証言1:婚約者はかく語れり
さて、君は彼女のことを聞きたいのだったね? 彼女は知っての通り、僕の婚約者だった。誰からも愛される、麗しい令嬢だった。
…え? なぜ取材に応じたか?
そうだね、自分でも不思議だよ。今までは一切断っていたからね。
けれど―――ふと、語りたくなったんだよ。耐えきれなくなったと言った方が、正確だな。
なぁ、君。今から話すことを記事にするのは構わない。
だから―――心して聞いてくれ、僕の、懺悔を。
証言1:婚約者はかく語れり
「はじめ、まして」
はにかみながらそう言った彼女は、美しかった。
ゆるゆると波打つ長い髪も、ほっそりとした面立ちも、どこか不安げに下がった眉も、全て美しかった。
まだ愛らしいという印象の方が強いであろう齢だと言うのに、どこまでも美しかった。
「…はじめまして」
その美しさに、僕は軽く震えが起きた。
いいのだろうか、と震えてしまった。
この子が、将来、僕の妻となるのだと言う。
婚約者として、あてがわれるのだと言う。
それなりの家に生まれ、それなりの地位にあるから、将来が決められることに不満はなかった。そういうものだと思って育っていたから、構わない。けれど、興味もない。そう、彼女に実際会うまでは、そんなものに興味はなかったのだ。
しかし、今。
どこか申し訳なさそうな顔でこちらを伺う彼女に、興味がないとは言えない。
とくとくと煩く騒ぐ胸に、ああと嘆息した。
そうか、これが、恋というものか。
そっと窓の外を見る。春の日差しが、芝生を艶やかに照らしていた。
その春の日から、しばし時が過ぎて。
「…あ」
僕の向かいに腰かける彼女が、小さく呟いた。
どうしたのかと視線で問うと、彼女は笑う。控えめながら、その容貌の美しさをもっとも際立たせる笑みだと、そう思う。
それを見ていると、いつも言葉を忘れる。僕は常日頃口数の多い方ではないが、彼女の前ではさらに寡黙になってしまう気がする。
「…あの、今、珍しく笑っていらっしゃったから」
しかし、僕の無言を先を促すものと解釈してくれたのか、彼女は続けた。…これだからいけない。
伝えたいことが、伝えなければならないことがいくつもある。だが、沈黙を許してくれる彼女へ、一層思慕が募っていくことも、また事実だ。
「…笑ってた?」
「ええ。…こんなにいいお天気ですものね」
ぽつりと繰り返すだけの僕を、今日も彼女はとがめなかった。
くすり、と小さく笑って、レースをあしらわれた日傘をくるくると回す。それに応じるように、長い髪もふわふわと揺れる。
夏の強い日差しに照らされ、そのすべてが輝いて見えた。
自分が目を細めるのが分かる。眩しくて、幸福だと、そう思ったから。
「あら、また笑いましたね」
「…そう」
短く、答えてみた。
すると、彼女はその軽やかな足を止め、眉を少しだけ下げた。
「あの、わたしばかりはしゃいで、馬鹿みたいだとお思いですか?」
「いや」
不安げな言葉に、すぐ首を振る。
けれど、それ以上の言葉が出てこない。
呆れているのではなく、嬉しくて笑っているのだと、そう言えば良いだけなのに。
けれど、彼女は笑った。安堵したように、あるいはとろけるように笑った。
「良い、お天気ですね」
その笑顔のまま、彼女は言う。
静かに頷くと、彼女はまた軽やかに歩き始めた。
共にいても、ロクな言葉を交わさなかった。触れ合うことも、なかった。
けれど、僕はそれで幸せだった。
僕は―――幸せだったから、彼女も幸せなのだと。あるいは、彼女が幸せなのだから、僕が幸せなのだと。
愚かなまでに、信じていた。
―――けれど、“それ”が訪れたのは、彼女と出会ってから3度目の冬だった。
部屋の中央の暖炉の中、凍てつく空気を遠ざけんと薪がパチパチと爆ぜ、ひゅうひゅうと雪の鳴く声が遠い。
けれど冷えることは確かで、彼女の持つティカップからは白い湯気が絶えず立っていた。
