無回答の回答
「はい、今配った紙は進路希望調査でーす。出来るだけ行きたい学校の名前、学科、あと就職の奴は企業名と職種書いて。まだ全然決まってないって人はせめて進学か就職かだけ書いとけ。終わった奴から帰ってよし」
オープンキャンパスから帰ってきて担任から配られた紙はたかが1枚の紙なのに他の紙とは違って見えた。
文字を書く音がいっせいに耳に届く。
私はシャーペンすら持てなかった。
徐々に音が消えていって人も消えていった。
残ったのは私ひとりだけ。
「…影山」
「はい」
「せめてシャーペンは持ちなさい」
「ないんです。書くことが」
担任はクラスメートの書いた進路調査表を軽く流すように見ていたが、顔を上げたのが分かった。
私はどこも見ない。
「できることじゃなくてもいい。やりたいことでいいんだよ」
「先生。私、昔からやりたいことなんてなかったんです。小学生の頃とかって『将来の夢』って作文書かされませんでした?」
「定番だな」
「そうです。定番なんです。クラスメートたちはすぐに書けるんです。宇宙飛行士とか保育園の先生、とか。すぐ書けない子もしばらくすれば書けるんです。でも、私だけ書けなかった。最後まで見つからなかった」
「それで、どうしたんだ?」
「お兄ちゃんの卒業文集を引っ張り出して顔も知らない女の子の作文をそのまま書きました」
そう、全く知らない女の子。
その子は小説家になりたいと書いていた。
この前、お兄ちゃんが同窓会に行った時さり気なく聞いてみた。
兄は久し振りに私の声を聞けたことが嬉しかったのか優しい顔で答えてくれた。
『その子は小説家になれなかった』
兄はでもさ、と続けた。
『今は編集者をしているらしい。才能が無いんだって言ってたよ。でも、好きなことを仕事にできたみたいだな』
そういう兄は今も医者になるという夢を追いかけ続けている。
「…ああ、思い出した。彼女か」
先生は懐かしそうに目を細める。
「先生は『高校教師』って書いてましたね。どうしてですか?」
「両親がそうだったからな。俺もなるものだと思ってなった。でも、なりたかったものかと聞かれたら頷くことはできないな」
「でも、自分の意思でなったんですね」
「ほら、早く書きなさい」
兄の古くからの友人は私が今どんな状況に置かれているのかを知っている。
だからこそ、彼に甘えてしまう。
「もう、私には必要ないんじゃないかなぁ。これ」
進路希望調査表を折る。
「じゃーん。紙飛行機」
「こら」
「先生」
「…なんだ?」
「私、今うまく人と話せないんですよ。でも、先生となら話せるんです。なんでか、わかりますか」
彼に答えなんて求めてない。でも、聞いてしまう。
先生は首を横に振った。
「態度を変えない人、先生だけだからですよ」
先生は「それ、宿題な」と小さく言った。
私も「はぁい」と小さく答えた。
「さようなら」
「待て。車で送る」
「…わぁい」
担任が家に来ると家族は喜んだ。
夕飯を一緒に食べようと誘われて担任は頷いた。
「水月も食べるでしょ?」
私は首を横に振って母に弁当箱を渡した。
母は軽い弁当箱に安心していた。
「もうちょっとお夕飯時間かかるから柊木くん、水月の部屋で待っててもらえるかしら」
と、いうことで彼は現在私の部屋にいるわけだが。
何故か勉強をさせられている。
「ここ違う」
「違うくない!だって公式に当てはめたもん!」
「答えが違うから違うっつってんだろうが」
小学生の時からの仲なので家にいるとお互い生徒と先生という名を捨てて接している。勉強は中学生の時に家庭教師をしてくれていたが今は私が必要ないと断っているはずなのに週に3日は最低でも訪れて無理矢理教えてくる。
「なんで勉強なんかしなくちゃいけないの」
「お前、高3だぞ」
「まだ進路決まってないし」
「だったらなおさらだろ。お前、ただでさえ今みんなより遅れてんだから。俺が教えられる教科にも限界はあるんだから出来るだけちゃんと学校に来なさい」
