序
どこかで見たことがあるキャラがいるなーと思われた方は、お久しぶりです。ありがとうございます。
「と、言うわけで、わたくしの夫を見つけていただきたいのです、殿下」
顔を合わせるなり挨拶もそこそこに、だしぬけに告げられたアスペラ・アエクム・アミークス公爵令嬢のこの言葉に、ジール王国の珠玉の君と謳われるかくもの王太子殿下も、さすがに目を瞬いた。
そんなアスペラと王太子のやりとりを見て、妹の取次ぎ役として共に訪れていたアスペラの兄フェリクスは、思わず顔を引き攣らせる。
「おい、アスペラ。それじゃさすがに分からないだろう……というか、お前、殿下に用件のみしか言わないって……」
頭痛を覚えたように頭を押さえる兄の姿に、アスペラは常の淡々とした無表情を崩すことなく首を傾げた。
「まぁ、なぜでしょう、兄上。兄上が言ったのでしょう、殿下はお忙しい方だから、余りお時間を取らせるようなことはするな、と。ですからわたくしは、殿下のお時間を取らせてはいけないと、率直に用件を述べたまでですわ」
まったく悪びれた様子もなく、兄の言葉を理解できないとばかりに、そのまるで氷のような薄青の瞳を瞬く。そんな妹の言葉に、はいそうですかと納得できるはずもなく、フェリクスは苦虫を噛み潰したように顔を顰める。
「だからと言って、お前……」
「構わないよ、フェリクス」
本格的に妹への説教態勢に入ろうとしたフェリクスを、玲瓏とした美声が微かに笑みを含んで制止した。その声を受けて、フェリクスは大人しく口を噤むと姿勢を正して頭を垂れる。
「……世間知らずな上、礼儀知らずな妹で、大変申し訳ございません」
「いや、いいさ。アスペラも君も僕にとっては又従兄妹なのだし、私的な場でまでそれほど畏まる必要はないよ。それで、アスペラ。聞いてもいいかな?」
「はい、なんでしょう、殿下」
にこやかなラウダトゥールの声に反して、実に平坦な抑揚の少ない、女性にしては低めの声が打てば響くような早さで応えた。
「さすがの僕も、『と、言うわけで』だけでは理解しかねるんだ。何が『と、言うわけで』なのか説明してもらっていいかな?」
ラウダトゥールの問いに、アスペラは今度はしばし考えるように切れ長の薄青い瞳を彷徨わせる。微かに傾げられた首に合わせて、美しく結い上げられた白金の髪がサラリと揺れた。
逡巡はごく僅かな間。すぐにその怜悧な瞳が、ひたりと王太子の笑みを浮かべた美貌を見据えた。
「先日、殿下の后となられる方が無事に決まり、わたくしはようやく王太子妃候補ではなくなりましたので、どこかに嫁がねばならないそうなのです。ですので、殿下にわたくしの望む夫を見つけていただきたい、と思いまして。こうしてお願いに上がりました」
「いや……うん、それは分かっているのだけどね」
あくまでも自分の調子を崩さない、変わり者と名高い又従妹の様子に、ラウダトゥールは浮かぶ笑みを苦笑に変えた。そして軽く肩を竦めると、本格的に頭痛を堪えているような彼女の兄に視線を向ける。
「アスペラの婿候補など、アミークス公爵もその夫人も山のように縁談を持ってきているんじゃないのかい?」
「いえ……ええ、まぁ……無いことも、ないのですが……」
言いにくそうに言葉を濁した兄に頓着することなく、アスペラは美しく弧を描く眉を軽く上げた。
「まぁ、殿下。わたくし、あまりにも長い間王太子妃候補という位置におりましたのよ。今では立派な嫁き遅れですわ。いくら公爵令嬢といえど、そんな女に来る縁談など、それほどあるはずもございませんでしょう?」
言葉だけを見るとラウダトゥールへの嫌味のようだが、アスペラ本人にそんなつもりが全くないことは、ラウダトゥールもフェリクスも分かっていることだ。何せ、アスペラは常々「王太子妃になどなりたくない」と王太子本人を目の前にして、言い切って憚らなかったのである。