僕もまた熱い紅茶を身体に流し込みながら、その白い指先を見ていた。
訪れてすぐはあれこれと日々の生活を楽しげに喋っていた彼女は、今、静かにカップを傾けている。
白い湯気の向こうの、赤い唇。紅を刷いているわけでもないのに、リンゴのように赤い唇。
薄く形の良いそれに、触れたいな、と。
ほんの少しだけ、そう思ったその時。静けさが、破られた。
「…あの」
躊躇うようにそう言って、彼女は僕の名を呼んだ。
「なんだい?」
僕は答えて、彼女の方を見た。そうして。
こちらへ伸びてきた彼女の手が、頬に触れた。
身を乗り出した彼女の唇は、僕のそれに重なった。
初めて触れた林檎の色をした唇は、どこか甘く香った気がした。
どくん、と、胸の奥がはねる。
彼女と出会ったあの時と同じ、否、それ以上の熱が、身体全体へ伝う。
―――気付けば。
伸ばされた手を、僕が掴んでいた。
赤いそこを貪って、舌に残る紅茶の滴すら吸い取って―――ふと、我に返った。
細い身体を、押し戻す。
彼女はそれに逆らわず、すとんと腰を下ろした。
「…なに、を」
呆然と問いかける僕に、彼女は笑った。
いつもと同じ、儚く広がり消えていくような―――微笑で。
なにを、とは、もう聞けなかった。わけを知らなかったのに。
言葉を忘れて、ただその微笑を見つめる。
なにかを聞けば、崩れてしまうと。
なにかを言えば、壊れてしまうと。
そう思って、口をつぐんだ。
ただ黙りこむ僕に、彼女は笑った。
そうして、なにごともなかったように立ち上がったかと思うと、いつもと同じように丁寧に礼をして、己が家は帰っていった。
いつもとは違うことをしたくせに、いつも通りだった。
やけに軽やかに歩いていくその姿を追うことも、ましてや呼びとめることも、不思議とできなかった。
―――それが、彼女との別れだった。
それから時は流れ、雪解けの季節になった頃。
彼女が死んだと、聞かされたから。
…君は、そのことを調べに来たのだろう?
彼女は、紅茶に混ぜた毒を煽って、眠るように死んでいた―――そこまでは、知っているね。
確かにその死に顔は穏やかだった。穏やかだったよ。死んでいると、思えないほどに。
信じられずに、唇に触れた。化粧の施されたそれは、あの日と変わらなかった。けれど、色褪せた唇に、あの日の弾力はなく。それが信じられなくて、どこかしこなく触れた。くまなく、確かめた。けれど。そのすべては、かたくなに強張っていた。
ああ、死んでいるのだ、と、そうしてやっと分かった。
そして―――悟ったのだ。
彼女を殺したのは、己だと。
ああ、なにをしたわけではない。殺人ともとれる死にざまだったと、僕だって聞いている。しかし、あれは自殺だ。彼女は、僕の所為で死んだのだ。僕のために死を選んだのだ。
どういう意味か? 簡単だ。
彼女は、絶望したのだよ。
あの日、僕が応えなかったから、彼女は死を選んだんだ。
あの日だけでなく、僕がロクに彼女に答えてこなかったから、彼女は。絶望したのだ。
口に出さずとも、伝わると思っていたのだよ。
そんなことをせずとも、共にあるだけで、幸せで。彼女もそうであると信じていた。
けれど、彼女は足りなかったのだな。愛してくれていたのだな。だから、そんなことでは、駄目だったのだ。だから、あの日、最後となったあの日、唇を交わした。
あの時、僕は、彼女を呼びとめなければならなかったんだよ。なにかが崩れたとしても、呼びとめて、抱きとめてしまえばよかった。
そうしなかったから、彼女は愛されていないと思った。そうに違いないのだ。
僕がもっと言葉にしていたら。僕がもっと触れていれば。僕が。もっと。この、狂いそうな愛を、伝えられていたなら。
彼女が絶望する理由など、なかったに違いない。
僕が、全て悪かったのだ。僕が、足りなかったのだ。
だから、なぁ、君。
彼女を殺したのは僕だと、そう思わないかい?




