1.アスペラ
ジール王国の王都リジエラは、短い夏の盛りであった。冬の長いジールの中では、一年で一番過ごしやすい季節である。
この時期ばかりは、皆、長い袖や重たい外套から解き放たれて、軽く柔らかな衣装を身にまとうのだ。
そんな明るい季節であるというのに、肌をしっかりと覆い隠す豪華、かつとても重たい衣装を着せられたアスペラは、その面を隠すヴェールを良いことに、深々とため息を零した。
ここ王都の大聖堂にある祭礼の間には、すでに多くの親族たちが詰め掛けていることだろう。これからそこで大勢の客を前に見世物になることを思うと、憂うつな気持ちに拍車がかかるようであった。
早朝からアミークス家の威信にかけて準備をなされた花嫁の姿は、アスペラの令嬢としては残念すぎる性質を熟知している侍女たちをしても、多くの賞賛を集めずにはいられなかった。アミークス公爵家の令嬢としてふさわしい実に美しい花嫁姿だったが、アスペラ自身は身動きもままならない豪奢な純白の衣装も、きつく結い上げられた髪型も、身を飾る重い宝石の数々も、好きになれるはずもなく。
美しく装うことに、爪の先ほども興味がない彼女であるから、妙齢の女性にとっては一世一代の見せ場であるはずのその日も、始まる前からただひたすらに早く終わって欲しいとしか思えなかった。まるで真冬の曇天のように憂うつな気分で、一刻も早く時間が過ぎ去ることを願うばかりである。
そんな彼女の気持ちとは裏腹に、すっかりと準備を終えた今となっても、式が開始するまでにはまだ少しばかりの時間があり。花嫁の控え室には現在、アスペラと御用聞きの侍女一人ばかりとなっていた。
そんな静かな時間に、アスペラはふと、先ほど控え室を出て行った自らの家族の姿を思い浮かべる。そして、生まれてから長らく、囚われていた鳥かごのような家へと思いをはせた。
――アスペラ・アエクム・アミークスはジール王国の大貴族であるアミークス公爵家の第三子、兄弟の中で唯一の女児として生を受けた。
現国王の従妹を母に持ち、国内でも一、二を争う名家の令嬢ということで、彼女は生まれた時から当然のように次代の王妃の最有力候補と見なされていた。アスペラ自身は生まれてこの方まったくその地位に興味がなかったものの、幼い頃は当たり前のように、いずれ王太子妃となるのはファーブラー家のアルレイシアか、アミークス家のアスペラであろうと、ジール王国の多くの貴族たちは考えていたようだった。
挙句に、成人の際にアルレイシアがその立場を放棄してファーブラー家の女相続人となったために、王家からは何の下命もなかったにもかかわらず、アミークス家の者たちは当時、まるでアスペラが王太子妃に決まったかのように喜んでいたものだった。母である公爵夫人にいたっては、社交界でもそのようなことを吹聴したせいで、影でずいぶんと笑われていたものである。もっとも、アスペラは愚かな母親に追従することなく、誰に何を言われたところで、知らぬ存ぜぬで通したのだが。
なんてことはない。
本人は小指の爪の先ほども分かっていないものの、実は王太子に蛇蝎のごとく嫌われている公爵夫人と違って、アミークス家の子どもたちには、王太子も数少ない縁戚として親しみを見せてくれていた。そのため、彼ら兄弟は幼い時分からなんとなく、王太子の意中の娘について察していたのだ。
だからアスペラは、母親が望むような未来など、決して来ないことを分かっていた。
それから様々なことがあったものの、結局、当然のように王太子は自らが望む令嬢を王太子妃と迎えることに決まり。
娘がすっかりと適齢期を過ぎても諦めがつかなかった母親の意地のために、最後まで王太子妃候補であり続けたアスペラは、そうして立派な嫁き遅れ令嬢となったのであった。