そんな彼女がなぜ嫁き遅れるまで王太子妃候補でいたかと言えば、彼女の母であるアミークス公爵夫人の強い希望と、アスペラ自身にも貴族の妻になどなりたくない、という想いがあったからだ。
「わたくし、常々殿下に申し上げておりましたとおり、王太子妃になるのも、大貴族の妻となって一生を社交界で生きていくのも真っ平ですの。本当は王太子妃候補でなくなったら、お父さまに頼んで神殿に入れて頂こうと思っておりましたのに……」
「それは……さすがに、アミークス公爵といえど、お許しにはならないだろう」
「ええ、ご察しの通り、反対されましたわ。ですから、結婚しなければならないのです」
なるほどねぇ、と苦笑を浮かべて、ラウダトゥールは目の前に用意されていた香草茶を一口、口に含んだ。そして軽く息を吐くと、再びにこりと笑みを浮かべてアスペラに尋ねた。
「それで、我が又従妹殿のお望みの夫とは、どのような方かな? 具体的な相手がいるのかい?」
「まぁ、殿下。わたくしに特定の相手など、いるとお思いですの? わたくしはわたくしの譲れない条件さえ満たしていれば、相手などどなたでもかまいません」
結婚は貴族の令嬢にとって一生を左右する大問題である。条件など、いくら積み上げても足りないほどであろう。
結婚を厭っていたアスペラにも世間の娘並みに結婚相手に望むものがあるのかと、彼女の言葉を少し意外に感じつつ、ラウダトゥールは肯いて又従妹に続きを促した。
「その条件とやらを、聞かせてもらってもいいかな」
「わたくしが夫に望むことは三つです。一つ、お父さまとお母さまが納得するだけの、そこそこの身分があること。一つ、頻繁に社交界に出る必要がないこと。どこかの辺境伯などが理想ですわね」
アスペラの提示する『条件』を聞くにつれ、ラウダトゥールは最早ただただ苦笑するしかなくなる。やはりアスペラはアスペラだった、という認識を強めざるを得ない。
それほどに彼女が提示した『条件』は、あまりにもラウダトゥールたちが知る彼女らしいもの、即ち世間一般的な貴族の姫君が望む条件とはかけ離れているものだったのだ。
「そして最後の一つは」
ラウダトゥールの眼差しと苦笑に気付いていないわけもないだろうが、アスペラはそれを歯牙にかけることなく、淡々と抑揚の少ない平坦な口調で自らの望みを口にした。
「子どもがいることですわ」
又従妹のらしすぎる『条件』に柔らかな苦笑を浮かべていた美貌に、さすがに怪訝な色が浮かんだ。柳眉を顰めて、ラウダトゥールはじっと目の前に姿勢良く座した又従妹を見つめ。その揺らがない冷然とした面持ちに、聞き間違いなどではないだろうと分かりつつも、言葉は意図するまでもなく口を突いて出ていた。
「子ども?」
ラウダトゥールの声に宿る困惑を斟酌することなく、アスペラは実に悠然と首肯する。
「はい、子ども―――即ち、既に跡取りがいらっしゃる方が良いのです。子どもは男でも女でも、どちらでもかまいませんわ」
この部屋に現れた時から全く表情を変えることなく、それがまるで天気の話題ででもあるかのようにあっさりと言い切ったアスペラに、さすがにラウダトゥールも頭痛を覚えたように眉間に指を当てた。妹の供をしてきたはずのフェリクスは、最早妹の言動を止める努力すら放棄して、気配を殺すように静かに黙々と茶器を口に運んでいる。
「ちなみにアスペラ……最後の条件は何故必要なんだい? いくら子どもが居た所で、さすがに結婚する以上は夫婦の義務からは逃れられないよ?」
既にジール王国内ではその手腕を認められている辣腕の政治家らしく、衝撃を受けた様子を晒したのはほんの一瞬。瞬時に体勢を立て直すと、この又従妹と顔を合わせる時には癖になりつつあるような苦笑を刻んで、ラウダトゥールは再度アスペラに尋ねた。
その質問にもアスペラは決して自らの調子を崩すことなく、淡々と答える。