『出来るだけ』という言葉を私にくれる彼は本当は私に甘い。
「なんか、先生みたいなこと言う…」
「先生だからな」
簡単な計算問題もしばらく解いてないと凡ミスの数が増える。
私はせっせと解き直す。
「ホント部屋、変わったな」
「あー」
「欲しいものがたくさんあるな」
「まるで天国みたいでしょ?」
本当に欲しいものなんてここにはない。
黙ってしまった先生にノートを押し付けた。
先生は赤ペンを取り出し大きく丸をつけてくれた。
「ねぇ、先生…」
「なんだ」
私は答えを出せないの。どうすればいいんだろう。ずっと考えてるの。どうすれば戻れるんだろうって。
「なんでもない」
「…暗記教科は自分でやれよ。小テストやるからな」
「1人の生徒の為に作るって。先生、私に甘すぎ」
「なんだ。まだ勉強したいのか」
そのお誘いを丁重にお断りしていると兄が帰ってきた。
「あ、柊木。来てたんだ」
「ああ」
「水月、ただいま」
兄はにっこりと笑った。
私はただ頷いた。そんな気まずい私たちの空気に耐えられなかったのか先生が口を開いた。
「影山、お前の部屋行ってもいいか」
「え、でも…」
不安そうな顔で私を兄は見た。私は目をそらす。
「影山妹の勉強時間は終わりだから大丈夫だ」
そう言って2人は消えていった。
制服からパーカーと短パンに着替えていると隣から低い男2人の声が聞こえた。
「…だから……」
「……るな。………って。そう……ん…きぼ……けなかっ……」
「…うか」
「ま………っくり探して……さ。今は……の気持ちが大切…………」
途切れ途切れにしか聞こえない会話の内容は多分私。進路希望をかけない私の話。親ではなく、兄に話すのが先生らしい気がする。
お風呂に入って髪を乾かしていると兄と先生が来た。
「水月、ご飯だってよ」
私は首を横に振る。
兄は「そっか…」と少し苦しそうに微笑んだ。
「そんなんだから成長するもんもしないんだぞ」
「そんなんだから未だに彼女1人も出来ないんですよ」
セクハラ、と先生にドライヤーを思いっきり当てて髪をボサボサにしてやる。
「お前の妹は本当に可愛くないな」
「先生は本当にデリカシーがないよね」
私はドライヤーを片付け二階に向かう。
「影山妹」
「…はい」
「明日、学校に来るか?」
「…」
「…わかった」
無回答が回答だ。
「そういえば部長が心配してたぞ」
「…沙良は、怒ってる」
「なんで」
「勝手に退部したから」
「まぁ、無理に話さなくてもいいだろ」
本当にこの人はとことん私に甘い。
私は何も言わずに部屋に行きベッドに潜り込んだ。
下から久々に楽しそうな声が聞こえる。
良かった。楽しそうで。
私はそのまま深い眠りに落ちていった。
起きるとまだ真っ暗だった。時計は3時46分を教えてくれる。私は静まっている廊下を歩いた。ペタペタと1人歩く音がする。床の冷たさが足に伝わる。
裏口から出て私は薄暗い道を歩いた。
誰もいない。私だけの街。
ここに、私ひとりぼっち。
堤防に座って海を眺める。
地平線の向こうを見るが海はやっぱり広く続いている。
「あれ、水月」
私だけの街に何故か人はいた。
「…えっと、君は……」
「あれ、忘れちゃった?昨日会ったじゃん」
「覚えてるっ」
大きな声が出た。
「覚えて、る。…光さん」
「呼び捨てでいーよ。こんな時間にこんなとこで何してるの?」
光は私の隣に座った。
「…散歩、かな」
「散歩!いいねぇ、大切だ」
「光は?」
「俺は課題をさっきやっと終わらせたからご褒美にいちごみるく買ってきたとこ」
コンビニの袋を指差していちごみるくにストローをさした。
「飲む?」
「や、味し」
「味しないって飲んでみないとわかんないだろ」
私はいちごみるくを飲む。
「…味しない」
「まじか〜」
光はあひゃひゃと笑った。
私はそんな君がよくわからなかった。
なんだか私とは違う世界にいて、違う生物のように感じた。
何故か私は君を怖い存在だと思った。