証言2:義弟はかく語れり
では、座ってください。長い話にはならないが、立ちっぱなしというのもなんだからね。
ん? なぜ、呼びとめたのか?
簡単だよ、あの兄の言葉だけが記事に使われるのは耐えられない。それだけだ。
だって、あいつの言葉は、いつだって独りよがりで、真実なんかじゃ、ないんだからさ。
だから、僕の話を聞いてくれ。僕と…彼女の、恋の話を。
義弟はかく語れり
彼女と出会ったのは、彼女が初めて我が家に来た時だった。
彼女が、兄の婚約者として訪れたその日、僕にもあいさつをしていった。それだけ。
それだけで、僕は彼女が、忘れられなくなった。
「よろしくお願いしますね」
にこりと笑って、僅かに首を傾げた。拍子に、さらさらとした髪が、風になびいて。それを慌てたように抑える彼女に、一目で。
一目で、どうしよもなく惹かれたのだ。
「ええ、こちらこそ」
にこりと笑い返して、そう返した。
恐らく、晴れやかな笑顔だったと思う。常と同じ、晴れやかな笑顔だったと。
けれど、その内心はちっとも晴れやかではなかった。むしろ、重く沈んでいた。
一目見ただけで、この上なく惹かれた少女は。
それを伝える前に、兄のものであることが決まっていたのだから。
僕と兄は交流の豊かな兄弟ではなかった…というより、兄と豊かに交流している人間を見たことがないけれど、ともかく、仲が良いわけではなかった。だが、厭うているわけでもなかった。その時、までは。
兄は長子で己はそのスペア。
幼い頃からそう扱われてきたが、不満もなかった。
ただ、あの時。あの時だけは、どうしよもなく不満だったのだ。
寡黙で愚鈍な兄が、生まれた順番だけで、あの少女を手に入れる。
なにもしていないのに、手にいれる。
その幸福に気付きもしないで、ただ黙っている兄を見る度、その心は強くなった。
だから…というわけではないが、手を伸ばしてみた。
といっても、なにか特別なことをしたわけではない。強引なことをしても、彼女を困らせるだけだと思ったから。
ただ、すきをみて、会話を交わした。
そんな僕に、彼女も答えた。
それなりに、親密になって行った。
いくつもいくつも、会話を交わした。
兄の前では委縮したように、どこか申し訳なさそうに笑う彼女が、僕の前では声を立てて笑う。
そのことが、この上なく幸せだった。
けど。
「わたしは、あなたの姉さんになるのですもの」
ことあるごとに告げられるその言葉が、どうしよもなく痛かった。
その時ばかりは黙りこむ僕を、彼女は不思議そうに見ていた。
そんなことを―――何度も、繰り返した。
そして、それに終わりが来たのは。
彼女を見つけて3度目の冬だった。
その日、いつものように、兄を訪ねてきた彼女は、いつものように、そのついでとして、僕のところにきた。学校であった出来事を聞き。僕もそれを返し。そうして、ひそやかに会話を交わしていたのだ。
「…もうすぐ、卒業ですわ」
「そうだね、春が来たら。僕は働きに出るし―――」
あなたは、兄の妻だ、と。言いたくなかった。
正式に僕の姉ですね、と軽く言うことも、したくなかった。けれど。
「…あなたは―――」
唇は、その“言いたくない言葉”を紡ぎかけた。
それが僕にできる唯一だと思いこんで、紡ごうと、した。その時。
すぅ、と指が伸びてきた。
白く、冷えた指が、唇に触れた。その言葉を防ぐように。
「わたし、は」
言って、彼女は小さく頭を振った。その拍子に、長い髪がゆらゆら揺れる。まるで、初めてであった時のように、ゆらゆら。
その姿に、僕は言葉を忘れた。彼女も、何も言わなかった。
饒舌で、良く喋る彼女が、黙りこんだ。いつも僕を真っ直ぐに見詰めた瞳が、ゆるゆると白い瞼に覆われていく。その長い睫毛は、小さく震えていた。そう、震えていたのだ。まるで、涙をこらえるように。
かぁ、と胸が熱くなった。
その熱さのまま、唇に押し付けられたままの指先を―――軽く食んだ。
びく、と彼女が震えた。けれど、瞼はとじられたまま。ただ、薄い唇は確かにある言葉を紡いだ。
―――もっと。と。
音なき声を、確かに聞いたのだ。
指から唇を離し、その白い頬に触れ、僅かに震える唇に、己のそれを重ねた。
僕はずっと彼女にそれに繋がる想いを持っていた。けれど、それを出してはいけないと思っていた。――しかし。
その時感じた彼女の体温は、全てを包み込むように、熱く。からめた舌から、互いに焼きただれるような錯覚を覚えた。僅かに盛れる、鼻にかかった声が心地よい。初めて聞く彼女の声が、快い。
名残惜しい気持ちで、軽く身を放す。閉じていた目を開く。瞼を閉じたまま、彼女は笑った。
少し、困ったように。けれど、いつものように。美しく。
「僕と―――…」
僕と、一緒に、来てください、と。
そう、言おうとした。
けれど、それは叶わなかった。
「わたし、帰りますわ」
美しい笑みを浮かべて、彼女はそう言った。
それは、いつもとまるで変わらぬ笑顔。まるで変わらぬ、いつもの表情。
そのことに、少しだけ気圧された。そうして、言葉を忘れた。その一瞬に、彼女はするりと腕の中から抜けていった。
「―――また!」
また、来てくれるね?
