「二度目の人生を異世界で」の「発禁」問題についての所感
この件について、思うところを書こうかと思います。
この「二度目の人生を異世界で」の問題は各方面から指摘がある通り、推定無罪の原則や、法の不遡及の原則など、法治国家のいくつかの基本原則にも、抵触します。
無論、ヘイトスピーチは社会の平穏を乱しますし、問題だと思います。それに反対することも、妥当だと思います。しかし、それを公権力によって規制するということは、また、別種の問題です。
過去にリベラル派の価値観と対立する発言をしたことがある人間に、社会的制裁を加えるということに前例を作ったというこの件は、大きな禍根を残しかねません。
「件の作者の作品が、販売中止になるのが当然」というリベラル派の人たちが、同様の事例を探して回るようなことをしないことを願います。このリベラル派の理屈を適用すれば、ヒトラーをはじめとしたナチ党幹部に激賞され、戦時中は国粋主義に傾倒した義兄の影響で「ユダヤ陰謀説」を熱心に唱える「レイシスト」だった女優の原節子が出演している映画などは、発禁の対象でしょう。これでは、少なくとも、小津安二郎作品はほぼ全滅です。そんな、ぺんぺん草も生えないような世界を望むんでしょうか?
表現規制との戦いは常にこういった際限のなさとの戦いです。
また、昨今の「なろう小説」を「気に入らない」人たちが、「なろう小説」叩きの一環で今回の問題を殊更に問題化しているとも思えます。
このような傾向は、よく見かけます。そもそも、ヘイトスピーチ規制法の成立過程も、この傾向に沿った経過だったと思います。表現の自由との対立が問題になった時、規制法推進派は「そんなことよりヘイトスピーチによる人権侵害の方が看過しがたい問題だ」と強弁しました。でも、その根拠は、在特会などの「知性なく、ギャアギャア騒ぐ知性のない連中」が「気に入らない」ということではなかったと言い切れるでしょうか? 甚だ疑問です。当時、私は表現の自由の観点から規制法に反対の立場を取っていましたが、私の立場も反対の立場から見れば私の主観的な問題意識がどうであれ「多様な作品や、言論が生まれる状況を、人間の観点から破壊する純粋まっすぐ君」が「気に入らない」という事に他なりません。当時、このように異を唱えると「サブカル」というよくわからないレッテルを貼られたものです。
こうなるのは、必然です。なぜなら、1989年の東欧革命や、1991年のソ連崩壊を嚆矢とした進歩的価値観の失効により「価値観の普遍性・絶対性」が喪失したからです。簡単に言えば、自分がいくら「正しい」と思っていることでも、隣の人にとっては「正しいとは限らない」という事です。
この結果、政治についての対立は「普遍的な善」と「普遍的な善」の「イデオロギー的な対立」から、「主観的な善」と「主観的な善」の対立による「主観的な善による党派的な利害の対立」へと変化しました。
主観的な善の党派的な利害の対立がもたらすものは、一体何なのでしょうか?
それは、対立した相手全員が口を噤むまで続く泥沼の戦いです。そうして、一部の声の大きい「クレーマー」以外は誰も何も言わなくなる世界がやってきます。最近のなろう界隈で注目を集めている「批判有害論」を唱える動機が「寄せられる批判が、揚げ足取り程度の『クレーム』ばかりで、何ら生産性もなく、ただ作品がエタっていく状況」に端を発するものなのであるならば「既に、そうなっている」感さえあります。しかも、それを無自覚かつ積極的に招き寄せているのは、権力からの自由を勝ち取り、守ることを何よりも大切にし、百家争鳴を愛するするはずのリベラル派であることは、文字通り草も生えません。
この末路は、不可避なのでしょうか?
有力そうな代替案は「党派的な利害の対立」には「経済的な利害の対立」で対抗するということです。今回の例に即して言えば「商品化に当たって批判を集めそうだが、それによる損失をはるかに凌駕する売り上げを期待できる(例えば、数百億円規模の)作品」があればレイシストが書いた作品だろうが、反日極左が書いた作品だろうが「金になるからやっている」ということで、発表の機会を潰されることはないでしょう。また、この案では「主観的な善」がいかに「経済的な利害」の前に無力かを示す必要があるので「売り上げ」以外の価値――例えば文学的価値や、倫理的価値などが皆無である必要があるでしょう。
「人権・倫理」という葵の御紋には「経済的な価値」という錦の御旗で対抗し、勝利できれば、今後こんな事例は無くなります。
もちろん「経済的な価値」一辺倒の作品が濫造される状況が良い、とは私も言いません。ですが、誰かの主観的な善のせいで、誰も何も言えなくなるよりはよほどマシだと思います。