄せ、その正体を明かす。
「ほら。ただの海藻だよ」
理保は無理に明るく振る舞う。
「た、確かに海藻だけど・・・これは一体・・・」
梶田は海藻の集合体が織り成す巨大な黒い線の先を目で追う。
すると海藻の量が増し、盛り上がっていた。
崖があり、そこで巨大な黒い線は途切れていた。
崖の下に大量の海藻が盛り上がっていて、周囲にも海藻が散乱していた。
「これは・・・どういうことだ?・・・」
梶田は上を見上げた。崖の上の方を・・・
「?」
梶田はぶるぶる震え出した。
そう、そこは梶田にとって、最も思い出したくない場所、最も恐怖を想起させる場所だった。