問う僕に、彼女は振り向いた。
そのまま僅かに顎を引くと、にこりと微笑んだのだ。
これ以上ない、明るい笑みで。兄には決して見せぬ、その笑みで。
だから、安堵していた。
気持ちが重なったと確信したのだ、浮かれるのも無理はないだろう?
遠くなる背中が、永遠の別れを意味するなど、その時、僕には分かるべくもなかった。
―――彼女が死んだと聞いたのは、雪が解け始めたある日だった。
それを聞いて、僕はどうすることもできなかった。信じたくなかったが、葬儀は過ぎ。信じたくなかったが、彼女は2度と現れなかった。交わした会話を、触れた熱さを、鮮やかに覚えているのに、二度と。
それからというもの、僕は怠惰になった。なにごとも、興味がなくなり、ただ彼女との日々を繰り返し思う。ああ、でも、兄はしきりに嘆いていた。…彼女が生きている時は、その名を呼ぶこともなかったくせに。今は日がな彼女を呼び、愛を語り。時には涙さえ流す。
滑稽だと思った。自分のものがなくなったと思い、泣く兄を。彼女が僕と心を通わせたことに気付かず、泣く兄を。
ただ、誰にはばかることなく愛しているといえるその立場には、少し、嫉妬しなかったとは言えない。彼女を本当に手にいれていたのは僕だ。しかし、それを表立てる機会はないまま、彼女を失ってしまったから。
だから、少し慰めてみた。今までろくな会話もしなかった弟を不審がることもせず。兄は嘆きを聞かせてくれた。
それは、大部分が意味をなさないものであった。愛していたのだとただ繰り返し、謝罪を繰り返すような。しかし、聞き逃せない言葉が、一つだけあった。
彼女を殺したのは僕だ、と兄は一度だけこぼしたのだ。
それを聞いて―――僕は、確信した。
彼女の煽った毒を渡したのは、兄だ。彼女の命を奪ったあれは、今も入手経路が分からないのだろう? 彼女がそんなものを手に入れられるはずがない! そんな不穏なモノとは無縁な女だったんだから! けど、兄なら簡単だ。あの人は医師見習い。薬を扱っている。知っているだろう、薬は毒にもなる。いくらでも調達できるさ。
ああ、無理やり飲まされた形跡はない? 知っているさ。愛する女のことだ。全部、知っている。その死にざまを、漏らさず聞いた。彼女自身が淹れた紅茶に毒が入っていた。その紅茶を彼女だけで淹れるのを、彼女の母も、大勢のメイドも見ているんだったね。事前に葉に混ぜておくこともできない。それは、彼女の私室から――しかもカギ付きの棚から取り出した、飛び切りの品なのだから。それにね、彼女の死んだその日、兄が家にいたのも、僕は知っているよ。
僕が言いたいのは、そんなことじゃ、ない。
兄が言ったに違いないのだ。あの寡黙さを捨て、詰ったに違いない。全て知っているのだ、と。そうして、毒を渡して。悔いろとでも、言ったのだ。
あの人は、自分のものがなくなるのを黙ってみているような人ではない。彼女は、裏切り者となじられれば、きっと泣くだろう。自分のためでなく、僕のためでもなく、その愚かな誤解を持つ兄のために。その哀れさを思い、泣く。
そして同時に、悟っただろう。
僕と彼女が結ばれることは、これでなくなってしまった、と。
兄が彼女を殺したんだ――と、恨んでいると、思うかい?
いいや、思っちゃいないよ。そんなことを思っているのは、兄だけだ。あの男は、そこまで彼女の中で重要だったはずがない。彼女があいつを良く言ったことなど、一度もなかった。悪く言ったことさえなかった。関心がなかったのさ。軽くあしらわれていただけだ。
そのことを、断言できる。彼女を愛していたのも、愛されていたのも僕だと、あの日、証明されたのだから。
そして同じように言い切れる。彼女を殺したのは、僕だ。僕があの日、みすみす彼女を帰らせてしまったから。1人にしたから、彼女は間違いを犯した。
責められる彼女を支えられるのは、僕だけだったはずなのに。
僕の楽観視が、彼女を殺した。浮かれた僕が、彼女を殺した。
もっと、兄に気をつけていれば。もっと、彼女の傍にいれば。あるいは、あの春近い日まで、彼女は待っていたのかもしれないね。僕が、彼女を迎えに行くことを。奪いに、行くことを。
僕の至らなさが、彼女を殺した。彼女に、絶望を与えてしまった。僕は彼女を守れずに、失ったのだ。なんて無様、なんて罪悪。その愚かさだけは、狂ったように嘆き続ける兄と同様かもしれない。…いや、同じものになど、なる気はないが。
だから、ねぇ、君。
彼女を殺したのは僕だ。そう思うだろう?