「それは、まぁ、仕方がありませんので諦めますわ。ですが、殿下。貴族の妻の務めと言えば、跡取りを生むことではありませんの」
「うん、まぁ、そうだね」
確かにそれも重要だが、当然それだけに限ったことではなく他にも多々あるような気もしなくはない。だが、この又従兄弟相手に言っても仕方がないとわかっているため、とりあえずは頷いておくことにする。
「わたくし、赤ん坊は嫌いです」
微塵の躊躇もなくきっぱりと言い切ったアスペラに、さすがのラウダトゥールも相槌を打つことすらできなかった。黙って聞いていた彼女の兄も、掛ける言葉が浮かぶはずもない。
絶句という様相がぴったりの男二人を気にすることなく、アスペラは変わらぬ平坦な口調で自らの主張を言葉にした。
「夫婦の義務は仕方ないとしても、赤ん坊を産んで跡取りとして育てあげるなんて、そんな面倒で大変なこと、わたくしはしたいとも出来るとも思えませんわ。それならば、すでにある程度の年の子どもがいる方に嫁げば、跡取りを生む必要はありませんでしょう?」
アスペラの言っていることは、貴族の政略結婚としては無茶苦茶であった。
基本的に政略結婚とは、家と家の繋がりを強めるためのものだ。それには、妻の家の血を夫の家系に入れることにも意味がある。にも関わらず、アスペラはそれをしたくないと言っているのだ。
「アスペラ……努力もしてみないうちから、出来ないと決め付けるのはどうだろう? やってみれば、案外楽しいかもしれないよ?」
常に余裕を崩さないラウダトゥールにしては珍しく、僅かに引き攣ったような笑みを浮かべて言われたその言葉を、喋り通したために乾いた喉を香草茶で潤しながら聞くともなしに聞き。一つ息を吐いて、彼女は初めてその能面のように変わることの無かった無表情を笑みに変えた。尤も、それはその美貌に相応しい華やかなものなどではなく、嘲りを多分に含んだ冷たい微笑だったが。
「まぁ、殿下。面白いことを仰るのですね。わたくしに出来るとお思いですの? わたくしは、あの母の娘ですのよ?」
アスペラの言葉にラウダトゥールとフェリクスは同時に息を飲んだ。
そして気づく。彼女のその笑みは、他の誰でもない、自分自身に向けられたものなのだと。
数瞬ラウダトゥールはこの又従妹に何かを言ってやるべきかとも考えたが、彼女自身がそれを必要としていないことにその薄青の瞳を見て気づく。だから一つ小さく息を吐いて、それ以上の言葉を飲みこむと、彼女が求めている王太子としての結論のみを告げるために、口を開いた。
「分かったよ、アスペラ。君の希望を満たせる夫候補を探す協力をしよう」
その返答に、アスペラはその冷ややかな美貌に初めて満足げな笑みを浮かべる。そして腰掛けていた椅子から立ち上がると、下衣を軽く摘んで大貴族の令嬢に相応しく実に優雅な礼をとった。
「ご協力、心より感謝いたしますわ、殿下」
□
妹を見送って、王太子の私室に戻ってきたフェリクスをラウダトゥールはにこやかに出迎えた。
「お疲れさま。ご苦労だったね、フェリクス」
「いえ……不肖の妹が、ご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございません」
幼い頃からの付き合いであり、気心の知れた又従弟兼主に労われ、思わず深々とため息を吐いてしまったフェリクスに、ラウダトゥールは低く笑った。
「相変らずだね、アスペラは。でも、まぁ、予想の範疇だ。問題ないよ」
「…………左様でございますか」
兄ですら、突拍子もつかみどころもないと思う妹の言動を『予想の範疇』と言えてしまう辺りが、ラウダトゥールが見た目通りの好人物ではないことを表しているような気もしたが。
フェリクスは既に長い付き合いの中で、突っ込んではいけない事柄には鼻が効くようになっている。迂闊に余計なことを言えば、倍以上になって返って来ることが分かっていたため、それに突っ込むことはしないで無難に話題を続けることを選んだ。