もっとも、その辺りの顛末については、アスペラ自身も望むところだったので問題はなかった。
アスペラは幼い頃から母親の望む「完璧な貴族令嬢」というものが大嫌いだった。
美しく装って愛想を振りまきながら、洒脱な会話を楽しむような社交は苦痛でしかなかったし、上手く出来たためしもない。勉強は嫌いではなかったものの、美しい貴族令嬢の条件として挙げられるような、美しい声で行う詩歌の朗読も苦手極まりなかったし、貴族令嬢の高尚な趣味である刺繍や楽器の演奏にも、まったく興味を持てなかった。
アスペラが好んだ勉学や読書、乗馬に弓術も、すべてが母親の望む「完璧な令嬢」には相応しくないと禁止され、やりたくもないことを強要される日々。そんな生活に耐えかねて、やがてアスペラはすべてを投げ捨てることを選んだ。
公爵夫人は怒り狂ったものの、普段は妻に甘い公爵がそんな娘を許したため、アスペラはこれ幸いと母親に押し付けられるすべてを拒否して、屋敷の自室に引きこもるようになった。
そうしてアスペラは、社交界で「アミークス家の引きこもり姫」と呼ばれるようになったのである。
そんな彼女が最後の最後まで王太子妃候補に残っていたのは、「完璧な貴族令嬢」から「完璧な貴族夫人」にさせられることを嫌ったアスペラ自身の思惑と、娘がそんな状態であるにもかかわらず、諦めきれない公爵夫人の強い希望のせいであった。
だが、正式に王太子妃が決定してしまえば、いつまでもそんな生活を続けてはいられない。だから、アスペラは人生で初めて、自らの手で道を切り開くために王太子に直談判したのであった。
あれほどうるさかった公爵夫人は、王太子妃候補でなくなったアスペラには一切の興味をなくしたように、それまでの口うるささが鳴りを潜めた。それでも、出来損ないの娘への興味を失くしたとはいえ、「アミークス公爵令嬢」の嫁ぎ先には興味があるらしく。公爵が持って来る縁談に、日々あれこれと注文をつけているらしかった。
基本的には妻至上主義である父親に任せていては、王太子妃にならずに済んだところで、わずらわしい大貴族の妻にされることは目に見えている。そんなことは絶対に御免こうむりたかった。
(その点、殿下は完璧だわ)
彼はアスペラが頼んでからわずか数日で、彼女が望んだ通りの条件にぴったりと合った結婚相手を見つけてきた。その早さから考えても、おそらく彼は彼なりの思惑を持って、アスペラの使い道を考えていたのだろう。
だが、それならばそれでかまいはしない。
少なくとも、ラウダトゥールは母親のようにアスペラに社交界の華となるような大貴族の妻としての生き方を求めたりはしないし、変わり者で引きこもりの又従妹の在りようを否定することなく認めてくれている。
家の道具になるぐらいならば、王太子の道具になる方が彼女としてははるかにマシだと思えた。かといえ、アスペラは次兄のように王太子のために働く気などは、さらさらなかったが。
そうして、ラウダトゥールは誰が見ても文句のつけようのない結婚相手をアスペラにあてがい、アスペラはそれを了承して相手の顔すら見ることもないまま、嫁ぐことを決めたのである。
公爵家を出て嫁いでしまえば、最早、親に支配される心配はなくなる。これでようやく彼女は、この豪華すぎる花嫁衣装のよりも更に重く、我が身を縛り付けていた鎖から解放されるのだ。
(あとは……)
アスペラはぼんやりと、結婚前に公爵夫妻に挨拶をしに訪れた際に一度だけ顔を合わせた、本日の新郎の顔を思い浮かべた。
アスピシオ辺境伯は柔和な雰囲気と、整った端正な顔立ちの、背の高い穏やかな青年だった気がする。要するに、アスペラにとってはまったく印象的なところなどない、どこにでもいる貴族の青年だった。
