結論:黙して語らず
カリカリとペンを走らせる男は、がりがりと頬をかく。
その表情は、苦い。やせ気味の頬には、じっとりと汗が浮かんでいた。
男はその汗を乱暴にぬぐい、ペンを置く。
そして。
びっしりと文字の記され、黒くさえ映るページを数枚むしりとり、ぐしゃりと握りつぶした。
黙して語らず
―――とある出版社。
片付け終えた机で頬杖をつく壮年の男が、ぼんやりと天井を見つていた。
その隣の席に腰かけた年若い青年は、なにかを熱心に読み進めている。その目線の先にあるのは、ぐしゃぐしゃに丸まったメモ。
数枚に渡るそれを読み終え、青年はがばりと顔を上げた。そして、上司でもある男に、急いたような口調で問う。
「…なんで、これ、公開しなかったんですか」
「記事にできるか、そんなもん」
「そ、れは」
「その反応だと知ってんな。
オレの取材を受けた後、関係者はポクポク逝ってるんだよ。
ああ、でも自殺は件の次男だけだなぁ。長男はとち狂って今も隔離されてるって話だ。母親に関しちゃ、ただの病死だしよ。にしても、続いた」
「だからこそ、でしょう。一大スクープに、なりましたよ」
「確かに売れただろうなぁ。独占インタビューだ。今だしても売れるだろうぜ? 10年たっちまったけどな」
じゃあ、といきり立つ青年に、男は溜息をつく。
紫煙をかけられることになった青年は、ごほと急きこんだ。
「けどな。覚えとけ。こーゆーもんは、表に出しちゃいけねーよ。狂人の日記だ、んなもん」
狂人ですか、と青年が口の中で繰り返した。素直さの表れというよりは、納得していないことの伺える表情。そのことに、男は少し苦く笑い、口をつぐむ。
だが、青年は黙らなかった。
「確かに狂ってますよね。どうして誰もかれも、令嬢を殺したと証言するんですか」
「あ?」
「矛盾も疑問もありますけど…彼らは、それぞれ、彼女を愛していたんでしょう? なんで、殺したがるんです。辛いだけでしょ。普通」
「そりゃお前…愛してなかったから、じゃ、ねぇか?」
「ここまで言っといて?」
「じゃ、愛しすぎたんだろ」
「…わけがわかりません」
青年は言葉と共に眉間に皺を寄せ、理解しがたいと語って来る。
それでも食い下がる様に呆れたような顔の男は、脅かすように声を低くした。
「ずーっと思ってたのかもしれねぇぜ?
誰にもかれもに愛される、麗しの少女。皆の宝物。てめぇだけのもんにするには―――殺すしかねぇ、とでもよぉ」
「そんな…」
ことないでしょう、と笑おうとした青年は、その言葉が喉で萎えたことに気付く。それはまるで、その言葉を彼らの狂気ごと飲みこんでしまったような錯覚。
訪れた沈黙へ怯えるように、彼は問いを重ねる。
「…ところで、この、令嬢を殺したと証言している男…こいつは…」
「ああ。そのあと豚箱行き」
皆まできかずに面倒そうに、男は言った。
「じゃ、じゃあ…!」
「罪状は殺人容疑でも死体破損でもねぇよ。仮死状態だったっていうのが、まず嘘だよ。…母親が娘の骸から離れなくてなぁ。誰も寄りつけなかったんだよ。埋めた時にゃ、痛みはじめてたそうだぜ?」
だから、あの兄弟の話も美化されまくってるわな、そもそもなにが本当なのやら。気のない口調で言って、男は再度紫煙をはきだした。
短くなった煙草を灰皿に押しつぶした彼は、青年へと向き直る。
「けどな、そいつ、オレにしたのと同じ話、そこら中の人間にかたっぱしから話して回ってんだよ。まさしく気ぃ触れたみてぇにな。で…、その話馬鹿にした奴、さくっと殺っちまったの。現行犯で逮捕だ。
ああ、警察は念のために墓ぁ調べたが、勿論掘り返した跡なんてねぇ。そもそも、そんなもんがあったら、母親が真っ先に気付いてるだろうよ。
他の奴らは自分でオレの取材に頼んだけど、母親は違うぜ? 日がな一日娘の墓の前で座り込む娘の気がまぎれるならどーでもいい、って生家に依頼されたんだよ。大概自棄になってたぜ、あの人らも」
その光景を想像したのか、青年は顔を蒼くする。
そして、ゆるく頭を振り、黙りこんだ。
やっと諦めたかとでも言いたげな顔をして男が立ち上がる。その爪先を仕事部屋の出口へ向けた彼は、新しい煙草を取り出し、火をつけた。
「…結局、誰が彼女を殺したんでしょうね」
だが、青年に問いかけられ、その歩みが止まる。
身体ごと振り向いた男は、溜息と共に紫煙を吐き出した。
「…んなもん気にするだけ無駄だ。いや、気にするだけ、有害だ」
呟くような言葉を吐く唇は、紫煙に紛れて伺えない。
「でないと」
白くけぶる視界の中、青年の耳へ届くのは、ひどく低い声だけ。
「お前も引き込まれるぜ? そのお嬢様によぉ」
淡々と告げられた言葉に、青年は悪寒でも感じたように身を震わせた。そのまま、気味悪そうにメモを放る。
男は己の机に腰かけ、そこに広がった色褪せた紙に、冷めた目線をおくった。
「誰も、黙して語らず―――の方がいい事件が、世の中にはあるってことさ」
「取材したあなたがそれを言うんですか?」
「オレだからこそ、見極めがきくんだろうが」
フン、と笑った彼は、まだ長い煙草を、己の取材メモへ押し付けた。
青年が止める間もなく、その火はみるみるうちに安物の紙を焼く。狂気を孕んだ証言が、みるみる焼き焦げていく。
いささか激しい炎に、青年は再度身を震わせる。けれど、辺りに引火してはたまらないと、傍にあったコップを傾けた。
冷めた紅茶を受け止めた紙は、燃えるのを止める。しかし、もはや文字の読める状態ではない。
「いいんですか?」
「まだ言うか? …供養だよ」
男は燃えた紙を軽く絞った後、細かくちぎり、屑籠へ捨てはじめた。
「皆墓の中にいったようなもんだ。…送り火だ」
「そりゃ、随分遅くないですか?」
「オレは忙しいからな。しかたねーだろ。…おら、机のかたずけ終わったら取材って言っただろ。行くぞ」
「―――はい!」
億劫そうに言う男に、青年は溌剌と声を上げる。
僅かに曲がった背中を負う彼は、一瞬だけ机に残った燃え滓を見つめ―――なにかをふっきるように、街へと駆けだした。
黒い灰は、春の風に煽られ、遠く遠く流されていく。
それがその街に戻ることなど、あるはずもなかった。
誰が彼女を殺したか?
誰もが皆、黙して語らず。土の中に、眠る。