「そう仰ると言うことは、アスペラの嫁ぎ先にはある程度目星はつけてある、ということでよろしいのでしょうか?」
フェリクスの問いに、ラウダトゥールはふふ、とどこか含みを感じさせる柔らかな笑みを零した。上がった口角の傍にある小さな黒子が妙に艶やかだ。
フェリクスは昔から、王太子であり又従弟でもある青年のこの表情が実に苦手だった。思わず直視できずに視線を逸らす。そんなフェリクスの戸惑いなどお見通しだろうラウダトゥールは、だがそれを指摘することなくにこりと微笑むと、命じ慣れたものが持つ逆らうことを許さぬ声音で言葉を紡ぐ。
「さすがに鋭いね、フェリクス。その通りだよ。明後日ぐらいまでには必要な書類を揃えておくから、またアスペラを連れてきてくれ」
「承知仕りました……ちなみに、相手はどこのどなたか、お伺いしてもよろしいですかね?」
フェリクスが席を外している間に温かな淹れたてのものと取り替えられた香草茶を口にしていたラウダトゥールは、その問いに小さく首を傾げた。
貴族の娘としては規格外すぎるアスペラを、それでも兄として慈しんでいるフェリクスだ。その疑問は意外でもなんでもなかったが、又従兄弟という関係に甘えることをあまり良しとしていないフェリクスが直截に尋ねてくることは、多少予想外だった。それは、それだけアスペラの将来を案じている証拠であろう。
ラウダトゥールは気づかれない程度にその瑠璃色の瞳を優しく眇め。けれど茶器を卓上に戻すと、その透き通るような玲瓏とした美貌に先刻までの柔らかなものとは異質な、鋭さを宿した笑みを浮かべた。
「まぁ、気になるのも仕方がない、か―――僕が選んだアスペラの相手は、アスピシオ辺境伯だ」
「アスピシオ……?」
切れ長の鋭い菫色の瞳を細めて、フェリクスは記憶の中からその名を掬い上げる。知らず、その研ぎ澄まされた刃のように端整な顔が、徐々に険しさを帯びていった。
「アスピシオ家と言えば、確か、メリオルとの国境近くに領地があったのでは……? あんなところに、アスペラをやる気なのですか?」
「ああ、そのつもりだと言っている」
「ですが……!」
幾ら破天荒な娘だとはいえ、アスペラはフェリクスにとって大切な妹である。余り安全とはいえないような土地に嫁いでいくと聞いて、黙っていられるはずもなかった。しかし、フェリクスの言葉の続きは、ラウダトゥールの顔に浮かんだ鋭い表情に飲み込まれて、唇から出ることは叶わなかった。
そんなフェリクスをしばし鋭利な瞳で睥睨していたラウダトゥールだったが、やがてその貌に人の上に立つ威厳を纏わせた鷹揚な笑みを浮かべた。
「君が心配する気持ちは分かるよ、フェリクス。だが、それは無用な心配だ。メリオルとは現在、相互不干渉の約束を取り付けてあるし、僕は彼の国と戦争などする気は更々ないからね。アスピシオ伯も、そのことは良く心得ている」
「殿下……」
気圧されたように息を飲んだフェリクスに、ラウダトゥールは軽く肩を竦めて見せた。そして一つ息を吐いてから上げられた顔には、既にいつも通りの優雅で柔らかい微笑が浮かんでいた。
「アスピシオ伯は優秀で善良な男だ。アスペラのような娘とも、上手くやっていくだろう」
ラウダトゥールの言葉に、フェリクスは諦めと共に大きくため息を零した。懸念は多いが、ラウダトゥールがそういうならば、きっとアスピシオ伯は優秀な人物なのだろう。
アスペラはじゃじゃ馬というわけではないが、とかく扱いづらい娘であることはどう贔屓目に見ても否定しようのない事実だ。それでも彼は、兄として幸せになって欲しいと願っている。
「……そうであることを、心から願っていますよ」
憮然とした口調でそう呟いて、フェリクスは自棄のように、淹れられた香草茶をぐいっと一息で飲み干した。