冷ややかな友好関係であるメリオル皇国との国境沿いに領地を持つため、次兄のようにもう少しがっしりした騎士然とした男性を想像していたため、まったく違ったことを少し意外に思った程度の記憶しかない。
年はおそらくアスペラの長兄と同年代か、少し上ぐらいなのだろう。相手にまったく興味のなかったアスペラは、顔合わせの際も必要な挨拶だけを済ませると、すべての話を両親に任せて聞き役に徹していたのだ。もっとも、両親とアスピシオ卿の会話もすべて右から左へと流れて、交わされたであろう年齢の話すらも、頭の端にすら残っていないのだが。
(旦那様が、次のお母様でなければ良いのだけれど……)
アスペラが相手と結婚してもよいと思ったのはひとえに、ラウダトゥールが選んだ相手だから、という一点のみであった。
だからこそ、相手の外見や外面などには興味がなかった。結婚して実際に生活を始めてみるまでは、どんな相手であるか油断は出来ない。
貴族の娘は結婚するまでは親に支配され、結婚すれば夫と婚家に支配されるものなのだ。そこが生きやすい場所であるかどうかは、夫次第といっても過言ではないだろう。
願わくば、アミークス公爵家よりはマシなところであって欲しい。そう、祈るのみであった。
そんなことをつらつらと考えて、ひとつ、こみ上げてくるあくびをこぼす。
貴族の婚姻としては異例な、まともな婚約期間もないわずか三ヶ月という早さで行われる結婚式のために、この三月は目が回るほどの忙しさだった。挙げ句の果てには、結婚式当日である今日は、まだ夜も明けきらぬうちから身支度に掛り切りで、睡眠も食事もろくに取れていないのだ。
もっとも、このぎゅうぎゅうに腰を締め上げられた細い衣装を着ていては、満足に食事など出来るはずもなかったが。
(早く今日が終わらないかしら)
そんなことばかりを繰り返し考えていると、ようやく花嫁の控え室の扉が叩かれた。
「はい」
侍女が扉を開けに行くのを横目に見ながら、アスペラは重い衣装で更に重く感じる体をなんとか持ち上げて立ち上がる。
もう間もなく式の時間であることを考えれば、花婿が迎えに来たのであろう。
ヴェールで隠されているとはいえ眠気にゆるんだ表情を引き締めて、アスペラはゆっくりと扉に向き直った。侍女が丁重な仕種で扉を開ければ、その向こうから現れたのは、予想通りアスピシオ辺境伯の姿だった。
「お迎えに上がりました、アスペラ姫」
にこりと柔らかく微笑んで告げた夫となる青年の顔を無感動に見つめてから、アスペラは下衣を軽くさばいて優雅に腰を折った。そんなアスペラの姿をアスピシオ辺境伯もまたしばし眺めた後、ゆっくりとした足取りで彼女の傍らに歩み寄る。
「とても、お美しいですね」
「……ありがとうございます」
感嘆したようなため息とともにかけられた言葉にも、アスペラは目を伏せて淡々と答えた。そんな彼女の様子に、青年が軽く苦笑を浮かべたことにも、気づくことはない。
「それでは、参りましょうか」
声とともに差し伸べられた、真っ白な手袋に包まれた大きな手に視線を移す。それから、わずかに顔を上げると、始めて己の意志を以て傍らに立つ青年の顔を見上げた。
光なす美しい銀糸の髪が純白の衣装と相まって、彼の印象を白く焼き付ける。そんな中で、まるで真昼の草原のような明るい緑の瞳だけが、強い彩を持っていた。
宝石のようなその瞳と、ヴェール越しに目が合い――逡巡は、一瞬だった。
「はい」
応えた声は変わらず硬質な響きだったが、アスペラはゆっくりと己の手を青年の手に委ねた。見た目よりもがっしりとした硬い手のひらが、アスペラの華奢な手を、まるで宝物のように丁重に包み込む。
(これが、私を導く手)
自らの意志で選び、掴んだ手だ。
その決意を胸に、アスペラは凛と顔を上げると、重たい足でしっかりと一歩を踏み出した。